✥  この世の王国 [8][完]

完結です。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。




 鹿車から降りて帰還の挨拶を受けていると、甲高い声が遠くから上下に震えながら近づいてきた。
「父さまー! おかえりなさーい!」
 子どもは笑っている。声を聞くと、タナッセの心はふっと軽くなった。あの、ただ生きることにすべての力を無尽蔵に注ぎ込む、いのちそのもののような生き物が、祝祷を捧げるように両手を広げて駆け寄ってくる。そして、自分はその存在を利用している。
「父さま、これ! 見てー!」
 はしゃいだ叫びに目をこらせば、子どもは当人の身の丈をはるかに超す長尺の蛇を片手で振り回していた。
「ば……」
 剥き出しの笑顔を惜しげもなくさらして駆け寄ってくる姿に、一瞬、何かを思い出しそうになった。幸福な遠い過去の残像がばらばらとかけらのように降ってくる。
「馬鹿かお前は!」
 一度として父が声を荒げたところを見たことの無かった子どもは、その怒声が自分に向けられたことをすぐには理解できなかった。分かったのは父の反応が自分が考えていたものとは違うということで、とりあえずは駆け寄る足を止めて、その場できょとんと父を見上げた。
 タナッセは走り寄って子どもからうごめく生き物を取り上げた。頭をつかんで口を開かせないようにして、湖まで大股で歩んでそこに捨てた。ひどく焦って、必死だったので危険だとか、汚いだとかは考えなかった。自由を取り戻した蛇はその場で身をくねらせ、それから何事も無かったように水中を走っていった。
 その優美な姿を名残惜しそうに眺めていた子どもは、父親にきつく肩をつかまれて頭を上げた。
「この馬鹿者。噛まれでもしたらどうするつもりだ。痛いなんてものではない、血も出るし、熱も出るのだぞ。中には毒を持つものもいる。そうなれば……。とにかく、とにかくだな、無闇にさわるな。そもそも不衛生極まりないだろうが」
「父さま、怒った」
「当たり前だ。なんて馬鹿な真似をする」
「かっこよかったのに」
「まだ言うか、この阿呆。もうしないと、約束しろ」
「……もうしません」
 慌てた侍従たちが寄ってきてなんとか取り繕うと説明を始めた。
「申し訳ございません、殿下……お着きになったと聞いて、飛び出していかれまして……」
 よく教育しろと叱責してから思い直し、子どものすることだからなと同調した。それから、未練たらしく湖をながめている子どもの手を引いた。自分が守らなくてはならない存在なのだと強く感じられたが、別の思惑が確かに存在することも否定できなかった。
 子に支えられてようやく立っていられる自分を、息子に寄生する存在のように感じた。ここにある者たち、できる限り自分たちに好条件を引き出そうと画策し奔走する貴族たちと同じ、利用しようと群がる彼らと自分は同じだ。自分のことだけ、自分の利益だけしか頭にない。いやそれとも単に、親は子に逃避するというだけのことかもしれない。
「ね、父さま、しばらくこっちにいるんだよね」
「ああ、そうだ」
「父さま、一人だとさみしいでしょ。今日は僕がいっしょに寝てあげるからね」
 小さな王様が先ほどの出来事などすでに忘れたように話しかけてくる。その発話に、さみしいという言葉が混じっていることを発見する。
「……そうか、それは嬉しいな。勉強も見てやらねばな」
 少年は不満そうな顔をしたが、大人しく頷いた。その素直に自分の心をさらけ出す態度を可愛らしいと思う。同時に心の片隅に振り切れない羨望と、かすかな不快感が混じる。
 母上、と心の中でタナッセは呼びかける。
 あなたも同じ気持ちでしたか。義務を負わぬおのが子に、羨望と憎しみと喜びを抱きましたか。それともやはり単に無関心でしかなかったのでしょうか。レハトが自分と同年であれば良かったのにと考えたことはありますか。
 タナッセはまばたきより長く目をつむり、疑問を忘れることにした。もうすべては遠い過去だ。

「お前はどうしてそう、書き物のとき頭を下げる。背筋を伸ばせ。目を悪くするぞ」
「うー」
「うなるな」
 約束通り勉強を見てやりながらタナッセは注意し、子どもはしぶしぶ背を正した。
 しばらく教本をにらんでいた頭がふいに上がり、問いかけられる。
「ねえ父さま? あのね、レハトって、誰」
「誰って……お前の母親だろう。広間の……広間に肖像画があるだろう」
 彼は心底驚いたようで、半開きになった口から感じ入ったような声を出した。
「僕、レハトって人とお母さまは、別の人だと思ってた」
 どうしてそんな思い違いをしたのか訊ねても、本人もよく分からないらしく曖昧な返事があるばかりだった。
「レハトって人……じゃなくて、母さま……は、どうして死んだの」
「体が、弱かったのだ。寿命だ」
「じゅみょうって何?」
「神が定めた、人の……生きられる、時間の長さだ」
 しばらく首をひねっていたが、「ふうん」と理解したのかどうなのか曖昧な返事をした。
「ほら、今は勉強の時間だろう。関係のないことは後にしろ」
「関係あるよ、神さまの話だもん」
 開いているのは聖書で、今は神学について学んでいるときだった。とっさに言い返せずにいると、子どもは追求してきた。
「母さまってどんな人だったの?」
 ごく軽い口調の質問に、それだけで息が詰まった。
「どんな……と言われてもな。一言では……なんとも」
「えー? べつに、一言でゆわなくてもさ」
 父の言葉に、少年は戸惑うような返事を鼻に皺を寄せて言った。
「――お前のそういう態度は、あれと似ている気がするな。城内にも、直接見知った者がいるだろうから聞いてみると良いのではないか。……あとはそうだな。広間に肖像画が掛かっているな」
「そうゆんじゃなくて、父さまは、母さまをどう……どう……見てたのか、とか? 聞きたい」
「どうしてそんなことを聞く」
 思いがけず語気荒くなったことに慌てて、タナッセは取り繕うように何気ないふうを装った。
「何か言われたのか。くだらん噂に惑わされるなよ。伝聞で断定するなど、馬鹿馬鹿しいことだ。……私からの話でも同じだ。あれは……ただお前の幸せばかりを願っていた。それだけはわかってやれ」
 言うべきことをようよう口にして、タナッセは息を詰めた。これだけは自分が伝えなければならない、使命だった。
「……」
 子どもはしばらく返事をしなかった。困ったような、なだめるべき相手を前になにを口にすべきか考えているような、抑えたような表情だった。
 子どもは長ずるにつれ母親に似てきた。そのことは彼の慰めになった。私に似なくて良かったと、額の印だけでなく思う。もしも自分に似ていたなら、自らの相似のような子どもが額に輝かす姿を直視できただろうか。あれの子どもなのだと思えばこそ、ここにいることもここにいる人々もどんなことにも耐えられるというのに。
「僕のこと、なにか言ってた?」
「それは、もちろん……。そうだな。色々なことを。心配だとか。幸せになってほしいだとか……。色々な、ことを……。……死んだ人間が生きている者を縛るのは良いことだとは思えないとも言っていた」
「ふうん」
 子どもにわかって欲しいなど思いたくはなかった。これ以上
 ろくでもないことを言い出しそうで恐ろしい。
「……会わせてやれなくて、申し訳ないと思う」
 正直な気持ちを言うと、まるで意思のないようなぼんやりとした顔で見返される。
「覚えてはいまいが……赤ん坊のお前の額に自分の額を当てて、印を合わせていたよ」
 そうして、じんわりあったかい感じがする、とタナッセに報告した。それから長く黙ったあと、可愛い、と呟いた。赤ん坊のぱんぱんに腫れたまぶたやむちむちした手足をつついたりさわったりして、レハトは笑った。
 誰も恨まないでほしい。
 子どもには誰も恨まずに生きて欲しい。たぶん無理だと思う。そんな人間は見たことがない。みなそれぞれの地獄を抱えていた。
「母さまには印があったんだよね」
「……そうだ」
「父さまの、お母さまにも印があったんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあなんで父さまにはないの?」
 おかしくないの、と続けて聞かれる質問に吹き出しそうになる。おかしくなんてない。
「その器ではないからだ」
「うつわ?」
「相応しくないということだ。お前たちは神に選ばれた存在で、私は違う。だが別に、今は気にすることはない。お前たちは死後神の国に行くことが決まっていると、それくらいだ」
 答える準備はとうにできていた。
「父さまは、天国にいないの?」
「そうなるな。だが、レハトが……お前の母がいる。生きている間は私といればいいが……いつかは母に会えるぞ」
「べつに、会いたくない」
「……どうしてそんなことを言う」
「会ったことないし。べつに……いいし。お父さまと同じとこでいいし」
「私は会いたい」
 違うことを言うつもりだったのだが、その言葉はタナッセの口からするりと出てきた。
「……だから、私の分も甘えてくればいい」
 あいつは私に笑いかけた。ずっと昔のことだ。
 ひどく喉が渇いてひきつれる。だというのに唾液が口の中にじゅわっとあふれ出て、声を出すのに苦労した。
 これはなんだろう、気持ちが悪い。
 不満そうに、あるいは困ったように子どもはきゅうと眉を寄せ唇を結んでいる。
「……ずっとずっと、先のことだ。ひとまず、今はこれを仕上げよう」
 はあい、と間延びした返事をして子どもは教本に戻った。小さな子ども特有の乳のような匂いが空中にただよう。
 本当だろうか。自分が口にした言葉を思い返してタナッセは自分に問いかけた。会いたい。本当に? むしろもう二度と永遠に顔を見たくはないのではないか? 会わなければ心乱されることもさらなる別離に怯えることもない。彼女の言動に一喜一憂することもない。
 かつて、この子どもを殺すべきだったと思っていた。それが自分の義務だったと考えていた。存在しないように。産まれてこないように。選択肢を奪ってしまうように。ひとりでやっていけるだろうか、子を疎ましく感じたり、レハトを恨んだりしないだろうかと怯えていた。
 いまではもう、自分はいつか逃げるかもしれないと考えることはない。
 彼女を死に追いやっただけではない。抱えきれない罪を隠して、タナッセは子の細く柔らかい髪を指で梳いた。

 腰の辺りが冷たい。濡れて張りつくような気色悪さを感じてタナッセは早くに目を覚ました。外はようやく明るくなりかけた頃だろうか。困惑しながら上掛けをまくり上げると、なぜだか布団がびっちょりと濡れていた。隣で寝ていた子どもも起きたようで、上半身を起こした。
「なんだ、これは?」
 単純に疑問を口にしただけだったのだが、子どもにはてきめんに効いた。責められたと解釈したのかびくりと体を震わせて丸める。
「……ああ。お前か」
 夜尿だとわかるまで多少時間が要った。侍従を呼んで片付けるよう言いつけ、体を拭かせる。子どもも大人しく拭かれている。それから着替えた子の前に立った。
「寝る前に水を飲むなと散々言われていただろう。侍従らの忠告を聞かなかったのか」
「……僕じゃないもん」
「何?」
「僕じゃない。父さまがしたんだよ」
「…………。お前な……」
 叱られて泣くかと思われた少年は、思いもかけない反撃をした。
 タナッセは気が抜けて、肩から力を抜きながら息を吐いた。笑ったような声が出た。
「怒ったりしないから、人のせいにするのはやめろ。癖になるぞ」
「……もうしません……」
 抱き上げて、失敗することはべつにいいんだと言い聞かせている間、タナッセの子どもは小さくなって父親にしがみついていた。
 癒やされる傷はふさがった傷だけだと考えていた。解決した問題だけが風化していくはずだった。けれども彼は呪いのように癒されていく。回復していく。
 傷ついていたかった。取り返しがつかないほど深く傷つき、できれば死にたかった。そうでなければ死んだ女に申し訳が立たなかった。あんな死なせ方をしたレハトに。
 けれども彼女をかき抱いたときのあの胸の内側から誰かが叩き叫ぶような狂おしい情動はもう二度と訪れなかった。皮肉にも、子どもを相手にしているとそれがわかった。タナッセは確かに子どもを愛していたが、それは同じ血が流れているからで、タナッセの心臓を持っているからではない。彼の心臓はレハトが持って行ってしまった。
 朝食の席で、子どもは大人しく、恥ずかしそうだった。少年の隣にレハトが微笑んで座って、慰めの言葉や気を紛らわすような声をかけているような気がした。
 話したいことがあった。レハトに会って、話したいことが。今なら色々なことが分かるはずだ。あの細い体の中に釣り合わない空恐ろしい熱量を抱え込んで、あれは平然と暮らしていたのだ。飲み込んだ言葉をそのまま胸の中に蓄えて、本当のことだけは何も言わず、それもただ自分を殺した男を苦しませたくないという理由それだけで、表面だけは湛然と。
 私たちは互いに被害者であり加害者であり、共犯者であり戦友だった。
 たとえ永遠の愛がかつて存在したとて、すなわち恒常的な幸福を約束されたわけではない。なぜなら幸福とは一時的なものだからだ。一瞬のことだからだ。満ち足りた気分になることなどむずかしいことではない。愛が人を正気にするわけではない。


 寄り合いの合間に部屋に戻ると、包みが届いていた。差出人はヤニエ伯爵。手紙というほど薄くはないが、荷物というほど厚くもない。いぶかしく思いながら侍従から受け取り、目についたはさみで開けようとしたところ、すべり落ちて鋭い刃が手のひらを切り裂いた。しまったなと思う間に、白く薄い筋から血が丸く盛り上がっていく。
「だ……旦那様!」
 鋭い悲鳴にタナッセは我に返った。侍従は真っ青な顔で駆け寄り、主人の手首をきつく掴んだ。
「少し切っただけだ。そう慌てずとも……」
 主人の言葉が耳に入らないのか、侍従はひどく慌てて医士の手配を叫んでいた。ヒステリーのようだなとタナッセは他人事のように思った。
「手紙を開けようとしただけだ。小刀が見つからなくて、手近の……はさみで横着しようと」
 説明しようとするタナッセを制して、侍従は布できつく傷口を押さえた。押さえつける痛みの方が切り傷よりよほど痛かった。
「大したことはない」
「ええ、そうですね」
 切り捨てるような物言いから、怪我の程度を問題にしているのではないことはわかった。主人のうかつな振る舞いに苛立っているのだろう。
「悪かった。こんなことで手間をかけさせた」
 侍従はタナッセを一瞬ねめつけ、すぐに目を伏せた。
「……いいえ」
 タナッセは傷口を押さえている布を自分で持ち、大したことはないと、もう一度言った。今度こそ、きっぱりした語勢をもって。やってきた医士も大したことはないという態度で、傷口を消毒し布を固定して、水につけないようにと言い含めただけで退出した。
 荷物は古い原稿だった。ヤニエからの伝言は素っ気なく、身辺整理をしていたところ発見したので送るとあった。彼女の元に置いてきた昔の原稿、ディレマトイとして本にした詩の原文が数枚入っていた。いつだかの師の言葉が思い起こされ、まさかもう一度書いて見ろと叱咤しているつもりなのだろうかと思い、そんな感性の人物ではなかったなと思い直す。それこそただの期待だ。
 かさかさと音をならし紙束をめくり、タナッセはなんとも言えないため息をこぼした。世界から呼びかけられている気分だった。
 ここのところ、叔父を思い出すことが増えていた。彼についてはほとんど知らないと言ってよかった。よく知る人たちももういない。だからタナッセが考えるのはわずかな思い出と、彼がなしたことと、なさなかったことだ。
 継承者が生まれたとき、なぜランテの屋敷に留まらなかったのだろうか。なぜ海へ出て行ったのだろう。小さな息子を見るたび、私にはできそうもないとタナッセは思う。何ヶ月もかけて船を造り上げて、幼い子を置いて、戻れないとわかっている彼方へただ一人向かうなど、どんな妄執に囚われたのか想像もつかない。けれども彼はそうしたのだ。息子を頼むと、この自分にもわざわざ言い残して。それは何と淋しいことだろう。あの穏やかな顔で、虚無の向こうにしか明日を見いだせないほど私たちの世界は色あせていた。その気持ちはよくわかるだろうと影がささやき、タナッセもわかると返事をする。
 おそらく母はその要因をある程度は把握していたのだろう。だから引き留められなかったのだ。そこまではわかる。
 愛とは無力なものだ。叔父が息子を大切に思っていたことは、彼の態度からよくわかった。それでも覆せない闇が彼の中にあり、飲み込まれた。愛されていた過去の光は今を照らせない。
 もしも子がなければ私は自死を選んだだろうか? たぶんしないだろう。迷って悩んで、保留し続ける。そういう人間だ。
 立ち上がり、図書室へと向かうことにした。本を借りるためだ。ディレマトイの詩集は難なく借りられた。
 詩集を読むことは難儀した。この世界でもっとも読み込んでいる人間であろう自分であればこそ慎重にもなる。そうして昔を思い返そうと、どのようなつもりで書いたのかを見いだそうとしているうちに、過去の自分を理解しようとしているわけではないことに気づいた。
 私はもうすでに、これを書いた人物ではないのだ。それはもう関係がない。送られた合図が、送り手と受け手で同じ意味をもつとみなしてこそ相互理解が行われる。つまりは誤解が。私はもうこのときの彼を「理解」することができない。言語は反復されてこそ意味をもつ。言語は死なない。言及され続け生かされ続ける。真の死が訪れることはない。
 どうしてこんなことになったのだろうと思う。こんな人生は想像すらしたことがない。あまりにもわけがわからない。

「あれはどうしている」
「すでにお休みになられました」
 いつも繰り返す質問をすると、判を押したような返事がある。老侍従はそう言おうと決めていた通りに行動した。
「そうか……」
 言いながら、タナッセは違和感に囚われたがどこに引っかかったのかはわからなかった。
 いや、間違ってなどいない。
 自分に言い聞かせて、タナッセはゆるゆると歩いた。私はいつまでここにいるのだろうと、城に居るたったひとりの子どもを思う。生まれた子が成人し冠を継ぐまで十五年。王責を退くまでもう十五年。最長でなら、人生の最後まで。本当に人生はわからないものだと思う。死ぬまで城にいることになる生涯なぞ、想像した未来絵図のどこにもなかった。放浪者となるよりあり得ないだろうと思っていたのに。
 その夜、タナッセは夢を見た。おくるみにくるまれて眠る小さな赤ん坊をそっと抱き上げ、薄明るい祭室へと連れだし選定印を自分に移す夢だった。
 もし彼女の死に泣く権利のある者がいるとすれば、彼がそのただ一人だ。
 そうしてタナッセは、夜明け前に起き出すことになる。誰も、とくに隣で眠る子どもを起こさないようにそっと寝台から忍び出た。冷えて乾いた空気の中をすいと歩いていく。窓の戸を静かにそろそろと開け、外を見た。そのまま窓際に腰掛けて朝の訪れを眺めていた。暗闇が薄皮を剥ぐように明るくなる。まばたきする間に世界は劇的に変化する。
 手にした詩集をぱらぱらとめくった。懐かしい感触だった。最初のページから読み直す。無様だった。どうしようもなく幼稚で感傷的で、自分自身のことで手一杯な。
 それはかつて愛したもの、ひとつひとつ言葉を選び、配置を考え、心血を注いだ。単語のひとつ改行の位置余白の過多にまで心を配った言葉の墓場。祈りの結晶のような本だった。
 仕方がないな、とうつむいてもらした笑いは誰にも見とがめられなかった。
 神はそこにあり、神があることを許してやろうと思う。
 すべての善の根源たる神を許すなど傲慢極まりない発想だったが、傲慢であることは正しいのだった。なぜならば、彼の世界で彼こそは世界の中心であり、その他のものは何もかもすべて彼に付属し従属するものだから。それが生きるということなのだから。
 そうしてタナッセはもう一度窓の外を見た。
 藍の闇にとけていた建物は自らを思いだしたように世界から分かたれる。うすく汗をかいて身震いし、おのれの輪郭を取り戻す。タナッセはそこにレハトの瞳を見た。湖のふちには林立するまつげの森があり、水をたたえた湖は澄んだ瞳で、中心に城がある。
 これを詩にしよう、いったい何年ぶりだろうかタナッセはその感覚を思い出していた。
 神が目をひらき腕を広げるこの天と地の狭間、朝もやが薄れゆき、赤茶けた荒野を、冷えた石の建物を、濃い緑の森を太陽が照らすさまを。真夜中の雨が花を開かせて、くたびれた農夫が歩く赤茶けた荒野を飾り、凪いだ湖面すれすれを鳥たちが群れて渡っていく景色を。美しいものが、美しくないものが等しくただここにあり、そこに自分がいる。一葉の揺らぎを、銀のようにまばゆい朝を。そのことを詩に記そう。自分がいる場所を書き記して目覚めた子どもに母親のことを話してやろう。
 私はここにいるのだと、タナッセは飲み込んだ。ここにいる者だ。
 ずっとここにいる。この小さな城、おのが血を分けた子と暮らすこの場所、閉じることなき瞳の上に。