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現代転生パラレル/殺害エンド?/ゲームの設定をいろいろ無視しています




 行き先に水族館を選んだのはタナッセのほうだった。どこか行きたいところはあると聞かれて、ふっと思い浮かんだ。水族館はどうだろうかとたずねると、電話の向こうからうんいいわねと軽い返答があった。クリアな音声はこまかな感情のひだまで正確に伝える。レハトはとくに思い入れもないようで、詳しい待ち合わせ場所を決めて電話を切るまでにはもうその場の話題は出なかった。
 タナッセ自身も水棲生物に興味があるわけではない。彼が好きなのは水族館そのものだった。たくさんの生き物たちが暮らす場でありながら清潔で、生活感がない。床にはじゅうたんが敷かれ、隅々にまで掃除が行き届き、障害物になるようなこまごました物はなく、すっきりしている。そして何よりもその静けさ。沈黙が尊ばれる場所は彼の味方だ。
 たとえば図書館がそんな空間だった。何も言わなくともよい、それは彼にとって心安らぐ、行為の不在だった。そのぶん饒舌に語る、利用者の言葉を吸い込んだような紙の束をめくり人の話をただ聞くだけでよかった。喋ることで話さないことを選んだ少年に、そもそも言葉を口にしなくとも良い場所は優しかった。
 水族館も似ていた。タナッセはごくたまに、何もしたくないときなどにひとりでそこにやってきて館内をゆっくり歩いた。じぶんもまた海の生き物の一匹になったような気分でゆらゆらと展示を見て回る。何も見なかったし、何も聞かなかった。だから水棲生物の名前もその生態も、人並みの知識しかないままだ。
「そういえば、魚は気持ち悪い生き物だったよね」
 ふいに隣から声がかけられ、タナッセはそちらへと意識を戻した。青い光の中を悠々と泳ぐ魚たち、その隣を静かに歩く少女の横顔も青く照らされている。
 タナッセは一呼吸して、遠い記憶を垣間見て返事をした。
「私は違うがな」
 言われてレハトは立ち止まり振り返って彼を見た。うまくのみ込めない様子で、ガラスに手をついたままきょとんとしている。タナッセは苦笑し、説明する。
「私は城で生まれ育ったのだ。子供の頃から見慣れているし、食べ慣れている」
 得心したようにレハトは、ああ、と頷いてまた水槽に視線を戻す。
「そっか。私はなかなか慣れなかったな、魚って」
「まあ、今は平気だろう」
「……そうだね」
 わずかに間を開けてからレハトは頷いた。その様子に今度はタナッセのほうが引っかかりを覚えて、改めて彼女を見た。
 レハトは泳ぐ魚を熱心に見つめている。薄暗い照明の室内に、ガラスの向こうはこちらこそが正しい世界だというように明るく照らされている。たしか影は罪のしるしだったと、またひとつ記憶が脳裡に浮き上がってくる。
「贅沢だね」
 その口ぶりはどこか不快そうだった。泳ぐ魚たちに向けた言葉とは思えない。
「私たち。あの頃から比べたら、とっても贅沢してるよね。見るためだけに魚を飼ったりなんかして」
 ガラスの厚みを確かめるように指でとんとんと叩くしぐさはものうげだった。白くて細い、女の手だ。短い爪には何も塗られていない。
「鑑賞目的もあるが生態調査などの学術目的もあるのでは……まあ、時代が違うからな。だが、私もお前も個人レベルで言えば慎ましやかになったように思うが。それともあちらの暮らしのほうが良いのか?」
「絶対いやだよ」
 タナッセのからかうような物言いに、「冗談じゃないよね」とレハトが笑い、つられてタナッセも少し笑う。
 確かにあの世界はうんざりするし、絶対に暮らしたくない。そこにいたときはそんな不満は思いつきもしなかったが。
 こうして笑い合えるようになったのはごく最近のことだ。
 タナッセには子供の頃から彼を悩ませてきた奇妙な記憶があった。時代も場所もわからない、中世風の世界で王子として暮らしていたというものだ。人に洩らせばカウンセリングを勧められることうけあいの、幼い妄想だ。
 その記憶が現実だったかもしれないと思ったことはなかった。ほんの小さな頃に読んだおとぎ話の影響だろうかとか、認めたくはないが自分にはこういう願望があるのだろうかとか考えていた。現代の価値観から離れた世界で貴人としてかしづかれたい、とか。あるいは己の内にひそんでいた、当代にはびこる功利主義や商業主義的社会よりも封建制と父権制に基づいた社会の方が優れているという中世主義の願望が歪んであらわれたのかもしれない、とか。どうしてこんなことを覚えているのだろうと不思議に思い、そのような記憶につきまとわれることをわずらわしく感じた。だが記憶は 昔見た映画のように不鮮明で生々しさはなく、別に害はないのだし、考えても答えが出るわけでもなしと、それ以上は気にかけないようにしていた。
 しかし去年のはじめに彼女と出会い、ややこしいことになった。
 その少女はタナッセと同じ世界の記憶を有していた。不審と警戒と、執拗な質疑応答の末、どうやらどちらも嘘をついていないようだと一応の納得を経てからは、二人は友人づきあいを続けている。
 これは前世の記憶というものらしい。
 にしてはあまりにおかしな世界だった。太陽は動かない、子供に性別がない、馬も牛もいない。ないないづくしの世界だったと――現代から見れば当然だが――漠然と思い返す。そうだ、ガラスもなかった。ガラスを見ながらタナッセは気づく。
 レハトと会って話していると、記憶(のようななにか)がどんどん掘り返され沸き上がってくる。かの世界の存在がいっそう鮮明になり、ディティールは細かくなっていく。
 タナッセを真に悩ませているのはそこだった。レハトだ。彼女の存在、彼女との対話によって記憶が呼び起こされる、あるいは捏造される。その傾向は良いことではないように思えた。記憶が本物か、疑似か、それはどちらでも良い。どちらにしても現在を生きていくことに不要であるのは間違いないからだ。
「まだ悩んでるの?」
 タナッセの表情を読んだのか、レハトがからかうように言う。
「どうしてお前が悩まずにいるのか、理解できない」
 レハトは記憶の中と同じように明るく、彼の言葉にぽんぽんとやりかえし、何も気にはしていないようだった。ひとごとのような態度におぼろげな不満を覚えないわけではなかったが、レハトの純朴な様子を見ていると気に病まずとも良いような気にもなった。
 そのような友人ができたことはタナッセにとって純粋に喜びであった。だから彼女の言葉にタナッセは深刻ぶらず、やり返すように答えた。
「ただの記憶でしょ。僕らの人生と関係ないって思わない?」
「その言葉遣いはやめろ」
 目配せするような表情で自分を「僕」と呼んだレハトをタナッセは反射的にとがめた。なれっこになったやりとりだった。 
 レハトはときどき今の自分とあの世界の彼をオーバーラップさせるような振る舞いを見せた。性別などないかのように乱雑な口調で喋ったり、急に環境が変わり戸惑っているような演技をしてみたり。
 はじめの頃は、タナッセも単に面白がっていた。何しろ奇妙な記憶だ。彼女がそれに浮かれて、二人の密かな繋がりを強調するような言動をしたとしても非難できない。そのうちおなじみのやりとりに愛着があるのかと思い反射的に応じていたが、今ではどことなく厭わしい。そのやりとりを持ち出すときの物言いたげな目つき、なにかを要求されているような態度にかすかな苛立ちが募った。
 今とは関係がないと言いながら、なぜ過去と結びつけるような言動をことさら力説しようとするのか、タナッセにはわからなかった。
「そうだ、タナッセは子供の頃から『私』なの? 今でも?」
 思いついたばかりの質問を、レハトは不意に口にした。仕様が無く、タナッセも律儀に答える。
「そう、だな。記憶……にあるかぎりではそうだった」
 レハトはそう、と微笑んで頷き、ゆったり歩き出した。水槽を離れ、展示場の中央を貫く太い柱にもたれかかる。タナッセに笑いかけ、彼が隣に立つと「見て」と囁いた。
 彼女が見ている方向に、タナッセも目をやる。
 観光地だからか、平日にもかかわらず水族館は混んでいた。レハトはそこにいる人々をひとりひとり順番に見ていった。ひとりを見て、次の人物に移る。タナッセはその視線の先を追った。父親らしき男性と、その子供。楽しげな二人組の女子高生。あごひげをたくわえた前期高齢者男性。リクルートスーツ姿の女性。誰一人として見覚えがない。誰も彼もが他人で、親しみを覚えるような人はいない。それが至極当然だった。
「もしかしたら、ここのみんなもあの世界の生まれ変わりかもね」
 私たちだけじゃなく、と小さくつけ加えてレハトは微笑む。
「人口が違いすぎるのではないか。あれは……とても小さな世界だった」
 失われし完全なる世界。ミニチュアールのように美しく、箱庭と呼ぶにはグロテスクで不完全な、水槽の中の世界だった。発展しないことの象徴のような、循環する世界。地獄だ。
 うーん、とレハトがうなり、しばらく考えてから続けた。
「雑誌で読んだんだけど、チベットの高僧は同時にふたりや三人に転生するんだって。徳が高いから。それで言ったら、私や、ええと、あの……なんだっけ。あの人たちなんて千人くらいにばらけててもおかしくないよ。きっとあの世界が滅んで、この世界ができたんだよ。世界五分前説」
「滅んだ記憶でもあるのか」
 流し聞きながらとくに深い考えはなく、そう反射的にたずねるとレハトの腕がぴくんと腱反射のような奇妙な動きを見せた。タナッセが隣を見るとレハトは特に表情も変えずわずかな笑みを貼り付けたまま、まっすぐ前を見ている。
「私は、あなたよりあの世界の記憶がたくさんあるみたい」
 目を細めて回遊魚を眺めるレハトは、彼の目にごく普通の少女に見えた。
「よく覚えてる。村での暮らし。母が死んだこと。城からの迎え。石造りの巨大な建物。初めて会った高貴な人。タナッセ、私があなたに出会ってどんな気持ちがしたと思う。私自身を証明するような人を目の当たりにして」
「……私たちが二人とも狂っているのではないのか」
 おまえ自身などではないと、言わせない気迫のようなものが込められた言葉だった。それらを避けるように無難な物言いで返すと、思ってないくせにとレハトは軽く笑う。
「私と同じだなんて、そんなこと一度でも思ってくれてたの?」
「狂人でなければ、大嘘つきか。自分の話を、私の妄想だと思い込ませるような口のうまさか。わからんが。……だが……本当かもしれないと思ったときは……私は、やはり、嬉しかったよ」
 どうして嬉しかったのだろうと、言いながらタナッセは思い出そうとした。私は狂っていないと、何も煩ってはいないと思えたからだろうか。
 お前を憐れんでいただけではないと、いつか言わなければならないと思っていた。
「私も、あなたに会いたかった」
 彼女の言い回しにはタナッセの告白とはいくばくかニュアンスが異なるような色合いがあった。位相のずれと違和感に戸惑い、レハトを見る。見返して屈託なく笑いかける彼女の額は白くつるりとして、しみひとつない。そこには何も見いだせない。
「あ、あっちでジェラート売ってるよ」
 戸惑いを抱えてタナッセが何かを言おうとすると、レハトが唐突に言って手を伸ばし彼の手を取った。
「あれって結構大きいから、ひとつ全部食べるとお腹いっぱいになっちゃうんだよね。半分こしようよ」
 はしゃいだようにしゃべりながら、レハトはタナッセの手を引こうとする。
「いや、それは……」
 ふんわりした女性らしい手の感触に胸がざわついた。親しさが過剰のような気がする。無理に楽しんでいるようなわざとらしさを感じる。それともほころびを見つけるこちらの心境にこそ穴があるのだろうか。レハトの真意がわからず、タナッセは曖昧な態度で濁そうとした。不快ではないが、積極的に喜んで受け入れる理由もない。
 前にもこんなことがあった。
「どうしたの?」
 立ち止まったタナッセを見て不思議そうに、無邪気に尋ねてくる。館内のゆるやかな空調が彼女の髪をさわさわと揺らすのが目に入る。
「聞きたいことがある」
「アイス食べたらね」
 もう一度引かれた手を強く握って引き留めると、奇妙に平坦な瞳が彼を見返した。
「あの……おかしな世界の記憶。あの年、お前が来たその一年のことをいちばんよく覚えている。覚えていると、言っていいのかわからんが。とにかく、記憶にある。私はあの日、お前に会った。「最後の日」だ」
 手を繋いだまま、タナッセはとつとつと喋った。彼らに審理の下る前日に、我々にそれは与えられる。
「そうだよ。僕はタナッセに会った。あなたがどうするつもりなのか、聞きたくて。城から出て行くって、言ってたね。遠いところに行くって。僕とはもうやたらには会えないだろう、みたいなことを言った」
「そう……そうだった」
 とにかくそれだけは確かなことだと決めていた。ここから出ていくこと。その決意の重さは今の自分にはうまく理解できないが、ずっと待っていたのだ。ずっと。
「そのあと、どうした?」
「そのあとって? 僕はがんばってねって言ってお別れして、次の日から篭りだよ。出てきたらきみはもういなかった」
「私は覚えていない」
「へえ」
「私の記憶はそこまでだ。あの日お前と話をしたことまでは覚えている。だが……そこからが……」
 ゆっくりと唇を噛んで、タナッセは下を向いた。完璧な空調のきいた室内で、じっとりと汗をかいていた。
「何が気になるの?」
 柔らかな口調で問いかけながら、レハトが一歩近づいて、空いたほうの手の甲でタナッセの頬を撫でた。優しい、慈しむような瞳の奥に探るような獣じみた光を見て背筋に冷たいものが走る。世界から音声が消えたような、きちんと地面に立っているという実感が消え失せたような息詰まる一瞬だった。
 やはり、あの記憶は正しいのだ。私はこいつに殺された。
 そうとしか考えられなかった。
 鳥文の鳴き声。見上げた直後に視界の端で陽光を受けてきらめいた光。風。喉に走る衝撃。熱い。いや寒い。息ができない。世界が滲んで見える。何も見えない。息ができない。痛み。気が狂うほどの痛み。混濁する意識、誰かの呼び声、誰かが私にふれている。何かをひっくり返すような騒々しい物音と叫び声が遠くなる。暗転する意識の中でちらちらと見え隠れする光。緑色の。
 そうだとしたら、なぜ今こうして私と会っているのかと、もう一度殺すためかと、タナッセは聞きたかった。いや、本当に知りたいのは、なぜ殺したのかだった。
「その後は」
 繋いだ手を見つめながら、タナッセはめまぐるしく考える。
「その後って、何?」
「篭りから出て、そして……その後は」
「どうだったかな」
 レハトは手を離し、タナッセの肩越しの遠くに視線をやりながら、投げやりに答えた。
「僕は死んだような気がするよ」
「それはよせと言っただろう。……なぜわざわざ、そんな言葉を使う」
 沈黙がおそろしく、思いついた言葉を並べながらタナッセは逡巡する。ほんとうに自分は知りたいのだろうか。何も聞かずにこのままにしておいた方がお互いのためではないのか。
 にっこりと笑う顔にタナッセは怯んだ。まだ思い出していないことがあるような、そのために責められているような気がして後ろめたかった。
 この感情もまた見覚えがある。後ろめたさ。いったいなぜこんなものを抱え込んだのだろう。なぜそうならなければならなかったのだろう。
「そうだね。昔のことは忘れよう。こうして今生であなたと会えたんだから、私はそれで良いような気がするよ」
 まるで正反対のことを繋げて肯定する言説に説得されそうになる。
 レハトは知っていたのだろうか。私の醜い、邪な心の内を。なんなれば己が彼に成り代わってやろうと画策していたことを。裏切りの報復を、信頼の毀損を命で贖えるべきだと、断罪されたのだろうか。
 この罪悪感もまた既視感がある。
「どうしてだ」
「どうして? おかしい? 私はあなたのこと、あの世界で一番の親友だと思っていたのに。それとも、私がいまは女になってるのが気に入らなかったりするの?」
「別にそんなことはないが……お前は女を選んだのか?」
「違うと思ってた?」
 どうだったろう。曖昧な記憶の断片は、未分化は未分化、としか教えてくれなかった。彼らはそういった存在であり、それだけだ。男でも女でもない。だからレハトのことは男だとも女だとも思ったことはないようだった。成人してレハトがどのようになるかは……
「考えたことはなかったな」
「そう。そうだろうね」
 レハトは改めて手を握り直し有無を言わさず引いた。髪がひるがえり、毛束の隙間から白っぽく明るい通路が見える。その一瞬をスローモーションのようにくぐりぬけ、タナッセはわずかにまぶしさを感じて目を細めた。
「こういう怪談があったな」
 思いついたことがそのまま口から飛び出して、タナッセは自分にしかわからない程度にうろたえた。
「なに?」
 口が勝手に動く。それを止めようとも思わない。
「下げが、『今度は殺さないでね』と、生まれ変わった相手に言われるというものだ」
 鼓動が強く胸を叩く。一回一回、ゆっくりとしかし力強く、巨大な質量を持った何者かが近づいてくるように。それはすぐそこまで来ている。
「……その人は、どうして殺したの? 何をされたの?」
「どうだったろうな。理由はまちまちだったような……だがその理由はほとんど取りざたされない。殺した相手が自分の子に生まれ変わり罪を断罪する、というのが基本構造だ。たしかまれびと信仰がどうとか、関わっていたような気がするな。専門ではないから詳しくは知らんが」
 レハトはふいと顔を上げ、水槽か、人々か、なにか定かではないものを見ている。その目は無感動で、何にも興味がなく、人々も魚も等しく無価値だと言わんばかりだった。断罪することはないが慈しむこともない、冷ややかな眼差し。そうしてレハトはふと唇をもちあげて笑い、タナッセのほうを見て、天気の話をするような気軽さで聞いてきた。
「約束、覚えてる?」
 どれのことだろうか。果たされなかった約束、すでに果たされた約束、口には出されなかった約束。あるいはそのどれでもない、そのすべて。タナッセは遠くへだたれし人々との決め事をいくつも追想した。しかしここに来たときからすべてはあらかじめ失われている。
 タナッセが黙っていると、レハトは小さな声で続けた。
「『お前たちは弱く小さい。故にお前たちを哀れもう。お前たちの魂は滅びず永遠の輪を描くであろう』。神と人との約束」
 約束は、宿命でも運命でもあるのだ。
「聖書の一節……だったか。本当によく覚えているな。そんなことまで……」
 感嘆よりは恐れに近い気持ちだった。神の名前すら思い出せない自分とは大違いだ。
「でも、あの世界の人たちは誰も覚えていなかったよね。神さまと約束したことなんて。覚えていない約束にいつまで縛られなきゃいけないのかな?」
「それは……我々のことか? 私たちは真実生まれ変わりだと、お前はそれが気に入らないと?」
 記憶さえなければよかったのだ。生まれ変わりだろうがなんだろうが、気づかなければないも同然なのだから。
「あの世界では、何が救いだったのかな。覚えてないんだよね。キリスト教だと天国に行くのがゴールで、仏教だと解脱して輪廻の輪から逃れるのがゴールなんだよね? チベット仏教だとまた違うんだっけ」
「さあ。宗教には詳しくない」
 そっけなく答えながら、タナッセは小学生のころに読んだ児童向けの社会学習本を思い出した。「社会」のコーナーに並んだ仏教の本。図書館で施されたビニールは黄色く変色し、端が乾いて裂け、尖った箇所で手のひらがちくちくした。本にはたくさんの地獄がおどろおどろしいイラストと共に解説されていた。がりがりにやせこけ腰布一枚をまいただけの人々が、うつろな顔で鬼にせき立てられ断崖から突き落とされる。鬼たちには誰も逆らえない。言われるがまま、焼かれ、煮られ、刺され、氷らされて何度も殺される。こんなのは子供だましだ。大昔の、無知な人々がつくりだしたたわごとだ。そう自分に言い聞かそうとしても怖かった。死んでからまであんなふうに苦しむのは嫌だ。
 地獄にも種類がある。骨まで燃えつきるような地獄もあれば、全身が震えその場から一歩も動けなくなってしまうような地獄もある。タナッセはそれを知っているような気がした。古い記憶のどこかに、それを体験したような気がして、急いで本を元の箇所へ戻した。
「お眼鏡に適って神の国へ入れてもらっても、いつかは追い出されてまた生まれ変わらなきゃいけないんだよ。悲惨だよね。煉獄にずっといなきゃいけない。ずっとずっとやり直し続けなきゃいけない。永遠を何周したら外に出られるの?」
 タナッセはレハトの姿を見た。すらりと伸びた手足も、女性以外の何者にも見えない体型も、白い肌も、彼女の姿はすべてどこにも過去の気配を感じさせなかった。
「終わらせなきゃ終われないのに、永遠の輪にはしっぽがない」
「……性格が悪いからな。神とやらは」
 それでいてこれほどにも囚われたままの姿もなかった。
「ひとごとみたいに言うんだね。自分だって変な記憶持ちのくせに」
「どうにもならないことは、あきらめて受け入れるしかない。……私は私で、ちゃんとやれる。こんなもの、どうということもない」
「私たち、人以外のものにはなれないのよ。約束は、神と人との間に交わされたのだから」
 水族館を選んだのは、タナッセのほうだった。レハトは別段なんの思い入れもなさそうだった。だが今は、その記憶すら自信がなくなっていた。
 置いていくようにレハトは先を歩いた。少しずつ離れてゆく距離を引き延ばしてしまいたくなる気持ちを抑えて、タナッセはついていった。展示の合間に屋外を通る通路にさしかかり、影の中から歩み出て階段を上るレハトの背が急速に明るくなっていく。日が差し込んできたのだ。曇り空の隙間から太陽の光がまっすぐに降りてくる。陽光が、白く塗られたコンクリートの階段を上がっていくレハトの細い肩や垂らされた腕、まっすぐ伸びた脚などから、影を消していった。
 そのときタナッセの目には見えた。冠を持つ、神の手。天上から振りおろされる巨大な白い手がレハトの頭に小さな冠を乗せて消える幻影が。
 レハトは立ち止まって振り返り、タナッセを見た。
 愕然とした表情で立ち止まるタナッセに、レハトは何を察したのだろうか。もしくは、彼女自身も何かを感じたのかもしれない。何かを、タナッセが生涯ついぞ感じることのなかった神の息吹、あるいは肩口からささやきかける誰かの声を。
 レハトは雷に打たれたように立ち尽くし震える手で額に手をやった。
「私……」
 指先が額をまさぐり、髪を乱した。つかみかかるような勢いで近くの水槽に倒れ込み、ガラスに映った自分を見た。ひっと喉が空気を裂くような音が聞こえて、ようやくタナッセの足が動いた。
「いや……!」
 爪で肌を引き裂こうとする指先の合間に、うっすらと浮かび上がる痣があった。
「いや、気持ち悪い、気持ち悪い!」
「だ……大丈夫。大丈夫だ、ただの影だ。何もない。しっかりしろ」
 しゃがみこんだレハトの肩を押さえて、タナッセは無益な言葉を操った。
「嘘……」
 がくがくと震えるレハトの腕を掴んでタナッセは叱咤した。大丈夫だと、どちらに言っているのか己にもよくわからないままに繰り返して彼女をなだめた。
「本当だ。何もない。しっかりして、よく見たらどうだ」
 レハトは怯えながらもなんとか顔を上げ、もう一度ガラスに顔を写した。そこにさきほどの影はない。レハトは長々と自分の顔を検分し、額の一部を指しどもりながら問うてきた。
「これ……これ、痣じゃない?」
「違う。……あえて言うなら、シミだろうな。痣との違いは知らないが」
 冗談だと言うことを示すためにタナッセは笑って見せようとしたが、あまりうまくはいかなかった。それでも意図は伝わったらしかった。女の子になんてこというの、とやはり引きつったような笑いを見せながら彼女は言った。
「鏡でよく見て見ろ。なんともない」
 ひどく顔が近いことに今更ながら気づいたタナッセが突き放すように言う。間近で見る他人の顔の、瞳が水をたたえているさまや、色の違う毛穴やら産毛やらがおぞましく、同時になまめかしくて気恥ずかしさが襲ってきたが、それもまた場違いな気がした。
 レハトはじっと鏡を見ている。通りすがる人がちらちらと振り返るのにも頓着せず、しゃがみこんだまま真面目くさった顔で、そこにおのれの運命を見いだそうとするかのように。
「休もう。どこか……そこらの店で良い、座って休憩しよう」
「……浜でいいよ。私、ちょっとお化粧直してくるから」
 すぐ戻るからと言い残してレハトはさっと背を向けた。建物の影に吸い込まれていく背中を見送り、タナッセはひとりになった。
 大丈夫だろうか。
 染みついた習い性はそう簡単には矯正されないらしく、反射のごとき心配をした。そして同じくらい、今すぐこの場から立ち去ろうとする力を感じた。何も言わず黙ってこの場を去ってしまいたいという誘惑は強く、しかしそれはタナッセの常識に照らすとあまりに礼儀を外れる。
 乱雑にかばんを漁り、革のシガレットケースを掴んで、中身を取り出した。
 あれはなんだったのだろう。
 いましがた見えた物に意識をやることで、それ以外のことは考えないようにつとめた。改めて検分したレハトの額は白かった。まぼろしだ。怯える心が見せた幻影だ。そうであってほしい。
 答えを保留するため火を付けて、悪習としか言いようのない行為に手を染める。この時間は答えを保留できる。この火が消えるまではこの場を動けないのだから。タナッセはゆっくりとたばこを吸った。上っていく紫煙に感傷を乗せて、真新しい肺にせっせと毒物を送り込み、やめなくてはと思いながら。
 レハトは宣言通りすぐに戻ってきた。背筋を伸ばしかかとの高い靴をはきこなして、毅然とした態度には先ほどの動揺はもう見られなかった。
「たばこ、吸うんだね」
 手元を見つめながら、確認するようにレハトが言う。なんと返したらよいのかわからず、タナッセは曖昧に言葉を濁した。自分でも、らしくない行為のような気がしているのだ。
「もう、いいのか」
「あなたが意図的に愚行権を行使するの、ちょっと信じられない」
 そうかもしれない、いやそうだろうか? 私はむしろそういう人間ではないだろうか? それを知ろうとしなかったのはお前たちのほうではないのか。
 自分らしくない、今の自分が知る「今の自分らしさ」とは外れた叫びが己の内から聞こえた気がしてひやりとした。良くない傾向だ。関係ないはずだ。突きつけようとする意図などなかったはずだ。
 手にしたものを灰皿に捨てようとすると、レハトがそれをとどめた。
「ね、ちょっとだけ、試させて」
「……よしたほうがいいと思うがな」
 一口だけ、とレハトは手を差し出し、タナッセは乞われるまま手渡した。楽しげに、未知の行為にただ心を弾ますように彼女は火のついたたばこをそっとくちびるにくわえた。
 タナッセが見守っていると、ぐぇ、と喉の奥からおよそ優美とは言いがたいうめきが漏れ聞こえた。
「うぇっ……気持ち悪い。うぅぇっき……きも、吐きそう。気持ち悪い。なにこれ。……ほんとにきもちわるい」
「だから言っただろう」
 少しばかり意地の悪い愉しみに、タナッセの声が笑った。
「なんでこんなもの吸うの、おかしいんじゃないの。くさいし、うえってなる。吐きそう」
 口元を押さえ、涙目になりながらレハトは執拗に抗議を重ねた。邪悪の化身そのもののように、けぶるたばこを自分から遠ざけるようと指先でつまんでいる。
「もう捨てろ。馬鹿だな」
 レハトは大きくため息をついて、そんなものを好んで嗜好しているタナッセに対して呆れたようなしぐさを見せた。わかんないな、と小さく呟きごく自然な動作でそれをもちあげ、おのれの額に押しつけた。
 灰色と白と黒の中に、オレンジの明かりがかすかに明滅している。あの小さな火が何百度という熱を持ち、薄いたんぱく質を焼いているのだと認識するまでに長い時間がかかった。
 喉がつっかかってしばらく言葉が出なかった。あっけにとられて反応が遅れたことは致命的なロスだった。
「な……ば……馬鹿か!」
 制止する彼には目もくれず、レハトは永遠とも思えるような長い時間、火のついたたばこを押し当てていた。
 彼女の腕をもぐ勢いで、不器用に手を振り払い叩き落とし、焦げた皮膚、真っ赤にただれた粘膜から血と黄みを帯びた体液がじくじくとしみ出しているところを見た。
「……馬鹿なことを」
 レハトは振り落とされたたばこを無表情に拾い上げ、今度こそ灰皿に捨てた。
 目をそらすこともできず真新しい傷口に見入っていると、レハトは小さなバッグから手鏡を取り出して意に沿わぬ刻印はないかと確認するように額を写した。
「貼ってくれない」
「その……洗ったほうが、良いのではないか」
「八百度だよ、雑菌なんて死んでるよ」
 差し出された絆創膏を受け取るのにためらっていると、レハトがよくわからない理屈を言った。正しいのかどうか判断つかねるまま機械的に受け取り、意味があるのかわからない絆創膏を貼ってやった。柔らかく濡れたようなまつげが間近に見えた。まつげは柔らかそうで、数本がかたまりになってまっすぐに伸びていた。視界に入ったそれが彼の中にとどまる前に、座りたいとレハトが呟いた。

 風が強い。浜辺では遮るものが何もないからだ。波が運んできた貝殻の破片が砂利道のように海と浜辺とに線を引いていた。死んだヒトデや赤黒い触手のような海草がそこに絡みついてへばりついている。すべてがむき出しの場所は原始の光景のようだった。
「汚れるぞ」
「気にするの?」
 砂の上に直接座り込んだレハトに注意すると、見透かしたように冷静な言葉が返ってきた。返事の代わりに黙って隣に座り、低い目線からそれらを見た。
 波の指先が累々たる死を引き寄せては押し返す。砂はじっとりと湿って重かった。海辺のイメージはいつも明るく、光を反射する水や、きらめく砂が潮騒に乗ってほこりたつようなものだったのに、ここはまるで違う。死ばかりが目につく。動くのは波ばかりだ。
「これまでに海に来たことはあるか?」
「ないな。これが初めて。……たぶん、ね」
 自分はどうだったろう、これ以前に海辺に立ったのはいつだろう。幼い頃に来たはずだ。水ばかりがどこまでも続き、波がこちらへと走ってくる映像が目に浮かぶ。確かに思い出にはあるのにそれは自分のものではないかもしれない。こうしてはるかな過去と妄想のような過去がないまぜに現在に同居している自分を不幸だと、タナッセは感じた。
「みんながいる地獄にはもううんざりする」
 レハトは鉛色の海を見ながら言う。季節外れのサーファーが幾人か、灰色の海に黒い点となり行きつ戻りつしていた。影と光が溶け合うような灰色の空、灰色の海、灰色の砂浜だった。
「病院に行きたくないのなら、よく冷やして抗生物質でも飲んでおけよ」
 相手にはかまわずタナッセは忠告しておいた。
「痛いだろうに、馬鹿なことを」
 最初のショックから抜け出して、ようやくそれらしい言葉が出てきた。彼は馬鹿なことを、無意味な、不条理なことをした。お前たちはけしてそれから逃れられない。浮かんできた声が内を通り過ぎていき、タナッセはしばらくそれについて考えていた。
「我慢できないほどじゃない」
「無駄だと思うぞ。……傷が治ったら元通りになるだろう。あれが……私の従兄弟だ。たしかあいつは自分自身の手でやったのだ。額の皮をナイフで削いだ。だが、そう……その下の肉にもそれはあった。徴が、体の内からしみ出してくるように淡く光っていた」
 言いながら、この話を他人にするのは初めてではないだろうかとタナッセは考えていた。あの世界では誰にも言えなかった話だった。報告すべき相手はそれを否定し、事前に拒否されてはそれ以上なにも言えなかった。
「骨まで削いだわけじゃないでしょ」
 しかしレハトは今の話にまるで心を動かされなかったようだった。冷たく一蹴してどうせ子供の頃の話でしょうと切り捨てた。
「何度でも焼けばいいよ、デュレ神父みたいに。最後に勝てばいいんだ」
「馬鹿なことを。あんなもの、そもそもが意味を知らなければただの痣だ。ここでは誰もその意味を知らない。だから何もあらわさない。ただの痣でしかない」
 言いながらタナッセは違和感に囚われた。不明瞭な感覚に警戒を覚えたが、理由は判然とせずレハトが口を開き、その感覚は霧散していった。
「これは僕の戦争なんだ」
 決然と宣言するレハトにはとりつく島もない。
 それは自分にはうかがい知ることもできない領域なのだろうか。
「私たちは弱くて小さいから、強くて巨大な神様に打ち勝つことなんてできないのよ。でも……」
 レハトはその先を言わなかった。勝ち目のない戦いだとわかってはいるが万一のことがあるからとか、行動することに意義があるとか、あるいは自滅するとわかっていても選ばずにはいられない道なのか、口にはしなかった。
 魂が永遠の輪を描く、けして発展しない世界。人も太陽も誰も真には死なず、ゆえに生きることのない世界。時間が死ねば完成するのかもしれない。しかしそのときを見る者はいなかった。
「……さっき、どうして驚いたの。私を見て驚いたでしょう。本当は何か見えたんじゃないの?」
「それは……」
「やっぱり」
「印を見たのではない。ああ、だが……同じかもしれんな」
 口ごもるとレハトがまた食い下がり、あきらめて見たままを言うことにした。啓示を信じていたわけではないが、願望を映しただけの幻影だと言い切るだけの確信はなかった。
「雲の切れ間から、日が差しただろう。それが、手のように見えた。それが降りてきて……お前の頭に冠を乗せて、消えたような気がした」
「――ひどい。同じじゃない、もっとひどい」
「見えたと、思っただけだ」
「それ、黙っていられなかったの。どうして言うの。本当の事なんて言わなくて良いのに」
「お前が聞いたのだろうが」
「聞かれたことに答えるつもりなんてないくせに。大体、ただのやつあたりなんだから見逃してよ。友達でしょ」
「もう、違う。私とお前は、もはや友人ではない」
「じゃあ、何? 敵? 私は、あなたにとって何?」
 どこかですれ違った気持ちをすりあわせなければ、共にはいられないなどとは思っていなかった。だが傷つけ合おうと言えるほどには、足りないものがあった。
「あなたはいつだって私の言葉を本気にはしないんだね」
「いつも真面目にとらえてきたさ。お前の望む解釈ではなかったかもしれんが」
 ぼそぼそと言いながら、だがその心を何もわかってはいなかったと突きつけられて、タナッセは敗北感のようなものに襲われていた。
 なぜあのときあきらめたのだろう。ただ一言どうしてだと、聞くこともしなかった。ああやはり、そうだろうなと、手を離した。これ以上傷つきたくないとでも思ったのだろうか。逃げることしか考えられなかった。
 友人だった頃、レハトは間違いなく話していてもっとも楽しい相手だった。思いもよらない発想を披露し、違う視点を提供し、新たな解釈をもたらしてくれた。好きだった詩人のように目にしていながら見えていなかったものを指し示してくれる人だった。それでいて彼の言葉は不快ではなく、わずかながら敬意のようなものを抱いていた。そんな相手は他にいなかった。
 それは解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい。
 目を上げると手の届くすぐそこに、小さな貝殻が半分砂に埋もれていた。ざらざらした荒い粒子の中に、場違いになめらかで白い貝殻はよく目立った。タナッセはそれを指でほじり、つまみ出した。しめった砂のわずかなかたまりは、すぐさま風に飛ばされていった。
「……お前にやろう」
 砂まみれの指につまんだ貝殻を差し出せば、レハトは不審げな顔をしながらも手のひらをさしだした。波の音は絶えず繰り返している。タナッセにはそれが不思議なことのように感じられた。鼓動が一秒たりとも絶えず続くことを神の業だと感じるように。止むことはなく変わらぬリズム、変わらぬ長さと音量でずっとずっと続いている。
「私に?」
 親指の爪ほどもない、白く濁った貝殻を見つめてレハトが言う。
「……砂ついてる」
「洗えば落ちる」
 レハトは受け取ったものをしげしげとながめた。そこになにかを見いだそうとして汚れた破片にまっすぐな視線を注ぐ。うつむいた睫毛が瞳の色を隠している。貝殻が落ちないようにか、手のひらを軽く丸めてそれを何度か撫でている。
「深爪、なおったんだね」
「深爪? 私がか」
「前は、深爪気味だったよ、よく」
 何のことだかわからず繰り返すと、レハトは言い聞かせるように教えた。
「そうだったか」
 言われてタナッセは反射的に爪を見るが、記憶にある以外の発見はなかった。伸びすぎても、切りすぎてもいないただの爪だった。
「それは私ではないな」
「……タナッセだよ」
「かつて私だったかもしれないが。何よりも……人は変わり続ける。人格も嗜好も趣味も、時と共に。良くも悪くもな。細胞ですら時間がたてばすべて入れ替わる」
 そんなに遠い昔の話をされてもなとつけ加えて、お前もあきらめろと繰り返した。
 風が吹き過ぎ、潮の薫りを残していった。潮の匂いはこの世界にしかない。いやあの世界にはないと言うべきか。タナッセはこの独特の匂いを心地よくは感じなかったが、嫌いではなかった。腐敗したプランクトンに因を成す、まといつくような重い薫りは野蛮な生命力に満ちている。それは平明で、小気味よい。
 あの世界の海は真水だった。海とは言えない。母なる豊穣の海、そういった概念はあの世界にはない。海は虚無だ。世界は人がつくり定義するものであり、虚無は世界に入れてもらえない。
 ねえ、とレハトが声をかける。
「殺してごめんね?」
 これは演技だろうか、それとも腹の底から出た言葉だろうか? たぐりよせた追憶は正しかったのだろうか。あの光景はレハトにとっても正しかったのかどうか、言葉だけでは、記憶だけではなにも保証できないままだった。
「……まあ、お互い様だからな」
 きっと、本当に知らないのだろう。不思議そうに見返すレハトの顔は、子供のようだった。たいていの子供は意思のない顔をしている。真の情熱を持たないことは子供であることの条件だからだ。
 しばらく迷ってからタナッセは正直に告げることにした。おそらく一種の開き直りだったのだろう。ものごとには優先順位というものがある。
「殺そうと思ったわけではないが……私にも、計画があった。隠し球だ。印持ちから印を奪う方法があると、ある者から聞いて、お前を相手に実行を考えていた」
「どうして?」
 驚愕でも嫌悪でもない表情を浮かべ、レハトはまっすぐにタナッセを睨みつけてきた。焦ったような、まだ間に合うとでも言いたげな顔だった。
「どうしてそれ、やってくれなかったの」
「簡単に言うな。そんな大それたこと……よほどの決意がなければ……」
 ひとりの人間を比喩的にも実際にも殺しても良いと思えるほどの覚悟、狂信があればこそ、己だけで世界を相手にするほどの決定を下せる。どこにも他に道がないことを知ったときはじめてゆける、奈落の底。あれは自殺だ。
「結局そこなんだね。身銭を切るほどには僕のことを愛してない、責任を引き受ける必要のない間柄でしかない。わかってたけど、今はあんまりはっきり言わないで」
「別に私は善意でそれをしようとしていたわけではないぞ。それこそ、一分の別なく己のためだ」
「同じだよ、そんなの。……寵愛者になりたかったの?」
 二人目の候補者から印を奪い、我が物とする。そこに込められた意味を、今のタナッセは実感としては感じられなかった。だが、弁護してやらなければならないと感じていた。あまりにたくさんのことがあったのだと記憶は叫ぶ。過去の己の願い、屈辱、苦しみ、哀しみ、信じるもの。正義。真実望んだこと。人生の全てを込めた一撃。
「お前に言って伝わるか、自信がないが。ごく簡単に言えば、神を殺すためだ」
「かっこつけた言い方しないで、わかるように言ってよ」
「格好付けているわけではない。逆だ。……ああ、いい。もう過ぎたことだ、何もかも。今さら言っても仕方がないし、私も言う気はない」
 それはひどく泥臭い。地を這う蛇が高く空を飛ぶ鷹の首に深く牙を食い込ませるような、そんな妄想にも似たはるかに遠い幻想の甘い夢だった。
 この幻想は誰にも理解されない。タナッセがどうしてそうまで己の正義の実現にこだわり、渇望したのか、それが己自身とわかちがたくあるのか、誰にもわからない。あるいは誤解して理解される。
 仕方のないことだった。
「私が唯一信じているものを教えてやろう。神だ」
「……ウソ言わないでよ」
 だがそれこそ、彼が信じる正義の根本なのだった。
「神の意志、御心が。だから私の唯一信じられるものを殺し、そして……生き延びたかった。生き残りたかったのだ」
 どうしてそこまで追い詰められなければならなかったのだろう。その疑問を、タナッセは振り切った。すべてはもう手の届かないところにある。彼はもはや、今では他人であるはずだ。
「お前が言ったのだぞ、私がお前の言葉を真面目には聞いていないと。……わからんか。まあいいさ。もう考えなくていいことだ。……こんな事は、二度と考えない」
「でも、実行しなかった」
「そうだな。友人を危険にさらしたくはなかったからな」
「それで私に殺されたわけだ。見誤ったね」
「まったくだな」
「こっち見て喋ってよ!」
 苛立った声がタナッセの意識をつかんで強引にそちらを向かせた。腕力にものを言わせるような暴力的な働きに、タナッセは乞われるがままレハトの顔を見た。この貪欲、強欲さ、素直さ。タナッセは感服し、ほとんど敬意すら抱きそうになる。殺した相手を前に卑屈になるでも高圧的なるでもない。実直と呼んでもいいだろう。今度は殺さないでと言ったところで彼女は怯えもせず、喜んで受け入れるのだろう。
「お前はまさしく神の寵愛者だろう」
 私はお前になりたかった。お前にこそ、誰をも軽蔑しながら同時に誰からも尊敬されるような、真に自由であると裏打ちされた二人目の寵愛者に。
「呪われてるって言いたいの」
 レハトの目の奥に、炎のような怒りがゆらめいた。
 お前はきっと今生でも選ばれたものでいられるだろう。私とは違う。誰とも違う。あの人とも違う。
 タナッセは彼女との間に横たわる底の見えない深い断崖を見知った。それはある意味で、他人と、自分とを分けるものだ。立場でも役割でも志向でもなく、他者とはそのようなものなのだという、根源的な相違が身にしみた。
「違う。いや、そうなのかもしれん。強い呪いは祝福と変わりがないからな」
 神の言葉を継げる御使いのように彼は淡々と述べた。
「本当にそれだけだったの? 自分のためだけ?」
「例えば、己の信じるもののために行動することで利他的な側面を見ることもできるだろう。だが結局は、それすらも己のためだ。私は世界……あの世界に、良きことをもたらそうと考え、行おうとしたわけではない」
 素晴らしい人々ははるか高みにある神の国へ、悪人は魔の国、地の下にやられる。スイートルームが下層にあることはない。タワーマンションの世界だ。
「私に救われてはくれないんだ」
「選べるわけではないからな」
 しばらく時間がたった後でレハトがぽつりと言い、そうだなとタナッセは返した。
「神の裁き、神の声をずっと望んでいたが……これがそうなのかもしれないな。だが私は人が解釈すべき御徴を好き勝手に了解するしかない」
 人の身のうちにあり心が囁く、天の梯子ではなく、そんなものではなく……
 言葉を探しながらぽつぽつと口にしていた声はだんだんと小さくなり、やがて消えた。海風が言葉をさらってゆく。タナッセは許した。許すことと、あきらめることはほとんど同じことだ。レハトが何を許し、何を許せなかったのか、タナッセにはわからずじまいだった。
「お前と会うのもこれで最後だ」
 うん、と頷いてからレハトはつけ加える。
「来世は他人が良いね」
「……そうだな」
「私は誰もいない天国に行きたいな。あなたはどうか、知らないけど」
 タナッセは水槽の中を終わりなく回遊する生き物を思う。私たちは魚にはなれない、それが神との約束だから。私たちは水族館から出られる。しかし、私たち自身からは出られない。
 どれほど空中を歩いても神の国にはたどりつけはしない。