✥  この世の王国 [7]




 その婦人の装いは流行を押さえながらも趣味よく、洗練されていた。そっちょくで優雅なふるまいと、時好に通じた話題で人々を退屈させなかった。同卓の各々が会話を始めると、タナッセひとりに向き直り、とても上品にこびて見せた。責の重さに理解を見せ、同情を匂わせ敬意を示した。
「――生きると言うことは、果てのない苦しみでもあります」
 カップからくちびるを離しながら彼女は何気ないふうに言った。それまでの態度から要領よく、上手に世間を渡ってきた手合いだろうと、少しばかりくつろいでいたタナッセは目を見張った。
「不躾ですが……奥方様を失った殿下の嘆きは大変なものだったと仄聞しております。私は二人の夫と、三人の子どもと死に別れました。身を裂くような……と言って本当に伝わるでしょうか。終わりのない苦しみでした。筆舌に記しがたい、誰かを呪わずにはいられないような苦しみでした。憎みもしました。何かは、誰かはわかりません。ただ憎みました。世界を、すべてを。それでも止まない雨はないのです。私は気づきました」
 彼女はタナッセを見つめて問うた。
「ただひとつ、人間を深淵から救うものはなにか分かりますか」
 こちらの答えを聞きたいわけではないのだろうと、黙って待った。
「それがなんだかお分かりになりますか?」
「……さあ。見当もつきません」
「愛です。――愛ですわ、それは」
 彼女は大きく息を吸って、得意げに語り出した。愛とはどのようにあらわされるのかを語り、どのような心持ちであるかを語り、なにが愛と規定されるのかを語った。タナッセはとうとうと喋り続ける婦人を見つめていた。彼女の瞳は燃えるようで、頬は上気し赤く染まり、情熱に溢れていた。美しいと言ってよかった。憎らしくてならなかった。
「愛。愛か、そうだろうな、愛さえあればどんな馬鹿でも幸せだろうとも!」
 カップを卓に叩きつけ、椅子を引くことも忘れて立ち上がった。
 あまりに激昂していたために周囲も自分自身すら目に入らず、それ以上の言葉も言えなかった。そのままくるりと背を向け、まっすぐに出口に向かった。
 扉をくぐるときに、この扉をくぐることはできてもあの門はそうはいかないことを、こんなことをしたら後が面倒になるだけだと、至極常識的な思いが頭にあったが足は止まらなかった。また失敗したのだ。
 入口と出口の本当の違いはどこにあるのだろう。
 場違いにもタナッセはそんなことを考えていた。これからのことでも、今しがたの出来事でも、彼女のことでも子どものことでもなく、誰とも関係のないことだった。正門の前でいつも向こうを見ていたいつかの少年はもういない。
 タナッセが出ていくと、静まりかえった広間に他人の真剣な怒りを前にした人特有の気まずい薄笑いが漂っていた。誰かが意地の悪い冗談を言うと、ほっとしたような嘲笑にとって代わった。
 互いに望むことが、子を儲ける第一歩だと世間では言われている。
 だとするならばレハトの懐妊は彼女が望んだからであり、そしてタナッセもそれを望んだということになる。ということはレハトを殺したのは夫婦の願望だ。つまるところ愛があったためにレハトは死んだのだ。肉体に致命的な損傷を与え、精神に癒えない傷を刻みつけた。
 自分がすべきだったのは愛することなどではなかったと、考えるほど明確になっていく。触れずにおけば誰もこれ以上不幸にはならなかった。レハトの心の中にずっと愛はあった。だからといってタナッセがそれを発見し斟酌してやる理由などなかった。
 けれども愛とは他者に押し付け委ねるしかないのだ。叩きつけて判定を待つだけのものだ。
 今となっては自死は己の神経を慰めるだけの逃避に他ならなかった。いまさらそんなことをするのはおかしなことだ。完全に機会を逸している。理解される苦痛など、タナッセは今まで知らなかった。
 子どもを愛するなら押しつけるしかない。自らの愛を押しつけて、愛される苦痛を与えるしかない。他人を愛することは本質的に暴力なのだ。そして親になりたいのならそうするしかない。

 食事の前に侍従が子どもに手の洗い方を指導しているのを、見るとはなしに見ていた。侍従は子の背後から手を持ってやり、椀に小さな手を浸して優しく導いてやっていた。少年は真面目な顔をして黙っている。背中の大人が作業を終えて、こういうようにするのですよ、と言っているあいだ、なんらかの審査官のように手指を厳しくじっと見つめていた。
「ひとりで、手あらえた」
 子どもはタナッセの元にやって来て、手のひらを見せて言った。
「そうか、偉いな」
 やりとりが丸見えだったのだからとても一人でできたとは言えなかったのだが、褒めてやった。子どもは相好を崩し笑う。それだけでなにもかも満たされたような、何の屈託のない顔で。タナッセもつられて笑う。
 幼い頃、食事どきぐらいにしか会えない母に気にとめてほしくて、食事作法を躍起になって覚えた。うまくできれば褒めてもらえると信じていた。会食での話題の中心となるのはいつもヴァイルだった。彼はいつでも自分がしたいことをして、話したいことを話した。こんなことをして遊んだ、珍しいものを見つけた、誰それがあんなことを言った……話題は尽きず、感情の奔流はタナッセを、その場を、飲み込んだ。
 母と死に別れ、父と離ればなれで暮らす幼い継承者に誰もが気をつかった。父親の出奔からのちの配慮はいや増した。なんの憂いもなくある王子のささやかな生活の喜びや悲しみなど、口にするのもためらう空気だった。
 礼儀作法など、できて当然のことで気を引こうとした自分の浅ましさばかり思い知らされていたたまれなかった。自分を恥ずかしく思い、力が欲しいと思った。なにか特別なものが、自分で自分を誇れるだけの何かが欲しかった。
 私に似ないでほしい。タナッセが子どもに祈るのはそのことばかりだった。彼女に似てくれれば、きっとうまくやってくれる。自分にだけは似ないでほしい。
「これ、おいしい」
 子どもは食事を続けながら何度も父を見た。にこにことただ素直に話しかけ、期待し、まったくの信頼を寄せて。タナッセもほほえみ返す。それは本心からのものだったが、それでも後ろめたさが消えなかった。
 自分が気づかぬだけで、天真爛漫たるふるまいのこの子にもすでに、ねじけた気持ちや傷があるのだろうか。そんなことを思うと、際限なく子を甘やかしてしまいそうで恐ろしかった。よい父親にはなれそうもなく、彼女がいてくれればと何度も考えた。彼女の助けがあればもうすこしまともな判断ができるはずだ。考えてみればそんなふうに話し合える、相談できる相手は他にいなかった。つくづく貴重な相手を失ったと思い、そのような存在を恋しがる己の弱さがたまらなく疎ましかった。成熟した人間には、永遠になれない気がしてならなかった。

 タナッセは領地の庭を歩いていた。空は高く澄んですがすがしく、ところどころにかたづけ忘れたような雲の切れ端が浮いていた。刈り込まれた草は青々として息苦しいほどだ。ずっと遠くに人々の声がする。それは自分とは関係がない。気にしなくともよい言葉だ。水路には澄んだ水がわずかに波打ちながら音を立てて堀へ流れ込んでいく。彼女はそこにいた。
「レハト」
 長い沈黙の後その言葉を口にすると、まるで空白などなかったかのように、何もかもが近しく感じられた。
「はい」
 言いたいことがあったはずだった。言わなければならない言葉があったはずなのにどうしても思い出せず、出てきた言葉はやはり間違っていた。
「……危ないだろう」
 レハトは水際に膝をついて、手首まで水に浸している。少しでも均衡を崩せば転げ落ちてしまう近さだ。
「危ないって、何が?」
「だから、お前が……。お前が落ちたら私が困るのだ、また……熱でも出されたら」
 細い腕が弧を描いてゆっくりと水を掻き回す。優雅な動作はしぶきを立てることも水音をあげることもない。
「変なの」
 ふふ、とレハトは身を傾けて笑った。
「タナッセは本当、おかしな所ばかりに気を回すのね。私を殺したのに、どうしてそんなことを気にするの?」
 レハトは水から腕を引き上げ、濡れた手のひらを向けて見せた。タナッセは自分でも気づかぬ内に微笑んで妻を見つめていた。誰も見ることのない微笑だった。レハトもただ優しく微笑んでいる。タナッセはそうだな、と言い、だが、と続け、それ以上は思いつかなかった。
 暗闇の中で目を覚ましたとき、自分が立っているのか、倒れているのかわからなかった。普段通り寝台で横になっているだけだとわかるまでじっとしていた。どこかの扉の向こうから人の気配がして、夜警の衛士が身じろぎしたのだろうと見当をつけた。
 良くないことだと思う。誰かと話す代わりに夢を見ている。それも、ありもしない思い出ばかり思い出して。
 懐かしい、領地の庭。
 目に沁みる青葉の下、裳裾を脚に絡みつかせながら歩いていた。
 葉の多い木がほしいと言った。考えてみれば、何かが欲しいとレハトが口にしたのは数えるほどだ。背の高い木がたくさんある庭だと嬉しいと言った。ほかには、ささやかな旅行。あの小旅行はレハトが領地に越して来て以来の、最初で最後の外出になった。それ以外は文字通り一度たりとも門外の地を踏むことはなかった。
 風になぶられることを目的としているような散策の光景を何度も見た。外出先から戻ったとき、執務の合間にふと目を上げたとき、彼女の姿が目に入ることがよくあった。太い樹木に隠れるように守られるように、風に押されてふらふらと行き来していることもあれば、木陰で長い間じっとしていることもあった。狭い領館の敷地もそこから出られぬとあれば、些細な発見でも面白く思えるものだろうかと考えていた。
 初めのうちは視界に入らぬよう帷帳を引き、次に否定であっても自分の方が行動しなければならないことが癪にさわるようになって、そのうち開け放したままになった。白い影は視線の止まり木のようにタナッセに機能した。今ではその役割は湖に浮かぶ小島の一つに譲られた。墓だ。彼女が埋葬された土。
 窓から見えるその小島に目をやりながら、墓の下のことを考えることが増えた。遺骸は今、どうなっているだろう。もう肉はすべて腐り落ちただろうか。額から印は消えたのだろうか。骨に何らかの痕跡は残っているのだろうか。
 小さな島が目に入るたび、タナッセはその孤独な頭蓋骨のことを考えた。その骨はどれくらい白いのだろう。軽いのだろうか、重いのだろうか。表面はざらついているのだろうか、なめらかなのだろうか。匂いはあるのだろうか。彼女の面影はあるのだろうか。考えるほど疑問は増え、確かめねばすまないような気になった。
 レハトなら何と言うだろうか。
 彼女はほとんど語らなかった。余計なことはあれこれと言うのに肝心なことは最後まで隠し通すつもりでいた。平素とは違う口付けに怯え、受け入れることも拒否することもできず曖昧に笑ってその意味から逃げようとしたレハト。
 嘘は優しくうつくしく、本当のことはいつも他人と自分を傷つける。
 ある意味では自分たちは似ていたのかもしれない。タナッセはふと思いつく。それでも自分になく彼女にあるものは、性根の違いというものだ。彼女には不羈の心とでもいうべき、紛れもなく祝福された魂を持っていた。折に触れそれは本人にすら御し得ないところから顔を出して、タナッセを、そして彼女自身を驚かせた。
 手には負えないものを、身のうちに抱え込んでしまったのだ。


 ユリリエは結婚した後でも変わらず城に顔を出し、常々その存在を社交界に訴えかけていた。候補者と彼女の息子の縁組みをどこまで本気で考えているのか知らないが、まったくの偽りというわけでもなさそうだった。旧交を温めましょうよと平然と言い、国王の予定まで押さえてしまったのだから大したものだとタナッセは思う。
 彼女の結婚相手はそれほど有力筋というわけでもなかったので、これまであまり関わらずに済んでいた。顔を合わせると幼い頃の関係性そのままの態度を続ける相手と、この凶暴な従兄弟を怖がる自分が嫌でたまらなかった。同じようなやりとりを繰り返していると、子ども時代からいまだ抜け出せていないような錯誤を犯しそうになる。二人目の寵愛者なぞ、現れなかったのではないか? 自分もほかの者も、この子どもを彼の息子だと思い込んでいるだけで、本当は誰でもないのではないだろうか。そんな妄想がふと忍び寄ってくる。
「――ぼくの友だちだよ。夜もいっしょに寝るんだよ」
 甲高い声に我に返ると、彼の子どもが大事そうに抱えた人形を、国王相手に自慢げに紹介しているところだった。
「まだお人形持って寝てるのか。赤ちゃんみたいだなあ」
「赤ちゃんじゃないよ!」
 ヴァイルの指摘に子どもは唸りながら反論した。不本意極まりないというように全身で抗議をあげる。
「そうか。じゃあもう大きいんだからそろそろ一人で寝なくちゃな」
 不服そうなそぶりの後、子どもは誰にも意外なことを言った。
「でも、お父さまだってやってるのに」
 その場の皆が不思議そうな顔をしたのを見て、少年は自慢するような、大人たちが知らないことを特別に教えてあげるのを得意がるような言葉つきで話した。タナッセが割り込む暇もなかった。そうしたところで無駄だったろうが。
「お父さまも、寝るときお母さまのお洋服もって寝てるんだよ。だからぼくもいいの」
「……あらあら、まあ」
 子どもに向けて少し屈み込んでいた背をゆっくりと伸ばしていくユリリエの様子は獲物を目の前にした獣さながらだった。タナッセは吐き気を催しそうになる。
「お父上が手本とならなくてはならないことなど私が言うまでもありませんわね。次期王の父親がこの体たらくでは、この先思いやられますわ。しっかりしていただかなくては……」
 その先はほとんど耳に入らなかった。

 自室に戻ったタナッセを迎えたのは、美しく装飾された罠だった。積まれた紙束は仰々しく、要求は一目瞭然だった。同時に申し入れがあることが背景を窺わせた。
「一体これは何だ。いや、分かっている。……まったく、気の早いことだな」
 いちばん上のものを取り上げたはいいが中を見る気にはならず裏返し表にしながら呆れて言うと侍従頭が口を開いた。
「いえ、坊ちゃまのではなく……旦那様に」
 めくった釣書には長々と経歴だの人柄だのが書かれていた。当然両親のものだと思いそうだがそれは当人の閲歴なのだった。我こそは国父の伴侶たらんと名乗りを上げた勇猛果敢な剛の者らの美辞麗句が絡みついてくる。
「……ああ……なるほどな。それはまあ、そうだろうな。……ああ、そういえば母上にもそんな話がきていたな。いや、母上は本人だからまあ違うか……」
 幼少期のおぼろげな記憶をたどりながら、タナッセはうろんに独り言を重ねた。リリアノの配偶者ともなればそのまま王配だ。同じくやもめとは言え自分とは立場が異なる。重ねるべきは叔父なのだろうが、実感がない。リリアノには何度か再婚話が持ち上がった。これは断りづらいだろうとタナッセが考えるような有力筋の者であっても彼女はあっさりと、もしくはそう見えるように断っていた。縁談はいつも知らぬうちに上がり、いつのまにか立ち消えた。そのように振る舞えるリリアノの力を、タナッセは感嘆して見過ごした。
 叔父にそのような話が持ち上がった記憶はない。彼が海へと出奔したのはタナッセが七歳のころ、配偶が海へ消えて四年。身辺が騒がしくなって当然の時機だったはずだ。子どもの視界に入る前に処理していたのかもしれないが、そうだとしてもそのことを主眼とした細やかな配慮ではないだろう。そんなものが必須とも思わないが。
 叔父は現王の弟、次期王の父、最大の公爵家という強大な力を背景に、いつどのように断るかも意のままだったろう。あの何とも真意の測りかねる表情を活用して、彼なりに渡っていったのだろうと推測した。あの穏やかな顔は、努力の果てに身につけたものだったのだろうか。それとも。そんなことすら知らない付き合いだ。
「ところで、旦那様というのはもうよせ」
「……奥方様のご希望でしたから」
 軽く伏せた頭の下から覗く瞳が、恨みがましく見えた。レハトのたどった末路への非難なのか、再婚への反発なのか、判然とはしなかった。後者を否定することくらいは義務のような気がした。
「まあ……奴らはせいぜい利用させてもらうさ。私にどこまでできるか、わからんが」
 侍従頭の表情は変わらなかった。
 次代の継承者の母は亡く、父は領地と城を往復し不在がち。どこかで聞いたような話だ。考えまいとしても、自分や現王が育った環境と子どものそれを比較してしまう。不謹慎な発想だった。だが結局のところそういうことではないだろうか? 永遠の輪を描くということは、我々は永遠に憎悪を再生産していく生きものだということではないだろうか? 生まれ変わるのは人間だけだ。人が魚になることもない。人が猫を産むこともない。人が死して再び地上へと甦るときはまた人の形を取る。そうでなくては永遠の輪が途絶えてしまう。それは神と人との約束だ。それは寵愛者とて例外ではなく、我々は繰り返しこの地に現れては消える。循環する魂はどこにも行けはしない。その業を受け入れ開き直るように生をすべて肯定して何度でも繰り返そうと思うのならば、では神の国とは何のためにあるのだろう?
 幸いなるかな契約の民よ。


 夜は魔の刻と呼ばれる。ならば夜の魔力が見えぬものを見せているのかもしれない。自分の知るレハトとはどこか違うと思いながら何度もここまで来るのはよからぬ力が働いているのかもしれない。信じていないことをつらつらと考えながら、タナッセは肖像画の少年をながめた。
 肖像画の署名は著名な画家のものだった。彼のような目の肥えた芸術家にはこう見えるのだろうかと疑念を抱きながら広間の一角に立つ。
 見たくはないはずなのだが、夜が来て眠れず寝台で寝返りを打っていると、足が勝手に歩き出す。見るたび違うと内心で否定するのに、見に来ずにはいられなかった。
 玉座の間の歴々の王たち、成人したりっぱな大人達とは違う柔らかな輪郭の子どもがそこにいた。みずみずしい肌とまっすぐな瞳。絵の前に立ち、わずかに見上げる。儀式のような動作を体が覚えていた。
 本当にこれがあいつだろうか。いつも覚える疑問がタナッセを捉える。
 城の夜の空気は昼間の喧噪がほこりのように地面に落ちて眠っているようだった。澄んで濁りなく、しかしいつでも騒ぎ立てられるように近くで誰かが耳を立てているような。
 ささめく声が背後から聞こえてきて、タナッセは緩慢な動作で振り返った。見覚えのある官吏が視界に入り、続いて不機嫌そうな国王の顔が現れた。
「これは、陛下……」
 ヴァイルは護衛たちに控えるよう手で簡単に合図をした。
「なんだってわざわざ絵なんか見に来るの? もう何年もたってるのにさ」
 ヴァイルは肖像画に体を向けて、隣に立つ人間を見ずに口火を切った。
「警邏の衛士たちに通達していたの、知ってた? ま、どうせあんたのことだから知らないだろうけど」
「――お心遣い、痛み入ります」
「こんな絵なんか見に来るより、子どもの顔でも見に行ったら? あんたも親なんだからさ、責任てものがあるでしょ」
「顔が」
 タナッセもまた絵に顔を向けて話す。もしくは、本当に絵に向けて話をした。
「顔が、思い出せなくなる。我ながら信じ難いが、だんだん記憶から薄れていく。もうほとんど思い出せない。思い出そうとすると、いつもこの絵が浮かぶ。……こんな顔でこんな表情の奴は、目にした覚えはないのだが」
 額縁の中の少年は、凛々しくもどこか悪戯めいた表情でこちらを見つめている。それは微かに持ち上がった口角のためか、見る者の感傷だろうか。しかし見上げるタナッセの横顔はなんの表情も浮かんでいなかった。
「なんであんた……いや、レハトが、あんたと結婚したのか、知らないけどさ。そんなふうには全然見えなかったし。でも、レハトだって子どもの成長とか、見たかったんじゃないの」
 自分以外の誰かの口から彼女の名前が出るたびに、いつも新鮮な驚きがタナッセにわき起こる。忘れられていなかった喜び。彼女が実在したことすら疑いかけていた心に、隠れていた古い宝ものを発見したような喜びが。
 誰かの中に彼女がいることはタナッセの心を和ませた。
「そうかもしれないな」
 誰も来ない館で、お互いがそれぞれの肉体と魂のように暮らしていた。
 今では彼女の衣裳をつまみ上げて広げてみて、それでようやくこれくらいの身長で、肩幅だったと思い出す。
「妙な話を聞かせたな。お前も私に……気を使うことなどない」
「あの子のためだよ。さっきも言ったけど、子どものことは、ちゃんと、一番に考えてよ。あの子にはあんたしかいないんだから」
「お前に言われずとも、そうしている」
 ヴァイルが口調を改めるつもりがないのを受けて、タナッセも昔のような口調で答えた。
「その絵、持って行っていいよ。あんたが持ってるのなら誰も何も言わないと思うし」
 だからもう来るなと、噂になるような真似はするなと言われているのはわかったが、それだけはごめんだった。こんなものを、目につくところに持ち込みたくはない。
「……お前は昔から無神経だったが、変わらんな」
 彼女の声だけははっきり覚えている。
「……俺を振ってここから出ていったくせにな」
「あれと、何か……約束でもしたのか」
 まだ油で光っている真新しい針の先で、心臓を薄くひっかかれるような心地で問いかけた。その先に何が待ち受けているのか知らないではないのに、もういない人の知らない顔を貪欲に求めてしまう。
「……大切だと思ってるものでも、切り捨てなきゃならないって、そういうときがあるってあんたにはわかる」
 ああそういうときもあったなと、タナッセはぼんやりと考える。
「一緒にはいられない、ずっとはいられないって……わかっててさ。近くにいるぶん、それがつらくて。絶ち切りでもしなけりゃ、やってけないんだよ。そういうの、わかんないでしょ」
 わかる、とタナッセは口にせずに思う。切り離さなければ、生きていけない。やっていけない。
「もういいよ。あんたには、きっと一生わからないんだ」
 レハトのことを話す気にはなれず無言を貫いた。ヴァイルはそもそもタナッセの言葉を待つつもりなどないようで、言い終わるとすぐさま背を向けた。
 暗い廊下を歩きながら、タナッセはヴァイルの言葉を考えていた。実の父である自分だけだと言った、では彼自身はどうだったのだろう。同じように感じていたのだろうか。本当に必要としていたのは実父だけで、先王も従兄も周囲の人々も彼には慰めとはならなかったのだろうか。ただひたむきに叔父を見上げていた幼い姿が脳裡によみがえり、その姿は我が子と重なった。同時にそれは少年だったタナッセ自身だった。振り向いてほしいのは、頭を撫でてほしいのは、話しかけてほしいのは、いつもあの人だった。
 広間の肖像画は、二人目はあたかも成人前に死んでしまったかのような扱いを思わせた。本当はまだその時期ではないのに、わずかな時間地上に降りることを許された、神様のお気に入りの子ども。だからまたすぐに呼ばれてしまった。良い子だったのにね、残念だね、と。
 王城ではレハトの存在はほとんど忘れ去られていた。彼のことはもう誰も話題にしない。かつて王候補と呼ばれた少年がもう一人いたことを誰も覚えてはいない。「二人目」が歴史上初めて現れたことだけがときおり囁かれる。
 そしてタナッセがいま真実必要としているのは血を分けた愛し子ではなく、二人目と呼ばれたただ一人の相手だった。誰にも彼女の代わりにはなれないのだった。叔父はどうだったのだろう。それを息子は感じていたのだろうか? だからこそ今釘を刺したのかもしれない。
 誰の心も確かめるすべはない。我々は神ではないのだから、手を繋いだだけでは何も分からない。
「こないだね、僕はお父さまのたからものだって、言われた」
 うつむいて手の中のおもちゃに熱中しながら、子どもはふと言い出した。
「――そうか」
「うん。あのねー、お父さまは、僕のことがすごーい大事なんだって。言ってた。ほんと?」
 期待を込めてまっすぐに見つめてきた目は、濁りのないきれいな瞳だった。誰もが子どもの頃はこんな目をしているのだろうか。
「もちろん、そのとおりだ。お前のことは大切に思っている」
 まったくの本心を口にするのに本心であると聞こえてくれと願うのは、不純である気がした。
 彼らが言いたいことはよくわかった。息子がお前の命綱で、ここにいられる理由なのだ。宝のなる木を大切にするのは当然だ。それをどんな口ぶりで、態度で、彼らは息子に伝えたのだろう。それを思うとタナッセの胸の内に懐かしい感情が蘇った。その憤りはタナッセの古い友人だった。昔からいつでも彼の近くにいて、けして彼を忘れず声をかけてきた。今では付き合い方も心得たものだった。
 自分以外の者の価値で己の価値を測られるのは、屈辱だろう。今からこんなことを考えても詮無いことだとはわかっていても忍び寄るようにその考えはそばにあった。
「でもまた行っちゃうんでしょ」
 父の言葉に少年は嬉しそうに笑い、それからすぐに不満げに唇を尖らせた。
 あれを息子には近寄らせたくない。タナッセが感じた震えるような不快感は、彼の根源的な正義感に基づくものだった。あのような、利にならない、教訓としても浅い、ろくでもない、敗北を、駆逐してしまいたい。
 まだ幼い顔が視界に入る。
「大事な仕事だ。お前も分かっているだろう。もうしばらく……辛抱してくれ」
 捨てられるものだ。
 捨てられるのに、そうできないのは下らない感傷で、そのために他人にしわ寄せが行く。他ならぬ自分と彼女の血を分けた息子に受けなくともよい困難を押しつけている。
 子どもは分かってるよと軽い口ぶりで返した。
 その日、タナッセは領地から運んできてしまったものに手をつけた。衣装や装身具、書き付けやらを処分するつもりで放り出した。
 彼女の服からはもう匂いはしなくなっていた。ずいぶん前から気づいていた。今改めてそれを確認すると、喪失感としか呼びようのない感情が、いや感情の欠如が内奥を占めていた。ないことがある、その不自然さが苦しかった。水中を長く深く潜水したときのように、自分を構成する必要不可欠な要素が不足し頭が痺れて視界が赤く染まるような、不安感に苛まれた。そしてどうしてだか、唾液が溢れてとまらなかった。おかしいと思ったがそれ以上考えられず、なんども口元をぬぐいながら作業を続けた。
 そのままくず箱に放り込むだけの勇気は持てず、空いた箱にただまとめて重ねていった。侍従らに処分しておけと命じて、その小山から目をそらすために領地へと向かった。戻ってきたときにはきっと何の痕跡も残っていないだろう。そうでありますようにとタナッセは願った。はじめから何もなかったようであれば、失ったものなど何もないと思えるかもしれない。