✥  この世の王国 [3]




 四六時中ずっしりとのしかかるようなあのけだるさと、目の前にいるほんの小さな赤ん坊を結びつけるのは難しかった。
 幼い頃に仕えていた侍従のひとりに、小さな痣のある者がいた。顎の終わり、首の始まりにちょうどぴったりと隠れる位置に親指の爪ほどの暗い青緑の染みが張り付いていた。彼は、普段はまるきり忘れていると言った。子どもの頃はもっと上の方にあったけれど、成長して背が伸びると痣の位置も変わったのが面白いですねえとなんでもなさそうに言ったのだった。実際それは彼にとって何でもないものなのだろう。
 新しい選定印はそのような痣とはまったく違った。眉間の上、生え際の下方額の中央にそれはあった。幼い頃初めて見た赤ん坊の額にも同じ場所に同じ光があったはずだ。印のことなど注目してはいなかったから、はっきりとしない。けれど記憶の中のそれは不変のものだった。大きさも位置も光の強さも変わりはしなかった。
 本当に彼はこれが特別なものだとなにも知らなかったのだろうか。かけらも思わなかったのだろうか。
 レハトは思い詰めた顔をしていた。張り詰めた神経が今にも切れそうな、切迫した顔だった。
「養子に出すのなら、名前はつけないほうが、良いのじゃないかと思うわ」
 落ちくぼんだ眼窩の黒ずみは日に日に色濃くなっている。必要以上に刺激しないよう、タナッセは平静なふうに促す。
「何の話だ」
「真剣に、考えてほしいの。あなた一人では手が回らないでしょうから……ランテに頼るのがいちばん良いでしょうね。もともとランテ派の人には私は邪魔だったのよね。それなら、今では喜んでもらえるかしら。それに当主……ヴァイルもきっと断らないでしょう」
「私はそんなに信用がないか?」
「今はそういうのやめて。駆け引きなんてしている時間は私にはないの」
「私は本気だ。以前にも、言ったはずだ」
 いちど空気を吸いこんでから、肩にそっと手を置くような調子で、タナッセはひどく優しく訊いた。
「私だけでは不安か?」
 きつく握りしめたレハトの手がむせぶように震えていた。色をなくし老人のように筋張った、奇妙につるりとした流木のような手が。
「そうよ。不安よ。あなたが心配で、すごく不安で、うまく死ねる自信がないの。せっかくお城から連れ出せたのに、また私のせいで送り返すことになって、あんまり申し訳なくて、不安だし、怖いのよ。だから安心させて」
 言い切ると顔をタナッセの見えない方に振って鼻をすすり上げた。
「なか、泣かないでおこうと、思ったのに」
「お前は好きに振る舞ったほうが合っている」
「じゃあ、じゃあ言うけど。私、夜中に目が覚めて、子どもの顔を見に行ったの。ううん。見に行ったのではないの。本当は、本当はこっそり殺してしまおうかと思ったのよ。盥の中に頭を浸けてしまおうかと、枕を押しつけてしまおうかと」
 咎めるような呼びかけが喉元まで出かけたが、タナッセはこらえた。糾弾する根拠が良識と呼ばれるものだとしたら、とどめたのもまた同じものと言えた。
「顔を……寝顔をみたら、無理だと思って。そんなこと、出来ないってわかった。知らなかったのよ、そんなこと。知らないじゃ済まされないのだろうけれど、でも、私がどうなるかなんて、知らなかったのよ」
 レハトがしばらく泣いて、そのあいだタナッセは彼女の頭をかき抱き静かに撫でた。
「やらなくて良かったよ。……そう心配するな。私のことなら大丈夫だ」
「うそつき」
「これでも十八年もの実績がある。自分で言うのもなんだが……それこそ人生の最も多感な時期をやり過ごしたのだ。それも、我慢していたら将来なんらかの見返りがあるわけでもないのに。大したものだと思わないか?」
「ほんとね。あなたって、本当の馬鹿だと思うわ」
 レハトは何度かしゃくりあげ、タナッセの服を掴み胸に頭を押しつけた。
「お前は言っただろう、どちらにも原因があり今の結果があるのだと。だからもう自分を責めるのはよせ。……というか、お前は自分ばかり責めているが、原因は私だとは考えないのか? これでも血筋だけは確かなのだから」
「自分の責任だと思えば、納得できる?」
 少し黙ってからレハトは小声で尋ねた。人は納得したことを受け入れる。逆に言えば、納得のいかないことをしんから受け入れはしない。タナッセはそのことをよく知っていた。今になって正しさが、そのみしるしが、行動の明確な結果としての存在に現れたことに混乱してどのような態度で受け入れればいいのか決めかねていた。
 すべてが絡み合っている。
「ねえ、隠しちゃおうか? 生まれた子どもは病弱だから、外には出せませんって言って、このお屋敷にずっと隠しておくの」
「どこかの誰かと同じ道をたどるだろうな」
「……それは……いやかな。私に似てほしくないもの。あなたに似てくれたらいいな」
「……私の方こそ冗談ではない。私はもちろん父にも……母にも似てほしいとは思わん。だいたい、私に似た印持ちなぞ見たくは――」
 勢いづいた言葉が口からこぼれ出て、しまったと思ったときには遅かった。あまりにも素直に本音をこぼしてしまったことに気づいてしまい、目を見開き時を止めていたのは両者共にだった。
「あ……いや……」
「そうよねタナッセは印持ちなんてみんな嫌いだものね」
 タナッセが取り繕おうとなにかを言いかけると、遮るようにレハトが素早く言った。その言葉は引き絞られた弓矢のようにあまりに鋭利であまりに素早く深く突き刺さったため、すぐには痛みを覚えなかったほどだった。唖然としてしばらく黙っていた。
「ごめんなさい。――ごめんなさい、酷いことを言った」
 レハトの手が大きく震えていた。それはいつから彼女の中にあったのだろう。いつからそう考えていたのだろうか。その言葉が口に上るまでには、タナッセの言葉から続くものではないと知った。
「そういうことじゃないことは、わかってるの、ごめんなさい」
「いや……」
「ごめんなさい、私は、そういうことじゃなくて」
「いい。わかったから、もう、気にするな。……私も、気にしていない。先ほどのは失言だ。忘れてくれ」
「どうして怒らないの。怒れば良いでしょう」
 消沈してうなだれた態度を豹変させ、レハトは怒りもあらわに噛みついてきた。あまりの変化にタナッセは馬鹿馬鹿しいような気分になる。
「今度は何だ、お前は……」
「怒って当然じゃないの。こんなこと言われて」
「そう言われてもな。別に、気にしていない」
「気にしていなくたって、私はひどいことを言ったのだから、それに怒れば良いでしょう、なんでそんな、物わかりのいいふりをするの」
「……そういうことは、第三者が言うべきことで、当事者が迫ることではないと思うのだが……。……まあ、これでお前も私の気持ちがわかっただろう。許されると腹が立つ、というろくでもない心情が」
 鷹揚に笑ってみせるタナッセにレハトは泣き出す寸前のような顔をしたが、こらえていた。
「平気なの?」
「経験者の余裕というやつだ」
 どうして平気なように振る舞えるのか、タナッセは自分でも不思議に思った。耐えられるだけの強さを得られるようになったとは思えなかった。だがそれをもたらしたのがレハトであることは間違いなかった。この存在が彼を形作った。
 どちらもしばらく黙っていた。レハトは目を閉じときおり開けて、そこに彼がいることを確認した。
「……ねえ、さっきの。本当に、本気じゃないから。ごめんなさい。忘れて」
「謝るなよ。あれだけさんざん責任は両方にあるのだとお前が言ったのだから、謝るな」
 何かを言わないという選択は、誰にも賞賛されない。言わないことで評価されることはない。存在しない選択肢と同じなのだから、何もしないことと変わりない。
 自分を受け入れるために戦ってきたわけではない。
 レハトはわかったとそれだけ絞り出してきつく奥歯をかみしめた。
「タナッセ、謝らなくなったね」
「……もうやめにしたのだ、それは」
 許されることを期待して先回りして謝ることは。
 レハトは少し眉を寄せて笑い、「そう」と囁いた。
 子どもを殺してしまおうかとは、タナッセは考えなかった。タナッセが望んでいるのはレハトの命であって、レハトが考えたような自分がより良く生きられる道ではなかった。
 胸の内を占める感情に名前を付けるなら悲しみなのだろうが、タナッセにはそれをうまく捕らえられなかった。ぼんやりと赤子を見つめていたが、見ているのは自分自身だった。入れるものの無い箱。特筆することのない凡庸な、からっぽの。
 目を開けたばかりの赤ん坊はまだ表情らしいものもなく、揺りかごの中から視線だけを時折動かした。私はどうなるのだろう? タナッセが指を差し出すと、赤ん坊らしい遠慮のなさできつく力を込めてくる。これから、私はどうなるのだろう。答えられるだけの思想を得たはずだった。だからこそ選択したはずだった。けれども結果がついてこないのならば、それは前提に不備があると考えるのが人情というものだった。殉教者にはなれないのが彼だった。


 産後のレハトの衰弱は顕著だった。微熱が続き、食べたものを吐き戻し、ときに下血がみられた。体調もさることながら気力の萎えようは誰の目にも明らかで、食欲はなく、ひねもす寝台から降りぬ日も少なくなかった。あれやこれやと体に良いとされる品を持ってくる侍従を面倒くさそうに追い払った。以前の奥方様とは変わってしまわれたと彼らが嘆くのを、タナッセは否定もたしなめもせず聞き流した。
「……あなたは何を持ってきたの?」
 戸口に現れたタナッセに、寝台の中からレハトが言う。その声は細く途切れ途切れで、はるか遠くから話しかけられているようだった。
 タナッセは彼女を和ませよう、少しでも楽にして貰おうと珍しい果物や色の良い菓子、花やうつくしい装飾の遊び道具などを取り寄せてはせっせと寝室に持ち込んだ。その姿は主人の枕元に捕った獲物を運んでくる小さなけもののようだった。
「再々玩具を買い与えるのもどうかと思うからな。みやげは何もない」
 なるべく普通でいようとした。普段どおりに振る舞えば、世界はいつまでもそのままであると自分自身や周囲に示せるとでもいうように。そうしていればそのままこの世界が続いていくのだと、世界そのものを騙しおおせるような錯覚を抱いていた。
 レハトは変わらぬ表情で返答とも相づちともいえない音を出した。タナッセは続けて、外に出てみないかと誘った。
「……明るいから嫌だわ」
「このように暗い部屋にばかりこもっていては気も塞ぐ。たまには日に当たったほうがいい」
「よく見えるから嫌なの」
「何がだ?」
 庭に見たくないようなものがあったかと思い、タナッセはまごついた。
「すごく……痩せちゃったし。前は、もう少しは、ましだったと思うのだけれど」
「お前は今、病気なのだ。気にすることはない」
 それがレハト自身を指すのだと分かるまで少し時間が要った。体の状態を考えればそんなことを気にかける余裕などないのではないかと不思議に思ったが、本心のようだった。タナッセは急にいつくしむような気持ちがわき出て、偽らず慰めた。本当に気にするようなことはないのだと教えてやりたかった。
「タナッセはきれいで、羨ましいな」
「なんだそれは……私はそんなことを気にしたことはない」
「それはあなたが生まれつき顔が良くて、変わらないからよ。お金持ちのいちばんの特権は、お金なんてどうでも良いって言えることでしょう。お金のことなんて考えなくていいから。顔がいい人は美醜で悩むなんてくだらないって言えることよ」
「……馬鹿馬鹿しい」
「ほら」
 馬鹿にしたと、レハトはむくれた顔をした。と思うと恥じらうようにうつむいた。彼女が独自の持論を展開するようすが、タナッセには嬉しかった。内容がどうであれ、彼女自身、その人格が、心が、感情が、活気溢れ彼女を彼女たらしめている独特の力がその場に満ちて、タナッセを勇気づけるような気がした。自分の方こそ彼女を支えなくてはならないのだが、それでも。
「お前の理屈はともかく、私は何も気にならない」
 抱え込んだ彼女にその証ついでに口づけようとすると、レハトは慌てたように言った。
「いま苦いわよ」
「私もだから、気にするな」
 言ってかまわず続けると、唇を離したレハトは大きく顔をしかめた。
「いやだ。まだあれ、飲んでるの。効果はないってわかったでしょう」
「知っていたのか。お前も性格が曲がっているな」
 まじないのようなものだからな、とタナッセは言い訳がましくつぶやいた。抱きかかえて窓辺へと移動する。
 懐妊は望めないという医士のお墨付きはあったが、タナッセは生来の慎重さで、万が一ということもありうると考えていた。夫婦の双方が子を望むことで事を成せるというのならば、対策をとるべきだった。妊娠は彼女の命に関わる。いつしかそれを避けようとするようになった。
「嘘つくからよ。具合が悪いようなことを言って、心配させたりして」
「心配したのか」
「どうしてしないと思うの、愛する夫の体調を」
「ああ、そうだな。麗しい妻に気遣われて幸せだ」
 座り込み、タナッセは胸にレハトを抱き寄せた。もうどちらも笑ってはいなかった。
「……私も知っていることがある」
「ふうん?」
 レハトは夫によりかかり、軽く目を閉じて返事のように鼻を鳴らした。
「庭に居ただろう。中庭の……執務室から見えるあたりだ」
「え? ええ、ときどき、散歩に出てたわね。知ってることって、それ?」
「違う。……お前が何を見ていたのかだ」
「……何よ」
 うろたえ、口ごもりながら言い返そうとするレハトもやはり照れたようだった。
「そうやってやり返すの、性格悪いわよ」
「お互い様だ。あんな、目につくようにうろちょろして」
「嬉しかったくせに」
 レハトが苦し紛れに絞り出すような調子で言い、タナッセもそれは否定しないでおいた。
「今からすごく勝手なことを言うけど」
 風が梢を渡るささやきが幾度かくりかえしたあと、レハトは話し出した。
「私ひとりが好きなだけだったら、たぶん、ずっとそのままだった。でも私はずっとあなたのことを誤解していたんだって……そう思うようになって、それで……あの時、あなたが私を抱きしめてくれたから、受け入れてくれたから――だから私は本当に、私の夫を信じようと思ったの」
 レハトに言わなくてはいけないことがあるはずだったが思い出せなかった。あらゆる物のうちに終末を感じていた。あらん限りの力をこめ櫂をこいでも、流れに逆らって上流にたどり着くことはできない。ゆるゆると押し流され、その場に留まることさえ叶わない。
「……私は最初、お前のことは本当に嫌いだった」
「なによ、急に。私だって嫌いだったわよ」
「嫌いだった自分を、否定したくない」
「それでいいでしょ」
 ようやっと口にした言葉を、レハトはしごく普通の顔で受け止めた。彼女にとってはおかしなことでも間違ったことでもなんでもないのだと示してもらえて、タナッセはようやっと息ができた。
 この人が、自分の人生にいてくれて良かった。
 救われる思いで、同時にそんなふうに思うことは彼女が死ぬのを待っているようで苦しかった。
 自覚したタナッセはとうとうひとつの決定を下した。新たな継承者の誕生を世に公布することだ。その余波が、うねりとなり大きく育ち、この静かな館に押し寄せることは想像に難くない。しかし先伸ばして好転することなどない。
 タナッセはレハトに考えを告げ、お前に負担はかけないと、そればかり繰り返した。それが偽りであることは双方共にわかっていたが、その場から逃げない限りは避けられないこともわかっていた。


 広間は生誕祝いの品でごった返していた。継承者生誕の報せを公布してからというもの、進物の使者は引きも切らず押し寄せ、品物は片付けるひまもなく積み上がっていく。
 タナッセはそれらのひとつひとつに目をやった。
 犢皮紙で製本された時祷書、鮮やかな藍の染め付けが入った白目の皿、珍しい鳥の羽筆一揃い。翡翠玉の髪飾り、象嵌の手洗い鉢、七宝の指輪、櫛、飾り房、小箱、ハンカチ、およそ身を飾るために有用なあらゆるもの。
 積み重なったがらくたを、懐かしい倦厭と共にながめた。私はこの世界に戻ってきた。
「祝い品の一覧と、謝礼の手紙の草稿を頼む」
 天使をかたどった乳石英の文鎮、玉髄をはめこんだ銀の匙、サマイト織りの飾り帯……
「これは?」
 きらびやかな品々の陰に、つし玉と木の玉でできた素朴な首飾りを見つけてタナッセは侍従にたずねる。
「今朝がた、管理人がこちらに顔出したときに持ってきたものです。領地の子らがこしらえた物だそうで、受け取っていただけないかと」
 レハトなら、特別な感情が呼び起こされるのかもしれない。幼少の頃過ごした場所を懐かしんで、あるいはこれを作ったおさなごの気持ちを我がことのように感じて。今は思い出しかない場所に心だけでも帰郷が果たされるのかもしれない。
 濁った白い粒と乾いた木の不揃いな首飾りは、タナッセには不格好な子どもの工作にしか見えなかった。込められた気持ちを考えても、品物と同じく素朴な祝いの気持ちなのだろうと推測するのがやっとだった。
「あれに持って行って見せてやれ。あいつなら喜ぶだろうからな」
 そのように慕われている民から離れなければならないことは、レハトにはつらいことなのだろう。タナッセはその素朴で真心のこもった贈り物に驚き感謝はしても、それ以上の感動はなく、わずかに気分は沈んだ。何とも思えない自分の思い入れのなさがそのままこれまでの人生の反映だった。
 領主代行として仕事は誠実にしてきたが、この土地に根付いているわけではなかった。彼らを愛しているわけではなかった。タナッセが結びついているのはただ一人だけで、彼女は死に瀕していた。
 望めば領地に留まることもできただろう。先王リリアノは成人までランテの屋敷で傅育された。それは「あやまち」を恐れてのことだったのだろう。さらにはランテの力があってはじめて可能だったのかもしれない。
 時代は下り、当代陛下は先王と同じくランテの血筋にある。そして次代の王は彼らに対敵するものではない。王城は安全であるはずだ。けれども何かしら理由を上げれば、それがただそうしたいからという理由でも、地方で成長することは認められるだろう。
 それを良いことだとはタナッセは思えなかった。自分一人では手が回らない。ランテの縁故関係はほとんど機能していない。成人し王となってもただ冠を乗せておくだけの存在に成り下がることもあり得る。
 考え事をしながら歩くタナッセの胃に差し込むような痛みが走った。足元がふらつき、思わず壁に手をついてそれに耐えた。些細な痛みですら歓迎するほど飢えていたが、浸っている時間は無かった。
「……ああ、大丈夫だ」
 ゆっくりと息を吐き身を起こすと、いつのまにかすぐそばまで来ていたモルと目が合った。この男ともずいぶん長いなと、他人事のように考える。
「城に行くことになるだろう」
 お前はそれでいいかと聞く前に、忠実な護衛は僅かに首肯し、それ以上の反応を見せなかった。
「……まあ、ここよりは城の方が退屈しないだろう。ずいぶん……楽をさせてしまったが」
 危険が増すことは間違いない。だがこんな風に人目のあるところで体調の善し悪しを無様に晒すわけにもいかない。
 しっかりしなくては。
 繰り返しすぎて意味を失いつつある言葉を繰り返して、タナッセは背筋を伸ばした。

「手紙を書いておくのもいいかなと、思ったのだけどね」
 文机に備え付けられた紙束に視線をやりながら、物憂げにレハトが呟いた。考え考え、未だ自分でも決めかねている口調にタナッセは少なからず緊張する。
「たとえば、成人おめでとう、なんていうのを書いておいて、その年齢になったら渡してもらおうかしら、とかね。だけどそういうものがあるのは良くないのではないかとも思うの。私ならきっと、何度も読み返したり、本音を探ろうとしたりして……そして最後は無いものを見てしまうのではないかって」
 どう思う、と訊ねるレハトの態度は何心なく見える。相手の言葉などなくともすでに答えを決めているようにも、何もかも言われた通りにするかのようにも思えた。
 タナッセにはうまく答えられなかった。そんな問いに答えられる人間はいない。言葉は常に暴力性と偏向を孕み、地理や時間や関係性の制約を受けた限定的な伝達手段でしかない。彼はそれをよく知っている。どの言葉がどのように相手に受けとめられるのか、わかる瞬間が来るまで誰にも予測できない。
 大げさだったが、自分の回答ひとつで他人の人生を左右するかもしれないと考えるとうかつなことは言えなかった。結果をおぎない助けてやれるほど器用な人間でもない。
「……どうとも言えん。良い方向に導くかもしれないし、悪い影響を与えるかもしれない。なんとでも言える」
 そうね、と先ほどと同じように起伏のない語調でレハトは結論を下す。
「やっぱり、やめておきましょう。なんにもできない人の言葉に生きてる人が縛られるのは良くない」
 自分はもうすぐにでも死ぬと決めてかかったレハトの態度をとがめることはできなかった。そんなことをしたら彼女はきっと驚いて、ただ困らせるだけだろう。
「タナッセ。ねえ……ちょっと、抱っこしてくれない」
「突然、何だ。子どもでもあるまいし」
 タナッセはそっとレハトを抱えた。彼女は鶏がらのように骨張って軽く、髪は藁のごとくぱさついていた。薬湯の匂いがきつく漂う。
 私が間違っていた。その昔あれを死人のようだなどと考えたのはまったく私が世間知らずで、ろくにものを知らなかったからだ。病人とはあんなものではない。私はまた間違えた。これが最善だと選んだ選択肢はいつも最悪の結果をもたらした。止めるべきだった。説得して、いや納得させられなくとも掻爬し少しでも彼女自身を長らえる道を探るべきだった。
 生まれた子が印持ちだったからだという理由がそこにはあるのかどうか、考えたがタナッセはいまだわからなかった。たぶん、あるのだろうという気もしたし、関係ないような気もした。
 能力以上に義務を負うことはできない。
 寵愛者の子であることに耐えきれずタナッセは失敗した。レハトを巻き込んで、殺めてしまった。人間に寿命というものがあるのならば、人生の半分以上奪ってしまったことは間違いないのだろう。そして今、親という新たな義務を負う。神がやり直す機会を与えたのだとは考えなかった。何かも試練だとも思わなかった。
 支払うのに難儀をし、不自由をすればするほど、それだけ弁償は正当で値打ちのあるものとなる。贖罪は重荷であることを必要とする。自分自身のもの、自分自身の犠牲で支払う義務がある。
「この前の話の続きなんだけど……」
「どれのことだ」
「ええと、あれ。夜に、あの子の顔を見に行ったって、言ったでしょう」
 わずかに顔をしかめたタナッセに、レハトは急いで言葉を継いだ。
「あのね、あのとき考えたのよ。母さん……私の母のことを。私はまだ赤ちゃんの頃に村に来たらしいの。それから、母は自分の人生のすべてで私を育ててくれた。母さんに感謝してる。でも私は母さんみたいにはなれない。それに、本当言うと、なりたいとも思えない。村でも生活になにも不満はなかったし、お城で暮らしたかったわけじゃないけど……納得してなかった。きっとこれが母さんの愛だと思ってきたけど、いつかは見つかるのにどうして隠れたりしたのかって。引き延ばすことで、決定を私にゆだねることで、私を追い詰めることになるのは見えていたはずなのに。
 私が生まれたときから「二人目」だったなら、見つかったら殺されると思ったとか、一生幽閉だろうから子ども時代だけでも自由に、とか……彼がまだいなくとも王なんて苦労させたくないとか、身分のこととか、いろいろ理由はあるだろうけど……結局は、私の将来は暗いだろうと考えて、ああしたんだと思う。でも、嫌だった。それらを愛だと思わなくてはいけないことが負担だった。隠れるのは嫌だ。私は母に本当には感謝していなくて、それに罪悪感があったの。だから私は自分が嫌いだった。愛情からしてもらったことなのに、なんて薄情で嫌な奴だって」
 レハトは大きく息を吐いて、これは前置きと話を続けた。
「それでね……今になって、私の母さんはどうだったのかしらって。もしかして、同じような気持ちで、それでああいう中途半端なことをしたのかなって思いついて。……困ったろうなって。私も子どもを連れて、逃げちゃおうかなって。こんな体じゃなかったらそうしたかもしれないなって。母さんはどうして逃げたのかな? 何から逃げたんだと思う? それは、印持ちの子を持つ不幸から――」
「そのへんにしておいたらどうだ。そんなことは……勝手に想像して、勝手に幻滅するのはよせ。お前の両親には、二人の関係があり、事情があったのだろう。ならば考えても答えなどでるわけがないだろう。それなのにわざわざ悪く解釈するなど、馬鹿馬鹿しいと思わないか」
 レハトは少し笑ったように見えた。話してしまったことでいくらか気が済んだようで、どこかすっきりした顔をしていた。
「ごめんなさい。最近そんなことばっかり考えるのよ。子どものことと、母のことと。ちょっと考えすぎたかな。神経症になっちゃう。……じゃあ……それじゃあ私は、母さんのこと、嫌いなままでもいい? 私は嫌だったのだから、そのままに受け取っても」
 タナッセは思わぬ質問を受けてわずかに言葉につまった。
「べつに……お前がそれでいいのなら、別に、良いのではないか。ただ、もっと……前向きに捉えた方が健全ではないのかと、思わなくもないが……」
 もそもそと一般論を話し、どうしてそれでいいと言ってやれないのかと、タナッセはやましい気持ちだった。
「じゃあ、良い方に考えるね。タナッセも一緒に考えて」
「一緒に……って、何をだ」
「私の母が、どうして一人で辺境の村まで赤子を連れてくることになったのかを」
「考えてどうするのだ。答えなどわからんのだぞ」
「それでいいの。あなたと二人で考えて、いちばん幸せそうな話が本当だってことにするから。それでいいの」
 どう判断したら良いのか考えている間にレハトは続けた。
「ええと……父親となる人を不幸にしたくなくて、愛のために、彼の元から逃げた。どうかな」
「……そうなると父親は妻となる人と子を捨てたことになるが、父親のことはどうでもいいのか?」
「父さんには告げずによ」
「そのように手前勝手な想像で他人の幸福を判定するのは自己陶酔の極みだ。……のように思う。べつにお前の母を非難しているのではないぞ。……ただ、私なら不快だ。侮られた上に恩着せがましい」
「そうね。うん。相談しないのは、ちょっとね。私が同じことしたら怒る? あ、答えなくていいわよ。わかったから」
「子どもを連れて無断で出て行かれたら捨てられたのだと思うが、もし、私のために出て行ったと知ったら、腹が立つどころではないな。信用がないのは……まあ、わかるが……それでも、いくらなんでも……」
「答えなくて良いっていったのに、真面目なんだから。じゃあこれはなしね。……一生、隠し通せるつもりだったのかな」
「成人礼を切り抜けられれば、まあ……不可能ではないかもしれんな」
 分化の期間は無防備だ。赤ん坊の頃と同じ、自分の身の世話を他人にゆだねなければ日常がままならないときだ。成人礼の前に村から出て、母親が世話をし、分化をやり過ごす。絶対に無理だとは言い切れないが、蓄えに相応の余裕がなければ難しいだろう。
「成人になったら発覚することは避けられなくて、そうなったら処分されちゃうことは避けられないから、十五までの命だって、決めてたとか」
 それはないかなあ、とレハトは自分の意見に自分で反駁して続けた。
「やっぱり、父親の動向とか去就がポイントだよね。えっと……一緒には逃げられない理由があって……。やっぱり父さんは死んだことにしよう。死んだらどうしようもないものね。……そういうお話読んだことあるな。難病の女の子がいてね、いつもお見舞いに来てくれてた人が来なくなったのはどうしだって周囲の大人に当たるの。その、いつもお見舞いに来てくれてた友達は事故で死んでしまったのだけど、大人たちは死を意識させたくなくて、友人が死んだことの動揺を与えたくなくて伏せていたの。でもいつまでも隠し通せなくて、あの人は死んだのだと教えると、女の子は喜ぶのよ。安心して、晴れ晴れした顔で。そうだと思ってたって。あの人が私を裏切って会いに来なくなったんじゃない。死んだから来られないだけだって。
 ね、これ以上ない、誰にも責められない言い訳よね。死んでしまったならお見舞いに来れなくとも仕方がない。その人がなすべき責を果たさなくても許される。死んだら何もできない。山の上から奇跡でも起こさない限りは。ねえ、私はもう死ぬわ。死ねるの。すべての責任から解放される。もうだれにも、神にすら私に義務を課すことはできない。本当の意味で逃げられる」
「レハト」
「聞いて」
 眼差しが彼を射る。
「聞いて、最後まで。今は。私はあなたに一緒に死にましょうとか逃げましょうとか言えない。だってあなたはそんなことをしたら苦しむだけだとわかっているから。逃げて幸福になれるんのなら今すぐ離婚して子どもはあなたの知らないどこかにやるわ。でも責任を果たしてとも言えない。同じことだからよ。だから私は私ともあの子とも関係なく、選定印ともこの国ともなにも関係なくただあなたがしあわせになってくれることを祈るしかないの」
 レハトは体の力を抜いて身を投げ出し大きく息を吐いた。手も使わず倒れるに任せた動作には、棒きれが地面に落ちるような乾いた音しか伴わない。回復可能な地点をとっくに越えていた。
 彼女は相手の言葉を待っているふうではなかったが、それでも何か言わなくてはならないと思い、タナッセは「そうか」とただ相づちをうった。もう祈るしかできることはないと訴えた彼女をどう慰めたら良いのかわからなかった。
 ただ思うことがあった。
 人間はいつでも可能性にすがりつく。希望という名の光に。絶望のただ中においても、身を焼かれ心を切り裂かれながらも助かる道を模索して、心を込め骨を折って励み思考し続ける。そうして破滅する。前に進もうとあがいたゆえに。助かろうと知恵を絞り試行錯誤したゆえに。果てない努力のすべてがまさに、滅びの沼へと人を推し進める。希望が人間を地獄に追い込む。
 何をするでもなく、レハトはタナッセに抱かれてじっとしていた。目を伏せて、一度ため息のようにも聞こえる深呼吸をしてまた口を開いた。
「私はずるかったなあ、と思って」
「お前が?」
「わかってもらえなくて良いとか、なんか……、出し惜しみしてただけかもって。あなたの気持ち……あなたが私を嫌ってる気持ちにつけ込んで、勝手に悲劇の主人公を気取っていたのかもって」
 タナッセの背中をひっかくように爪で何度かなぞり、レハトは少し笑った。
「私に贖罪する必要はもうないのよ、本当に。愛は契約じゃないのだから」
 タナッセは彼女を見なかった。遠く、地面に光のしみがぽつぽつと浮いているのを見ていた。
「タナッセ」
 レハトが口にすると、彼の名前は呼びかけと言うより何かの託宣のように聞こえた。彼女はタナッセの首筋に頭を滑り込ませ、彼を見てはっきりと言った。
「なんだ」
「よくがんばりました」