✥  この世の王国 [4]




 前夜の冷え込みの名残がいつまでも続く日だった。建物そのものが落ちつかなげに思い煩っているような気がしたが、実際には普段と変わらない朝のはじまりだった。レハトの体調も普段と変わらず、つまりは悪かった。医士は朝からつきっきりで寝台のそばに立ち、助手に何か持ってくるよう言いつけたり侍従に首を振ったり、あるいは頷いたりした。それがタナッセには気に入らなかった。待つようなそぶりを見せるすべてに、心がかき乱された。
 夜になり、家の主人が呼ばれる頃になっても未だに現実味に薄かった。
 医士の言葉は耳を上滑りし、夜半のわずかに落ちくぼんだ空気がむき出しになっている肌の箇所をそっと撫でた。誰の話もろくに聞いてはいなかった。聞かなくとも分かることだったからだ。彼女は長い間、超人的な努力をされたと医士が褒め称え、理性が同意する。普通の人間ならこれほどとどまることは無理だった。頑丈だからこそ出産という大仕事にも耐え、頑健だからこそこれほど長く苦しんだ。レハトの努力は、その長い苦しみは、自分を由来するのだと知っていた。
 タナッセが今聞きたい声の主は一人しかいない。
「わかっていたことでしょう」
 レハトは静かに言う。抑揚なくただ喋ることに費やされる力の消費にタナッセは気づかずにはいられない。わかっていたことだ。それは彼も知っていた。どれほど目を閉じ耳を塞いでも、隣に横たわる者の死臭ははっきりと臭った。知らず知らずのうちに、そのときに備えていた。一ヶ月後かもしれない、一週間後かもしれない。もしかしたら明日かもしれない。けれども一年先ということはない。
 そんなふうに別離を予測していた。測って、身構えていた。その態度は裏切りであると思い、現実を見た結果だと思い、信じたくないことでも信じるほうが純粋で美しい人間ではないかとくだらない悩みをもてあそんだ。どちらにしても死ぬのは自分ではない。ほんとうに可哀想であるのは自分ではない。これから命を失う者が目の前にいる。
「医者はもういいよ。……もうやめてほしいの」
 レハトは相手にそれ以上何も言わせようとしなかった。彼女の意思を尊重しようと、タナッセは控えていた者らを下がらせた。このまま静かに最期のときを迎えよう、もう逝かせてやろうとした。タナッセはレハトに口づけた。乾いたくちびるに同じものを音もなく押し当てた。
「――ずっとくっつけてたら、ずっと生きられないかな?」
 このときまではそのつもりだった。
 かすれて喉に痰のからまる声で、冗談めかして彼女は言った。あなたも笑ってと、瞳が言っていた。タナッセは笑えなかった。そのとき、最後の最後、土壇場で、奥深くに閉じ込めていた感情があふれ出すのを感じた。死なせたくないという激情だ。
 どうしても、いやだった。
 理屈ではなく、他の何を犠牲にしてでもレハトにだけは死なないで欲しいという、激高に近い感情の熱が心と体を支配した。一日でも一刻でも、まばたきいちどの間でもいい。逝かないでほしい。
 衝動の強さに目がくらむ。自分が何をしようとしているのかわからない、視界が白くなるほどの衝動だった。自分の中にこんなものがあったとは知らなかった。息詰まるほどの欲求が体をつき動かした。やめたほうがいいと理性が指摘し、その通りだとタナッセも同意する。どうにもならないことなど何度も味わっているではないか。お前はわかっているはずだ。こんな、瀬戸際であがいたところでレハトが傷つくだけだ。それともまさか奇跡が起きて神が願いを聞き入れるとでも思っているのか。
「タ……ッ、セ」
 驚愕に怯えたレハトの声はかすれて、ほとんど聞こえなかった。嫌がられていることなど、彼女は望んでいないことなどわかっていた。
「や……いや……」
 肌に手をかけるとレハトは強く抵抗した。
「少しだけ、少しだけ大人しくしてくれ、頼む」
「やめて、」
 レハトが性交に真実抵抗したのはこの時だけだった。それまでは、どんな行為にも最後は従った。けれども今は、わずかに残った力を振り絞って抗議をあげ、お願いだからと訴えた。
 どんなささいな妥協もしたくなかった。感情をあらわにしその気持ちに沿うような行動をとることが、彼にはおそろしく難しいことだった。これほどぎりぎりのときでもなければ表すことはできなった。
「見な……で。ほんとう、酷……から。み、で」
 囁き声を喉に引っかけながらレハトはようやっと言葉を吐き出した。
「いや……いやだ……」
 黙殺して、タナッセは彼女の夜着をはだけた。乾いた肌は薬湯臭く弾力を失って、黄色く変色していた。骨と皮ばかりの枯れ木のような体からはなんの手応えもない。しぼんだ乳房の先を撫でても、かつて泉が溢れていた股の付け根も、今は乾き沈黙して、ひたむきの呼びかけにも黙して語らなかった。
「も……い……の」
「何がいいものか」
 徒労だと知りつつ延々とその名を呼び続け、萎えそうになるのを自分で扱いて、タナッセは懸命に努力した。肉茎を勃たせようと一心不乱に自分の手で固さを取り戻しては、レハトの乾いた性器に唾をなすりつけて腰を動かした。
 汗を掻いているのは自分だけで、深い水の中でもがいているような、どれだけ走っても一歩も進まない悪夢のようだった。
 いつまでも体をゆすり名前を呼び続けたために、最期の時がいつだったのかタナッセは知らずじまいだった。重なった体の温度が変わってきたことで初めてその時は通り過ぎたことを知った。
 人とは思えないほど冷たいと思ってきた体は、本当に人ではなくなっていた。落ちくぼんだ眼窩の暗い影を眺め、徒労と知りつつタナッセは行為を続けた。そのようにして、二人は互いに最期の瞬間まで苦しめあった。
 なんと愚かしいことをしたのだろうと、心のどこかでぼんやりと思う。たぶん、ただ静かに逝かせてやれば良かったのだろう。間違った行いをしたのだろう。実感はなかったが、そういうものらしいから。こういったときには分別ある、品位を保った死を与えてやることが当人にも周囲の者にも後々響いてくるから、取り乱したりせずに落ち着いてその時を迎えるべきだと多くの人が言っているから。
 冷たい体を直接抱いていると現実とは思えず、もうなんの焦りも感じず、自分が何をしているのかも曖昧だった。ただのみ込めない大きなかたまりが、喉の奥にいつまでも居座っていた。おかしなことを、間違ったことをしているのだとはわかった。死んだ人間の物量は生きている人よりはるかに大きく感じられ、ただそれにうろたえる思いだった。
「可哀想に」
 タナッセはふと胸に浮かんだ言葉をそっとこぼした。
「お前は可哀想だ」
 ゆっくりとレハトの体は弛んでいく。色を失い温度は霧散してほどけていく。薄く開いた口元には、血の混じった唾液が滲んでいた。身じろぎすると彼女の股の間からまだ温かいものが少しばかり漏れ出した。
 清潔な、手つかずの朝がやってきて、朝の光が死体とそれにかしずく男を余すことなく照らし出した。迂回続けた旅は終焉を迎え、神の国へと行きついた。


 際限なく続くかと思われた議論にも終着点はあった。寵愛者の肉体といえど屍は変わりなく、つまりは腐るのだ。その事実の前に「二人目の寵愛者」を果たしてどこに埋葬するべきかなどという不毛な綱引きを無意味にした。
 黒塗りの鹿車は街路を進む。一行の主役は棺の中でかりそめの眠りに就いている。彼女の魂は地を離れ神の国に迎え入れられたことだろう。そしていつの日にかまたこの地上で目を覚ます。
 懐かしい人物の訪問はその後だった。
「ヤニエ師……。これは……」
「なんだ、私はまだお前の師匠か? それとも習い性か」
「――いちどは師事していただいたのですから」
「手癖で仕事をするとろくなことにならんぞ」
 堂々とした態度は変わらず、ヤニエはどうぞと言われる前にさっさと邸の奥へと歩き出した。
「まだいるとは思わなかったが。まさか私のために出発を待っていたわけではあるまい」
 初めて会ったときから師の印象は変わらない。己のしたいことをするという、確固たる意思だ。
「それは、まあ。ご連絡がありましたら別でしたが」
「世辞はなしか。かつての弟子とも思えんな。お前も変わったものだ」
 弟子と思っていてくれたことがあったのかと聞けずに、タナッセは話題を変える。
「出立は来週の予定です。ごたごたしていまして」
 ヤニエは案内された応接間の椅子に遠慮なくどっかと座り、ふんと鼻を鳴らした。
「片付いているな」
「片付けていますから」
「処分するのか」
「……いえ。領地は、しばらくそのままにします。……ご存じでしたか」
「五日もあれば国中に広まる。人の口に戸は建てられん。一人増えて、一人減った。差し引きゼロ。皆のお気に入りの話題だな」
 乱雑に喋りながらヤニエは「そうだったな」と自分の言葉に了解したように頷いた。
「一人増えたのだったが。適当な物がなくてな。祝いの品はないが、目出度いことだ」
「ありがとうございます。それで……結婚の祝いにいただいた品のことですが」
 見計らって、タナッセは切り出した。今を逃せば、訊ねる機会に次はなかろうと思えた。
「なんだったかな」
「刃物です。大ぶりの、よく磨いてあった包丁でした」
 あああれか、と顎をあげてから頷く独特のしぐさを見せる。運ばれてきたお茶に申し訳程度に口を付けてから言った。
「良い品だろう。知人の研ぎ師に特別に頼んだからな。私には刃物の善し悪しは分からんが」
「厨房係が喜んでいたとは聞いています」
「まあ、実を言えばほかにやる予定だったのを横流ししただけだ。あまり喜ばれると胸が痛む」
「――ではあの品は、特に私に、というわけではないのですか」
「いや、ちょうどいいと思ったからな」
「……それでは、あれはどういった含蓄があるのですか。思いつかなかったのですが」
 ヤニエは深くため息をつきかぶりを振った。
「もうやめろ。質問は新しい疑問を生むだけだ。お前がどう受けとったかが最も肝要なことだ。お前がこの世界をどう見るか、価値があるのはただそれだけだ」
「……では、あのナイフには意味は無いのですね」
 タナッセは師の一言一言をいつも重く受け止めてきた。この贈答品も何らかの寓意や警告を持つのだろうと、折に触れ考えてきた彼は拍子抜けた。何かしらの解を求めて追求した自分が馬鹿らしくなる。
「馬鹿をぬかせ。意味はあるに決まっている」
 緊張を取り戻すよりはあっけにとられて、タナッセはヤニエを見た。
「刃物があればそれで仕事をすることも、惨事を引き起こすこともできる。大きな力を持ちながらそのことに気づかず、活用しないでいるのは危険なことだ」
「それは……寵愛者を配偶に持つことですか」
「だがもっとも危険なことは、力を行使することで周囲にどんな影響が及ぶのか理解しないまま、その力を使うことだ」
 タナッセの質問は無視して、ヤニエは続けて言った。
 質問しても黙殺されるだけなら無駄なことはすまいと、タナッセはそれ以上は聞かず、師が喋るに任せた。それとも問い続けることにこそ意味があるのだろうか。無駄だと知りつつ剣を振るい続けたあの年月のように。だがあれはまったく無意味だったではないか。
 帰り際、長らくお前の字を見ていないがもう気は済んだのかとヤニエが聞いて、タナッセは曖昧に頷いた。まとまったものはもう長く書いていない。単純に忙しかったためもあった。
「これからはもっと時間がとれなくなるでしょうし」
 かぶり直した帽子の角度を何度も直しながら、ヤニエは横を向いて言った。
「お前には期待していたのだがな」
 置き土産のように彼女がぼそりと口にした言葉は思いがけずタナッセの胸をえぐった。なぜかはわからない。期待を裏切ったことか、捨てた道に未練があるのか、タナッセは返答をしなかった。
 車を送り出してしまうと、館の中は静かになった。高くに隙間なく満ちた黒雲が屋敷中の音を吸い取ってしまったようだった。世界や自分を確かめるように玄関から部屋へと戻りながら、タナッセは奇妙にふわふわとした気持ちだった。
 よく知った人物相手とはいえ、来客の対応をまともにできたことに満足していた。ごく普通に日常を送れることに、当惑よりは納得していた。人はそうそう変わらないのだ。依然として変わらず自己本位の人間で、死別にすら平気でいられる人間なのだ。
 本質的にはそういうことなのだろう。
 手持ちぶさたになり、タナッセはレハトの部屋の片付けに向かった。片付けという名目で、彼女の心の部分に触れられるのが嬉しかった。
 私物が細々と詰めこまれた小さな部屋の隅に小箱があった。簡素な沈香の小箱で、中にひとつだけしまわれた髪飾りに既視感があった。あれがつけていただろうかとしばらく首をひねって、ようやく思い至る。婚姻の際に自分が贈った物だ。形式だけでも何かすべきだろうと、適当に見繕った安物だったはずだ。レハトがそれをどんな気持ちで受け取り、眺め、小箱にしまいこんでいたのか、以前なら見たくないからだと考えただろう。
 その下には折りたたまれた紙片があった。乳黄色の薄い紙に、ところどころ青いインクが裏抜けしていた。広げて表を見る。よろよろと走るペンで描かれた簡素な人物画だった。特徴のない短い髪の後ろ頭、描きづらそうな角度の耳たぶ、ついでのように付け足された睫毛。彼が見たことのない、斜め後ろからみた彼の姿。ためらいながら進む彼女の手の軌跡。
 長い時間、タナッセはそのペン画をながめていた。どうして彼女はこれをとっておいたのだろう。
 自分はいつでも眼に入るところにいたのに、なぜこれを己だけのために大事により分けていたのだろう。タナッセはそれを聞いてみたかった。それは彼女にとって特別な日だったのだろうか。単に描いたことすら忘れていただけか。それとも後になって思い出したいような、何かがあったのだろうか。
 今捨てなければ一生それを持ち続けることになるとわかってはいたが、それでも捨てられなかった。取っておく意味など何もないことはわかっていた。しまい込んで二度と見ないか、眼にして苦しむかのどちらかだったが、それでも捨てられなかった。
 それは単に愛されていた証拠だというだけではなかった。知らなければならないレハトの一部だった。彼女が何を考え、何を思い、何を祈っていたのかタナッセにはわからない。
 レハトの死は、レハトの生が言わなかったことを言った。当人は何かを隠そうとした訳ではなかったろうが、二人は敵対した時間が長すぎた。あるいは、夫婦であった期間が短すぎた。もしも心置きなく本心を語り合える時というものがあったならば、それはあの何より尊い真実をタナッセが暴き立てたあの瞬間から、その魔法の時間が終わるまでのごくわずかな間だけだった。
 ここには何もないのだとタナッセは知っていた。目を明けてはいても何も見ず、領館の官吏や侍従たちにあれこれ指示をしながらその声を他人のものとして聞いていた。世界は遠く離れたところにあった。自分が間違った道をゆこうとしている気配を感じたが、正しい道はわからなかった。正しい道を示す灯台となるあのか細い淡い光は消えてしまった。迷っているあいだはその場を動くべきではないのに彼は立ち止まれなかった。目的もわからず歩き始めれば行くべき場所に至るまでいっそう時間がかかってしまうのはわかってはいだのだが、外界が立ち止まることを許さなかった。彼の立場はもう強要された子どもではなかったからだ。
 だがそんなことはしたくなかった。食べることも飲むことも死ぬことも見ることも聞くことも喋ることもしたくなかった。なにもしたくなかった。できることならただ座り込んでじっとしていたかった。死ぬことすら億劫だった。
 髪飾りを小箱に戻し、ふたを閉めて同じ箇所に置いた。紙片を握り込んだ手のひらがじんわり汗をかいているようだった。
 誰にも刃を向けられないまま終わりを迎えたのは、二度はすまいと思ったからだった。
 弱い子どもだった。子どもでいることを求められ続けた、臆病で根性なしの、戦えない子どもだった。我慢強さだけで生き延びたような子どもが他人の刃物で立ち向かおうとしたのが間違いだった。
 その結果が、結局はこれで、覆そうなどと自分のような者が考えたのがそもそもの間違いだったのだから二度はすまいと、それが賢明な、正しい判断のはずだと思い、そうしてまた失敗したのだった。変わってなどいなかった。
 十分に生き恥をさらしていると思ったがまだ不足していた。
 薄い紙が細かく裂かれ処分されていく音を聞きながら、これもまた失敗なのだろうと、予感めいたものを覚える。
 処分。いらないものを処理して、レハトを始末して、次代の王の手を引きタナッセは城に戻る。