✥  欲張り

タナッセ愛情ルート、未分化レハトとキスしてるだけ




 地下湖での出来事を、あれから僕は何度も思い返している。僕を見つめるタナッセのつらく苦しそうな顔、両腕を掴んだ彼の熱い手のひらと、背に押し当てられた岩の冷たさ。僕に覆い被さり覗き込んできたときの真剣この上ない眼差し。一瞬だけ触れた唇はふわふわとして、まるで現実感がなかった。
 彼が僕を突き飛ばすように解放して行ってしまったあと、僕は一人、湖に自分を映して眺めた。いつも通りの僕の顔。さっきの出来事は夢かもしれないと思えるほどいつも通りの僕の顔。唇に自分で指先を這わせてみても、もうなんの感触もない。
 ただ僕を覗き込んだ彼の真剣な表情を思い出すと、胸がどくんと鳴った。
 タナッセ、と口に出すとそれは胸を締めつけるような感覚を湧きあがらせた。もう一度彼に会いたい。今別れたばかりなのに今すぐ会いたい。


 雨の日に城内を歩くと人気はまばらで、それにほっとすると同時に人恋しくなる。だから木陰に消えていく見慣れた後ろ姿を追いかけたのは、必然だった。
 巨木の根元で顔を合わせ少し怒られて心配されて、なんとなく寂しさが消えたような気がしたのに、彼に手を取られて僕はひどく動揺した。心臓が恐ろしい音を立てて跳ね、呼吸がうまくできなくなる。
「……タナッセ」
 胸の中で濁流が荒れ狂っていて、それを静めないと僕は自分に殺されてしまう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。秩序だった言葉なんて出てきやしない。
 そして何故かこの感情を言葉にすると、ちょうど彼の名前になるのだ。だから僕は何度も彼の名前を呼んで、狂いそうな自分をなんとかしようと死にものぐるいになっている。名前を呼んで抱きつくと、少しだけ胸の中が平静になって息ができるようになる。そして抱きしめられて名前を呼ばれると、めちゃくちゃだった僕の中が整頓されて、ちゃんと彼の顔を見ることができるようになる。だから僕は何度も彼の名前を口にする。そのたびに彼が困った顔をして、繰り返しているとなぜか僕の目尻が熱くなってきてしまうのだけれど。
 体ごとすっぽりと彼の胸に抱かれて、彼の匂いに包まれて、僕はぴったりと彼に寄り添う。こんな風に座り込んで抱きしめられていると、僕が彼の一部になったような気にすらなる。
 しがみついていた腕を弛めて顔を上げると視線が合う。そうして見つめ合うと、さっきまでの胸の嵐が嘘のように静まりかえって、まっさらな気持ちになっている。
 まつげが絡まりそうなくらい顔を近づけると、自然くちびる同士が触れる。まるで事故のようなふりをして何度か唇を当てて、それから僕たちはちゃんとした口づけをした。お互いの体をしっかり抱きしめあって唇をくっつけると、初めから一つだったみたいにとてもしっくりくる。
 それはとてもすてきな経験だった。これ以上ないくらい自然で幸せな、祝福された行為だ。
 とろけて一つに戻るのだ。
「……タナッセ」
 唇が離れると僕はさっそく彼の名前を呼ぶ。目の前に翡翠の瞳がある。彼はまるで怒りに耐えるかのように眉間に皺を寄せてきつく僕をにらんでいる。
「どうしたの」
「……すまない」
 驚いて彼に聞くと、とたん剣呑な空気は霧散する。あとには視線を外して自嘲気味に笑む彼がいるだけだ。彼が何を考えているのか、正直まったくわからない。
「キス、したくなかった?」
 おそるおそる質問すると、短い沈黙のあとに、いや、とかそんなわけでは、とかの曖昧な否定の言葉が返ってくる。
「僕のこと、本当は好きじゃないの?」
 そんなわけないと思いながら一応聞いてみる。そんなわけない、と思う。
「……許されない、と思う」
 彼の言うことは全く意味不明だ。僕が彼に抱きついてキスをねだったのにどうして許されないことがあるだろう。それとも僕が許されないのだろうか。
「その、倫理的、というか……。私は……私はお前を殺しかけた男だ。これでは私にあまりに都合が良すぎる。
 ……おかしいだろう」
 下を向いてぼそぼそと言う彼は本当に悩んでいるみたいだ。そうは言っても例えば僕が彼を殺しかけて、じゃあこれでおあいこね、と言って笑いあうわけにもいかないではないか。だからそれはもういいのに。
 許しが欲しいなら僕に訊けばいいのに、僕が許しているだけじゃ足りないのだろうか。まったくなんて欲ばりなんだ。そう彼を責めるとなにか言いかけてまた閉じて、それを繰り返してからひどく性急に言葉を継ぐ。
「それは……それは、そうだ。お前の言うとおり、私は強欲だ。それもきっと、お前には想像もつかないほど」彼は僕を引き寄せて背に両腕を回し、きつく抱きしめてくる。「私は、お前に許されているだけでは足りない。私は……私はお前を手に入れたい」
 首元に頭を埋められ、めったに聞けない彼の本心が囁かれる。どちらのかもわからない心臓の音が響く。首筋に熱い吐息がかかって、胸の奥がまた、きゅう、と絞められるような感覚がする。もっと、もっと、と頭の中で誰かが言うのにもっとどうしたいのか、どうしてほしいのか分からなくて混乱する。
 ああそれにしても彼はわかっているんだろうか、こんな体勢では僕だって彼の耳元で囁くのが容易なんだということを。顔を上げると唇に彼の耳が触れそうになる。
「……手に入れるって、どういう意味……」
 そっと囁くと予想に反して彼は怒ったり戸惑ったりせず、僕の髪の中に指を入れて撫で、じっと見つめてくる。
「わからないか」
 こんどは僕が困ってしまって、口をぱくぱくさせて目を逸らしてしまう。言ってることは分かるけど、意味するところがいまいちよく分からない。そんなようなことをなんとかひねり出して彼をちらりと見る。
 彼はひどくつらそうに唇を引き結んで、もしかして泣くんじゃないかとちょっと思ってしまった。
 もう一度体が引き寄せられる。
 指があご先に触れただけなのに強く掴まれたような感覚に陥る。「レハト」もう唇が触れあっているのというのに、彼は僕の名前を呼ぶ。「……レハト」唇に直接ささやきかけるように、僕の名前を何度も繰り返す。僕は動けなくて、なんにも言えなくて、困ってしまう。
 そんなにまっすぐ見つめられたら目を閉じられない。そのとき唐突に、タナッセは年上で、成人した大人の男の人だと啓示のように理解してしまう。
「……タナッセ」
 目を開けたままするキスがあるなんて知らなかった。見つめられながら口の中をそっとまさぐられる。
 ずるい。
 どうしてかそんな気持ちが湧き起こってくる。タナッセはずるい。僕が子どもなのにもう大人なのは、ずるい。大人なのにそんなに欲しがって、欲張って、僕のなにもかもを奪ってしまうのはずるい。
 唇が離れて僕は倒れるようにタナッセに抱きつく。そうして息をして、ずるい、と言ってみる。分からないだろうと思ったのに彼は承知しているとでも言いたげに、そうだな、と答える。タナッセの胸の中にも嵐があるのだろうか。
 子どもにするように頭や背中を撫でられて、体が落ち着いてくる。彼の肩に頭を乗せて、ふう、と大きく息を吐くと、その様子を見て彼は小さく苦笑している。
「いや、いい。その……お前はまだそれでいいんだ」
 なんだと目で問うと、赤い顔で変にさっぱりと答えられてますますわからなくなる。全部大人になれば分かるのかもしれない。分からないままなのかもしれない。今はそれすら区別がつかないのだから、タナッセが僕を手に入れるのはもうちょっと先になるだろうし、答えが出るまではきっと僕の側にいてくれるはずだ。