✥  この世の王国 [6]




 ここで彼女を繋ぎ止められなければ、彼女は行ってしまう。レハトはもう目を閉じてしまっている。時間は無い。だが逆に言えば私の努力が報われる事もありうるということではないのか。私の体もレハトの体も固く冷えきって、挿入している私の中心だけが熱を持っている。乾いていくばかりの体。喉の奥が張りついてうめき声すら出てこない。のし掛かって、同じ動作を繰り返すとも目を閉じ口を閉ざした表情は変わらない。瞬きしたとき、その顔がいつの間にか母に変わっていた。まぶたを閉じたリリアノの顔は死体のように何の色も浮かんでいなかった。犯しているのが母親だと気づいて、引きつけのような音のない悲鳴をあげた。
 目覚めて最初に咳をした。何度か続けて咳き込み、せり上がる唾を飲み下した。薄暗い中で腕や手を振るわせ、大げさに息をして、大きく身を震わせながらタナッセは何度も室内を見渡した。なんの意味もない行為だ。ただその身のうちの激情を霧散させようと、無駄に精力を消耗させようとしている。それが収まると意識して大きく息を吸い、ゆっくりと吐きだした。肩に奇妙な痺れが残り、指先が震えていた。それでも誰も様子を見に来ないのだから声を出してはいないのだろうと見当をつけて、息をついた。冷たい汗を掻いていた。
 手のひらで汗をぬぐい、落ち着こうとしているうちに本当に落ち着いてきた。この程度のことだ。
 タナッセはやっと安心して、暗闇の中誰知らず密かに笑った。
 母の顔を思い描いたのはずいぶん久しぶりのことだった。タナッセは彼女の葬儀にすら顔を出さなかった。レハトと離れるわけにはいかなかったからだ。城まで往復するような旅路は長すぎる。だから最後に顔を見たのはここを出たときだ。リリアノは怒りも喜びもなく、悲しみも憂いもなかった。半信半疑ということでもなく、平静だった。どうしてそんな顔をしているのだろうと、タナッセは不思議に思った。そんなことを思う自分はおかしく、慣れなかったが、そのときは確かにそう思ったのだ。
 リリアノはタナッセの前で常に王の顔をしているわけではなかった。ときに息子を心配し労るような、母親らしいそぶりを見せた。だというのに、今生の別れとなることが双方よくわかっているその時には違ったのだ。無論、タナッセ自身子どものような振る舞いはしなかったのだが、それが理由ではないことはおぼろげに感じた。
 タナッセはもう一度寝台に横になった。ごく慎重に、おのれの体をこれ以上起こさないように。自分はまだ眠っているのだと言い聞かせるように。そうしてまぶたを降ろし慣れ親しんだ感触に身を預けて、どこか薄い気配の夜に、自分を溶け込ませていった。
 目が覚めたとき、昨夜の晩餐会での食事が胃の腑で腐っている気がした。起きて真っ先に思ったのはそれだった。酒を飲み過ぎたし、胃を荒らすといけないと思い気づかって、逆に食べ過ぎた。夜半に目を覚ましたような記憶がかすめたが、それ以上思い出せなかった。寝台にクッションを重ねて上半身だけを起こし、真夜中にようやっと寝台に潜り込む人のようなため息をついた。
 子があの高みに登ったとき、まともな手足がなくては意味がない。それがタナッセの仕事だった。人脈を、つまりは貸しをつくり、誰かを紹介し、見返りをほのめかし、勘定に入れ、引き継ぐための財産を作る。与えられるものが何もないのならば、今からつくるしかなかった。
 朝食をとる気になれずにお茶ばかり飲んでいると、最後には蜂蜜を溶かしたお湯を匙ですくって飲んでいた姿を思い出した。あれだけ長く持って、子どもまで産んでみせたのだから、確かに寵愛者は丈夫だ。大したものだと、熱い白湯をゆっくりすすりながら思う。自分とは大違いだ。
 侍従頭が寄ってきて、何気ないふうに言う。
「お坊ちゃまのことですが……昨日、初めて立って歩かれたのですよ」
「……そうか。早いものだな。……新しい乳母はどうだ?」
「よくやっています」
「そうか」
 それ以上なんと言ったら良いのかわからず、喜ばしいことだといったような意味を、むにゃむにゃと口の中で呟いた。
 思い出すことがあった。遙か昔、千年も前に似ていると言われたのだ。名前くらいしか知らない祖父に。そして今確かに同じ立場となっている。次代の国王の父。印を持たない。いや、似ているとは言われなかったかもしれない。ただ類似を指摘されただけで。あの人は言った。印持つものと同じ舞台で争おうともあるのは敗北だけだと。勝者となれる可能性はその身のうちにだけ、彼らを憐れみ見下げて自分は逃れられて良かったと胸をなで下ろしたときだけだと、そう言った。いや、そんなことは言わなかったかもしれない。
 レハトの言葉を思い出して、たしかに印持ちはもううんざりだなと、誰もいないのを良いことに悪態をつく。ただの事実としてそう思う。いくらなんでも多すぎた。
 一人で十分だったのだが、とふと思いついてタナッセは苦笑する。時系列がめちゃくちゃだ。彼女はけして、最初にはなり得なかった。タナッセだけでなく他の人びとにとっても、「一人目」とはなれなかった。だからこそ二人は出会うことができた。そして何番目であるかなど、どうでもいいことだった。
「――様には、本日中に一度会っていただけますか。どうも、殿下ご本人とお会いしなければ承知していただけないようで。明日には立たれるのに忙しないのですが」
「あ――ああ。わかった。部屋までは呼ぶな。広間で対応する」
 ぼんやりして聞き逃しそうになった報告にぎりぎりで返答して、タナッセは頭を振った。いつまでもほうけていてはならない。
 大して有力者でもない地方貴族は自分の土地の将来性を訴え、ひいては己の勢威について熱弁を振るった。こんな相手にまで直接相手をしていたらきりがないと思うが、今は仕方がない。火点す前に退散し、これ以上人目に入らないよう物陰に隠れるように撤退した。そしてそれを見つけた。絵画だ。彼女を題材として描かれた。
 描かれなかった肖像の意味はまさしく欠落を象徴していたと、広間の隅に一人立ち考えていた。なかばとばりが落ち、影になった一角にそれはあった。
「こんなところにいたのか」
 そう口にしてみると、鈍い金色の額縁に囲まれて、どことなく澄ました顔のレハトがこちらを見返した。彼女が彼と呼ばれた最後の年に描かれた物だ。人物が目立つようになのか、背景は調子の違う黒で塗られているだけの、飾り気のない筆触の絵。
 肖像画の下方には、半円の華奢な飾台がしつらえてあった。台には花瓶が立ち、ささやかな花が生けてある。薄い花弁が幾重もかかる、小ぶりの白い花だ。タナッセには彼女がその花を気に入るかどうかわからない。
 いつもは通らない道を通ったことを、神が耳元で囁いたからだなどとは言いたくはなかった。彼自身全く気づかず、誰も彼にそれを教えなかったのに、導かれるような発見をしたとしても、それが領地へ向かう前日のことだとしても、偶然であり、いつかは知ることになる事実が眠っていただけだ。
 その偶然に感謝するとき、祝福は現実となる。だがそれが人生からの贈り物だとしても、なんになろう? 祝福こそが最も忌まわしく避けねばならない身にとって? 肯定すれば彼女の死をも肯定することになる。
 おかしくないよとレハトは笑った。何もかもなかったことにしてしまえるあの笑顔、留保も躊躇も条件も口実も必要としない手放しの愛をただ振りまいた。なんのてらいも嘘も打算もなくただ愛していると、レハトは笑った。事実その通りだった。それが暴力でなければ何なのだ?
 絵画の中同様、記憶の中のレハトも何も言わない。
 あの一歩が余計だった。彼女に直接問うた質問、その一歩。聞くことを選んだときに私の命運は定まった。私が選んだのだ。手を取り引き寄せた半歩などなんということもない。
 覚悟していたはずだった。口にするまでに長い時間があった。すべきでないことをしようとしているのではないかと、その予感に従うべきだった。
 己が傷ついていることを認める訳にはいかず、タナッセはことさら平静に振る舞おうとした。その態度は噂を堅牢にしていったが、些細な問題だった。神は彼を選んだのだ。すくなくとも彼以外の人間はそのように理解したし、正しい結果が事実存在するのだから、手段など誰も気にとめなかった。人の業で徴が与えられるわけではないのだから。

「ほうら、お父様に出立のご挨拶なさい……」
 乳母は抱えた子どもに優しく声をかけ、小さな手を持ち上げて軽く振った。子どもはまだ意思のない顔をしている。父の方を見たり、乳母の方を見たりして何度か瞬きし意味を成さない発声をした。留守の間を頼むと声をかけてタナッセは車に乗り込んだ。
 いまだ、領地を返還するかどうか決めかねていた。領地と王城を往復する暮らしになれば、幼かった従兄弟と同様の悲しみを味あわせることになるかもしれない。その程度の予測はついた。
 あそこはレハトのための土地だという奇妙な認識が動かしがたく根付いていた。あれのために用意された土地で、最後の行き場だった。
 レハトは赤子の時分に母に抱かれ山奥の村にやってきたらしい。幼い頃は周囲となじめなかったと話したことがあった。逃避行だったのだろうとタナッセは考えた。あの村では最後まで臨時の住人のような気がしてたなと、千年も昔のことを語るような目で言った。その山村から連れ出され王城に軟禁された彼女が、最後に自ら望んだ場所がかの土地だった。
 意にそわぬ共同体の一員にさせられてしまう不幸を、よく知っていた。自分が最後まで守っていたほうが、彼女の意にかなうのではと期待のような願望があった。
 領館は最後に見たときから何も変わっていなかった。休む間もなく不在の間に任せていた帳簿に目を通していく。残った物を片付けようと、仕事の合間に彼女の私室に入った。ここにくるのは怖かった。
 衣装はすべて処分するべく、見ないように投げ出していると紙片が一枚、どこからか勢いよくすべり落ちた。空中で二、三度大きく揺れて、やがて伏せるように地面に落ちた。タナッセははじめ、なにも気にとめていなかった。何か落ちたなと思い、かがんでそれをつまみ上げただけだった。
 紙片には何か書き付けてあった。レハトの文字だ。彼女の字だったが、タナッセの言葉だった。それとはすぐにわからないほど遠い昔の、気まぐれに出たような言葉が並んでいた。玉座の間、王城の主のための場所を前にしてタナッセが口にした言葉で、聞かされたレハトが書き留めたのだろう。
 目を通して、タナッセは微笑んだ。当時の感情がまざまざと思い出される。印持ちと呼ばれる彼らへの同情と嫌悪、怒りと憤り。そして稚拙で感傷的な言葉の裏に見えてくるのは、悲哀とはほど遠い自分自身の奢りだった。小鳥は籠の中で哀れに泣き叫ぶ。その素晴らしい籠の価値を知りもせず。鳥の嘆きと、籠が素晴らしいものであることは本来は関係がない。しかしこの詩では繋がっている。意味するところはひとつだ。つまるところ、この私にはその籠の価値がわかる、がこの文章の主題だ。
 血の気の多い若者だった時代があった。
 タナッセは笑い、書き付けを小さく折りたたんで懐にしまった。誰の目にも触れさせたくない気がした。私はレハトのことを何も知らない、とまた思う。そんなはずはないのに。
 夜が迫っていることに気づき、明かりに火をつけた。角灯の覆いは細い金属が植物の蔓模様を編み上げており、卓上に複雑な影を作り出した。
 一本のろうそくの明かりはレハトを思い起こさせた。ずっと胸の裡に炎を隠していた。太陽が足元につくるくっきりした影ではなく、ろうそくがつくる淡い影のように覚束無い体。頼り無くゆらゆらと揺れるのに、風に傾いで伸びなかなか消えないのに、唐突に一筋の煙を残してその光を消してしまう。
 いつだったか、露台に面した居室の窓を開け、膝を抱えて椅子に座した背中を見たことがあった。軒があるから水は入り込まないとはいえ、冷たい風に当たって良いはずはないのに、レハトは身じろぎもせず雨を見ていた。窓際で雨を見ている小さな背中は、少しも寂しそうではなかった。頼りなくも儚げでもなく、きっと雨音や風や空の色を楽しんでいるのだろうと理解できた。人の顔は偽装できても、後ろ姿はそう簡単にはいかないものだ。タナッセは邪魔にならないようそっとその場を後にした。
 ここに埋めてやればよかったと、今になって思う。次代の継承者を生んだあとではより難しいことであるのは想像に難くなかったが、それでもこちらのほうがよほど休まるだろう。それぐらいには、己の仕事を自負していた。
 ほんの数年しか暮らさなかった土地が、いまでは故郷にも等しい。中庭の樹木の一枝、過ぎ去る風さえもが懐かしかった。
 ここが終の棲家となるのかと、考えたことがあった。領地を頼むと言ったのは、ここで暮らしてもいいと許可を与えたかったのだろう。できることならそうしたかった。人生の最後まで、ここで静かに長い余生を送りたかった。その願望は過去を美化した結果に過ぎないのかもしれない。
 自分はきっと狂うことはできないだろうとわかって、それでも生きていかなければならないことは苦しかった。
 片付けは途中のまま、簡単な夕食を済ませ部屋に戻った。投げ出した衣装がそのまま積まれている。一番上にあった一枚を手に取った。さわって匂いを嗅いでいると、安心するような気がした。火を消し、寝台に横になって目を閉じた。明かりを消した部屋は闇に包まれゆっくりと冷えていく。何も変わっていないように見えても、使わない家は傷んでゆく。ゆっくりと、しずかに。レハトという光を失った今、この館も死にゆくのだろう。

 うまく眠りには入れず、しだいにまどろんだかと思うと覚醒するのを繰り返していてた。はっと目が覚めると違和感があった。腰の辺りが重たい。痺れただろうかと手を伸ばせば、体の中心に違和感があった。まさかと思い、服の上から軽く触れてみると、確かに勃起していた。恥ずかしさよりも困惑がタナッセを捉えた。懐かしいような気さえした。
 どうして、こんな。いや、こんなことで。馬鹿馬鹿しい。
 意に反して体が反応するとき、大抵は放っておけば忘れた頃にはどうもなくなっていた。性衝動ではなく暖かな寝具とまどろみでもたらされたものだろうと結論づけ、放っておけばそのうち萎えると考えた。ため息をついて、もう一度寝入ろうとしたが、時間だけが過ぎていき、彼女の名前を胸の内で繰り返し呼ぶのをやめられなかった。
 服の上から軽く握ると昔のことを思い出した。レハトがいた時代だ。初めて会ったときから最後の時までのごく短い、しかし濃密な時間。あれが自分の人生に現れてから、何もかも変わった。あきらめが怒りに、迷いは確信に。
 その感情の奔流の中で、決定的なものがあった。それを何とは簡単には言えない。ただ、自分は変わったのだと、何かから何かへと変化するものがあったのだとはよくわかった。
 それはそうだと思う。あのような特異な存在が、価値観を支える根幹を揺さぶる異常なものがあれば、気にとめずにはいられない。存在するというだけで考えを改めなければならない、毒にも薬にもなりうる者。
 屹立した性器の雄々しい硬さは場違いで、滑稽としか言いようがなかった。ゆっくりと手を動かしながらレハトとの性交を思い出した。数え切れない中で、できるだけ穏やかなもの、上手くいったものを思い出そうと努力した。
 あの妙な小旅行から帰り、二人の関係はまた一段とおかしな領域に入った。顔も知らないまま結婚した、見合いの新婚夫婦のようにぎこちなく、相手に嫌われまいとする気づかいはときに空回りした。それでも互いに少しずつそろそろと腕を伸ばし、目を見ようと顔を合わせ、捕まえていようと脚を絡ませた。
 タナッセが一度口づけるとレハトも同じものを一度返し、彼が彼女の手を握ると、握りかえしてきた。性交を知らない子どものように身体を擦りつけあい、匂いを嗅ぎあって肌に唇を押しつけた。
 わたしたちは互いに求め合った。
 まだ夕食の前で、窓の向こうの空は全体に薄く曇がかり、薄晩の明るさが夢の中のようなあやふやさを演出した。それも助けになった。たしかな現実だと認識しながら、同時に、酒に酔ったときのような、言い訳がきくような曖昧さがふるまいを大胆にした。
 雨の気配がした。まだ遠く、湿った風や重なりゆく雲の向こうに潜んでいるだけだったが、ごくゆっくりと近づいてくる。
 タナッセはどのような些細な兆候も見逃すまいと、横たわる体を見つめていた。彼女も同じように彼を見て、その視線がタナッセは息苦しかった。
 午後の消えかけた日の名残が、彼女の乳首や陰毛やへその影をながく作り出していた。黙って愛撫して、挿入し、ゆっくりと腰を動かしながら、永遠にこの状態のままでいられないものかと夢想をした。レハトは目を閉じときおり小さく喘いで、身体を震わせていた。彼女の中は温かく、穏やかな吐息とひきつったようなあえぎが交互に漏れた。
 本当に耐えられなくなる前の瞬間に我慢をやめ、ぴったりと脚を合わせて射精した。それでもまだ、穏やかな気持ちだった。
 そのとき彼女を抱きしめたいと思った。性急にではなく、腕の中にただ留めてこわれものを抱くように抱いて、髪に触れたかった。そうして唇の表面にだけそっと口付けたかった。しかし、もちろんそんなことはできなかった。その代わりにおおいかぶさって両肩をつかまえて、頬を合わせた。レハトは彼と寝台に挟まれて、じっとしていた。タナッセは何度か意識して呼吸し息を整えると、萎えた陰茎をゆっくりと引き抜きレハトの局部を拭いてやった。そうして横たわる他人の体にシーツを一枚掛けてやった。寝台の端に座って、性交後特有の倦怠感に身を揺らしながら自分の体を拭いた。気が済むと、枕に頭を乗せて彼女と並んで横たわり目を閉じた。
 満ち足りた気分でいることに恐れと罪悪感を抱いていた。レハトも同じ気持ちでいることが仕草や触れあった肌から伝わってきた。しかし、彼女は何も恐れてはいなかった。ただ満足していた。それはタナッセを安心させ、それ以上の欲を打ち消した。人生でもっとも幸福だった瞬間だ。
 独特の匂いはだんだんと薄れていき、部屋の空気は少しずつ冷えて澄んでいった。薄墨を一掃けしたようにほの暗い室内には、極端なものは何一つなかった。
 目を閉じているとそのうち、勢いづいたしずくがぱたぱたと剥き出しの地面や屋根を叩く音が聞こえた。短いまどろみから目を開けると、レハトは寝台を抜け出し窓辺に立っていた。後ろから見ると、普段は隠れている、成長の過程が抜け落ちてしまった華奢な腰がむき出しになっていた。未完成の体を晒してはいたが、不安定ではなかった。少年の体のまま永遠に固定されてしまったような不均衡な肉体だった。そうして背を向けたまま、雨が降ってきたよとタナッセに教えた。
「レハト」
 呼ぶつもりはなかったのが声に出していた。後悔すべきなのかもわからないうちに、彼女は何も言わず寝台に戻ってシーツにすべり込み、タナッセの脇の下に頭を入れて丸まった。しばらくして、侍従が夕食を告げに来た。
 そのときのことをタナッセはときおり思い返した。
 他のときと何が違ったとはっきり言えるものはない。それでもその一回は特別なものだった。お互いを幸せにするとはどういうことなのか、その輪郭を見たはずだった。強制するか相手から指示されるかでしか達成されなかった交わりが、ようやく違った形をとったのだ。
 温かなレハトの中や、庭の木々がときおり思い出したようにざわめく音、時間と共に移りゆくレハトの表情のひとつひとつ、そんなものを思い出した。
 思い出しているふときは幸福だった。全身が熱くなって、息苦しさが心地良い。寝台で丸くなってレハトの事だけを考えていられた。手指を反射的な動きで上下させ、ただ一人で、自分のためだけに奉仕した。
 しかし、過去の幸福は現在の幸福には貢献しないのが道理だった。笑うべきかもしれないと思い、試してみたがうまくいかず、涙が出た。
 寝台に横たわり性器を露出して、私はおそらく、彼女の死から初めて泣いたように思う。
 握りしめた性器から漏れ出る体液でシーツを汚してしまわないように気をつけながら泣いていた。呼吸をしようとなんども口を開き空気を吸い込み深呼吸を繰り返して、寝台を汚すと人に気づかれるかもしれないなとつまらないことを気にした。なんとか息を整えて、それからゆるゆると身支度を整えた。体を拭いて洟をかみ、服を直して、今度こそ少し笑った。
 どこにも行き場のない固く乾いた感情が胸の奥で重くしずまり、とどまっていた。ひどく寒々しく、ひたすら後悔した。
 もしもいつか誰かのために婚儀を交わさねばならないとしても耐えられる。そんなのはどうということはない。我慢しよう。それでも、思い出に残る情交は二度と交わしたくない。
 眠りに落ちる前に、そんなことを考えた。

 耳許で呼ばれた気がして、目を開いた。室内は眠る前と何も変わっていないようだった。ふと手を伸ばした先に冷たいシーツの感触を覚えて、身を起こした。レハトがいない。手洗いだろうかと考え、それから人の眠った痕跡のない隣の様子に不安を覚える。寝台から降り立つと、澄んだ夜の空気が動いた。
 続き部屋の扉を開け、誰かいないかと顔を出すと、老齢の侍従が眉を下げて出迎えた。
「どうされましたか」
「ああ……いや、その……レハトがいないようだったので……。知らないか」
「……旦那様。旦那様。……奥方様は……。もう……」
 いわく言い難い相手の表情に、鈍い頭でもやっと合点がいく。老人特有の黄色く濁った瞳に、口を開いた自分が映っていた。こんなに間の抜けた顔をしていたのかと、タナッセは初めて知った。これでは皆に腫れ物のように扱われるのもむべなるかなと、いやに冷静に考えていた。
「……ああ。そう、そうだな、すまない。その……寝起きで、どうも……。悪かったな。……お前ももう、休むがいい」
 うやうやしく頭を垂れた彼に背を向けて、そろそろと扉を閉めた。蝶つがいが閉じる音の後に、衣擦れと共に規則正しい足音が遠ざかっていく。
 そうだ、この侍従は私というよりはレハトに忠節を誓っていた。それでいて城に戻るときも――戻ると表現せざるを得ない自分にも呆れるが――ついてきたのだからよく分からない。面倒が少なくて有り難いとは思ったが、てっきり暇を頂きたいと言い出すものだと思っていた。
 自分の行動とは関係のないことをとりとめもなく考え、タナッセは自分自身を取り戻そうとその場に突っ立っていた。
 レハトなら、なんと言うだろうか。今の私を見て彼女はどんなことを言うのだろうか。分かるわけがない、あれが何を言うか、私に当てられたことはない。
 しっかりしなくては。私がしっかりしなくてはあの口さがない連中に母上が非難される。いや違う、息子だ。
 奥方様は、もう。侍従の言葉を繰り返す。もういない。死んだから。神の国へと迎えられたから。私が殺したから。その体は様々な議論の果てに、歴代の王と同じ地に埋葬された。子もいずれ同じ場所に墓を建てられ同じ国に迎えられるのだろう。無論私は違う。母とも子とも、彼女とも違う場所だ。
 タナッセは闇の中で扉の握りからそろそろと手を放した。手のひらから金属の匂いがする。暗闇の中でそれはいつまでも匂うようだった。そのとき顎に違和感があり、指で触れると濡れた感触があった。それは涎だった。どうしてだかタナッセは、真夜中に涎を垂らして扉の前に立っていた。