✥  この世の王国 [2]




 離れているといつも不安になる。早く顔を見たくなる。けれどもいざその時間ができると尻込みしてしまう。眠っているかもしれない。気を遣わせてしまうかもしれない。いくつもの仮定の不安を抱えて、それでもタナッセはいつもレハトに会いに行った。
「寝ていなくて良いのか」
「馬鹿言わないで。私は元気よ」
 確かに彼女の顔色は悪くはなかった。それほど、という注釈がつきそうだが、手で髪を手早くなでつけたり寝台のクッションを直す様子はきびきびしていた。だがもちろん、油断はできなかった。
「最近調子が良いようだとは、聞いてはいたが……」
 枕元に産婦の聖人小像が置かれているのを見つけ、なんとなく視線をやりながらタナッセは言った。手のひらに収まるほどの小さな石像だったが、特徴的な持物でそれとわかった。
「侍従頭の彼からいただいたの」
 視線を追いかけたレハトが解説する。
「無事に生まれますようにって」
「そうか」
 祈ってくれる人がいることは、心強いことだろう。
「……ね、庭の花が見頃らしいのよ。それで……よければ、一緒に見に行かない? 息抜きに」
「まあ、それぐらいなら……少しだけだぞ」
 勢いよく頷いたレハトを見て、タナッセは気づかぬうちに微笑んでいた。
 せり出したひさしの影に設置された長椅子に、二人は並んで腰をかけた。思ったよりも日差しが強く、日の下に出ることにタナッセが難色を示したので、妥協案として落ち着いたのだ。
「ここからじゃよく見えないね」
「あの青い花ではないのか」
 青が濃すぎて紫にも見える、目に沁みるような花が遠く緑の中に浮いていた。
「そうかも。花言葉とか、知ってる?」
「知らん」
「私も」
 レハトは声を立てて少し笑い、知らなくてもきれい、と成句のようにつぶやいた。花言葉を知らなくとも花はうつくしい。
 沈黙は午後の睡魔のようにゆるやかに忍んできた。風が梢を渡る囁きにまぎれて、洗濯女が水を使いながら仲間たちとおしゃべりする声が遠くから運ばれてきた。二人は黙ってそれらを聞いていた。
「タナッセ」
「何だ」
「聞いてほしいことがあるの」
「何だと聞いているだろう」
 レハトは彼が真剣に自分の話を聞こうとするまで待ち、耐えきれなくなったように瞳を閉じて告げた。
「愛してるの」
「……知っている。前にも言った」
 そっけない口調は、彼女が最善だと信じた方法なのだろう。
「そう。よかった。知らなかったらいけないから、教えてあげようかと思って」
 その声は僅かに震えていた。ほかの者なら気づかなかったかもしれない。それほどささやかな、風のせいかと誤認しそうな震えだった。
 私は選ばれない人間だったはずだ。
 何度も繰り返し教えられた信条が彼の胸に沸き上がる。価値のない出来損ないで、せいぜいがそこにあるだけの備品のような存在だったはずだ。
「……私……私は……。私には分からない。私がどう思っているのか、お前の言葉がお前自身から出てきたものか……」
 だからどうしてもうろたえてしまう。正しく伝えなくてはと思う思いが空回りして、にこごった、理解しづらい言葉ばかりが先んじて口をつく。
「私だって知らない。愛が何かなんて知らない、これが愛じゃないなら何かなんて知らない!」
「お、大声を出すな! 驚いただろうが。きこ……えているし、体に障る。それに、なんだその言葉遣いは。最低限の教練は受けただろうが」
「知らない。忘れた」
「母親になろうというのに、駄々っ子のような振る舞いはよせ」
「へん。知ったことか」
 無意識のうちに口にした母親という単語に、言った本人はひどく動揺していたがレハトは気づかなかったようだった。
 心配することが他にありすぎたのだ。レハトが母になり、自分が父親となることをうまく信じられないでいた。
「……これでいいのかな」
 ふとレハトがこぼしたその迷いは、タナッセが感じているものと同じだった。
 だからこそ彼は本音を口にする覚悟を決めたのだった。
「もしも、お前が……」
 それともこれは口に出さないほうが良いことだろうか。確信が持てぬまま、タナッセは続けていた。
「お前がこのまま回復して、滞りなく……母となり、私が父親となれるのならば、それは……それは、夢のようだと思う」
 声が震えないように、腹に力を込めないといけなかった。繋がりで怠い体には重労働だったが、レハトはこれ以上の物を背負っているのだと思えばなんともなかった。
「そんなことが、私の人生に起こりうるとは……思えないが」
 タナッセが口を閉じたのを見届けても、レハトはしばらく黙っていた。それについて考えているようだった。
「絶対大丈夫って、約束できないけど」
 彼女は瞬きをくりかえし長い時間をかけて、ひとつひとつの言葉を吟味するように言った。
「それでもいい?」
「――ああ。それでいい」
 簡素な言葉に込められるだけの意味を込めてレハトはたずね、タナッセはそれを理解した。少なくともそう思えた。
 タナッセはレハトを見た。隣り合って座る妻の顔をずいぶん久しぶりに見た。レハトは恥じらうように笑い、私もそうなったらいいなとずっと思っていたと、赤い頬でささやいた。
「あなたの顔、久しぶりに見た気がする」
 ためらいがちに微笑みかけるレハトに、タナッセは眉を寄せたままわずかに眼を細めた。風が彼女の髪をわずかにかき乱した。うららかな陽気で、じっとしていると暑いほどだった。
「私の父の話をするのは初めてだったな」
 突然話し始めたタナッセを、レハトは問い返しもせず黙って聞いた。
「……ろくでもない男だ。あんな人間にはなりたくないと思ってきたし、今でもその考えに変わりはない」
 中庭の花園をながめながらタナッセは続けた。ひさしの影は濃く、さかい目をじっと見ていると目が痛くなる。
「だがそれならどんな父親になりたいのかと考えても、思いつかない。立派な人間には、今さらなれはしないだろうが……同じ思いはさせたくない。……ああ、特になにか感想が聞きたいわけではないからな。聞き流してくれればいい」
 タナッセは知らぬうちに肩に入っていた力を抜いて曖昧に笑った。レハトは、「聞き流したりはしないけど」と前置きして続けた。
「あなたはそのままで十分だと思っているから、そのままでいいよ、ぐらいしか言えないわ。でも、きっと良いお父さんになるって信じてるの。きっとね。私も父親ってどんなものだかよく知らないけど」
 タナッセと同じ顔で笑い、自分の言葉に照れたように、レハトはわずかに目線を上げて取り繕うように言った。
「まぶしい」
「そろそろ、中に戻るか。いろいろと移動したりだの、あったからな。疲れがたまっているのではないのか」
「旅行のこと? 私は、別に。……あなたは、どんなことしてたのか知りたかった。昼間顔を合わせない日がけっこう続いたでしょう。気になっていたの」
「私は別に」
「別に?」
「ああ。別に、だ」
「なあに、真似してるの。やめてよね」
 無意味なやりとりを楽しんだのち、レハトは総括するようにすいと、言い切った。
「楽しかったわ」
「楽しい? そうか、まあ……それなら良かったが。特に何をしたという覚えもないが」
「きれいだったわ、あそこ。草原が緑の絨毯みたいで、湖が鏡みたいで。広々として、遮るものが何もなくて、切り立った崖が村……私の故郷に似ていた」
 夢見るように続けていたレハトは不意に「でもね」と思い出したように続けた。
「あなたと一緒に湖のほとりを一緒に歩いたりお風呂に入ったり、してみたかったわ」
 肝心なときに相手を見て言えないあたりが、普段の彼女からは考えられないほど気弱な態度がおかしかった。その臆病さが愛おしかった。
「それは……今からでも遅くはないと思うが」
 虚を突かれた顔のレハトがもごもごと弁解めいた言葉を口にする。ちょっと思いついただけだとか、そんなようなことを、歯切れ悪く答えた。
「お前はいつもそうだ、断られることを前提として自分から言い出して、こちらが乗ろうものなら引いて見せて……それは遠慮深いとも慎み深いとも言わん。――卑怯だ」
 タナッセにしては思い切った言葉を選んで言い切ってしまうと、不思議と負担が遠のいたようだった。
「そうだね。……そうね。私は臆病なのよ。嫌がられたらどうしようって」
「そんなこと、誰だってそうなのではないか」
「他の人になら、平気なのよ。ただあなたに対してだけ卑屈になるの。……でも、今のはあなたにしては、なんというか、まっとうなこと言ったと思うわ」
「どういう意味だ。本当に貴様は礼儀を知らん奴だな」
 むっとした様子のタナッセが言うと、晴れやかな笑顔でレハトは嬉しそうに謝った。
「ごめんなさい。ええと、それじゃあ今日、一緒にお風呂に入りましょう」
「断る」
「言うと思ったわ」
 大人の間違いを指摘して喜ぶ子どものような声を上げて、レハトは無邪気に笑った。どうしてこいつはこんなふうに楽しそうに笑えるのだろう、笑えるような状況では何一つないのに。タナッセはいつも思うことをまた思い、本当にこいつはわからないと、不快さからではなく眉間の皺を深くした。

「……私は断ったはずだが」
「これはただの嫌がらせだから」
 ただのではない嫌がらせがあるのだろうか。口には出さず疑問に思うタナッセの前に、風呂の準備が粛々と整っていく。どこから持ってきたのか、レハトが用意させたらしい桶はずいぶん大きなものだった。ささくれ避けに浸す布は寝台用のシーツを重ねてあるようだった。
 レハトは「わがまま言っちゃった」と笑いながら侍従らの苦労の成果を満足げにながめていた。
「不思議なものね」
 明るい部屋の中に、蒸気がゆっくりと立ち上っていく。レハトが淡々と語る、静謐に満ちた声音が、お湯の温度でとけていくようだった。
「子どもの頃は、村で余所の子たちと川で水浴びしたはずなんだけど、なんだか……自分の記憶とは信じられないくらい遠いの。他人と一緒に入浴していたなんて今では考えられない。いつからそうなってしまったのかも、もうわからない」
 話ながらするすると着物を脱ぎ、戸惑ったままのタナッセを置き去りに桶をまたいだ。
「これだけ広いと気分もいいわね。ゆったりできるし。今度からはずっとこれにしてもらおうかな」
「……侍従の苦労も考えろ。広い分だけ、湯がいるのだぞ」
「うーん、そうね。残念だけど。あなたも早く来て」
 うながされてタナッセは改めてうろたえた。裸を見せることよりも、他人の眼前で着衣を脱いでいく行為が恥ずかしい。しかし恥ずかしいから嫌だと拒否するのもみっともない気がした。
「……じろじろ見るな」
 レハトは桶の縁に両腕を預けて、遠慮なくタナッセをながめていた。
「だって、初めて見るんですもの。ええと……柔らかいときのは」
「……お前が忘れている。そういうときも、あった」
「……そうだったわ。あったわね。私、あれはちょっとショックだったのよ」
「なぜ」
「なぜって……それはほら、女としての魅力がないのかなあ、とか、そういうことよ。仕方がないけど、やっぱりね」
「次から次へと、ろくでもないことを考えつくな、お前は。……私にも体調だとか……気分だとかがあるのだ」
 レハトの後ろに回り抱え込むように座ってタナッセは言った。彼女は言われたことを考えて、そうねえ、とのんびり話した。
「そう言われると、私もそういうのあるわね。不思議だけど。あなたのことがずっと好きなんだけど、それでも気分が乗らないときってあるの。どうしてかしら」
「だから、気分だろう」
「でもどうしてかしらね。どうして気持ちと違ってしまうのかしら……」
 語尾は独り言のようにどんどん小さくなった。タナッセは返事をしなかった。レハトの尖った骨が胸にあたり、わずかな痛みを覚えた。
 レハトは終始はしゃいでいた。彼女が楽しそうにしていることに喜びを覚えると同時に、どことなく不安を覚えた。
 もう変わってしまったのだから、とタナッセは自分に言い聞かせた。
 だからレハトも戸惑っているのだ。それでも、なんとか自分と繋がっていたいと真摯に考えた末の行動なのだ。
「……? なに?」
「洗ってやろう」
「それは、いいけど……え、ちょっ……なになに。なんなの」
 タナッセはレハトの体を包み、腕を伸ばした。
「考えていたのだ。方法はひとつではないはずだと」
 いぶかしげな顔を作って、レハトはタナッセを見た。彼の手が、一度も触られたことのない場所に伸びてきていた。誰にも侵されたことのない領域だ。
「今はまだ気にせずともよいのだろうが、おいおい……考える必要があるだろう。……だから、その……あらかじめだ。準備というか……」
「それが、これ」
「私は……我々は、あまりに知識がない。手探りでやっていくしかない。しかしおまえがどうしても嫌だと言うなら……いや、そうであってもだ。そうしたほうがいいと、思う」
「趣味じゃないわよね? いえ、まあ、趣味でも良いけど……」
「違う。ひとえに、子と……妻と子のためだ」
「……そんなにいきなりできるものなの?」
「だから、準備をしようというのだ」
 彼女の言葉に、おかしなことをしようとしていると今更ながら確認されてしまい、羞恥から乱暴な言葉遣いになりそうなのをこらえてタナッセは言った。
「――私はどうすればいいの?」
 レハトはふいに詰問するような口調をといて、快活なまでにたずねた。先程までの態度は相手のための演技だったかのような、妙にさばけた口ぶりだった。
「ええと……ふちに手をついて、後ろを向いてくれ」
 レハトはわずかな間だけ、困った顔をした。だがそれはどこか嬉しそうでもあった。自分勝手な恋人のわがままを聞いてあげるような、甘さのある表情をちらりと見せた。それはすぐさまほかの表情に紛れてしまった。
「……これでいい?」
 迷うような、不安げな態度ながら彼女が指示通りにすると、タナッセは彼女の薄い尻たぶに手を置いて双丘を開こうとした。
「えっ、あの……ちょく、直接見なくても……、その……ダメなの?」
「今さら恥ずかしがるな。いつも見ている」
「えっ? み、見てるの?」
「それは……体勢によっては、見えるだろうが。昼間にしたこともあっただろう」
「え、うん、まあ、そうね。見えるわね。でもあの……ちょっと、やっぱりだめ、わかったから、自分でするから」
「お前の手順には不安がある」
「なによそれは。馬鹿なこと言わないで、あなたのほうがよっぽど不器用でしょう」
 妙な方向にそれはじめた会話に、タナッセは不思議と安心を覚えた。レハトはいつどんなときでも彼女らしさを失わない。
 こんなふうに自分自身をさらけ出して、本当に思っていることを口にできる相手はレハトだけだった。本心を話してしまっても良いのだと思わせてくれるのも、彼女だけだった。それがどこまで正しいのかはわからなかったが、彼女と共にいるときの自分を嫌いだとは思わなかった。
 慎重にすれば平気だと思うけどと言いながらも、レハトは彼に従った。タナッセは指を差し入れ、入口をゆっくりと広げていった。
「我慢できそうになかったら言え」
「我慢できないほどじゃないけど……」
 粗相があっても私の責任だから気にするなよとつけ加えると、「そういう問題じゃない」とレハトは不機嫌そうな表情をつくった。
「どんな問題だ」
「だから……あなた、わかってて言ってない? とにかく、うまくいけばいいのよ」
 それ以上追求するなと遠回しに言われ、タナッセもそうだな、とまともに返事をした。やがてレハトが小さく吹き出して、それからはじゃれあいながら続けた。
 魔術師の国でさえ、このような悪徳は非道と罵られたのではないだろうか。しかし、たとえ排泄のための穢らわしい器官だとて利用してはばからない、この情動の根源こそが人らしさの最たるものだと、タナッセは信じていた。
 予測に反してタナッセの性器はきちんと機能した。役目を果たしたのかどうかはわからない。レハトは普段以上にぐったりとして、今のところ具合が悪くなってはいないようだと、頼りない返事をした。


 産み月を迎えて、繊麗な体の腹だけが膨れあがる姿は異様だった。茶器を持つときに反対の指でそっと陶器を支えるような女にそれは重すぎる荷であった。
 しかしレハトが最も美しかったのはこの時だったように思う。わずかに睫毛を伏せてそっと腹をなでる姿は痛々しいほど美しく、もしも彼女が正しく彼の妻だったならばそれは目に楽しく心なごむ幸福な一場面として、焼き付いたことだろう。
 遅まきながらタナッセにもひとつ分かったことがある。愛とは暴力そのものである。
「動いて平気なのか」
 膨れた腹を抱えてうろうろと歩きまわる姿に、タナッセは不安を覚えた。古くからある、ほとんど確実と言われる堕胎法を連想してしまうのだ。
「そろそろ運動したほうが良いって、お医者様が」
「そうか。……医士のことは信用するようになったのか」
「臨機応変が私の身上だから」
 意地悪く言うとレハトは笑い、タナッセはぎこちなく笑い返した。実のところ、医士を信用していないのは彼のほうだった。
 タナッセが真実恐れているのは、レハトの身に起こる何かだった。死産であってもいずれは受け入れたことだろう。だが彼女がこれ以上損なわれることは耐えられそうになかった。そのことを恐れるあまり、他の多くの不安には目をつぶってきた。
 不安はあった。
 若葉が美しく生い茂った巨木の内側で、小鳥たちが枝から枝へとひそやかに飛び移っているように、不安はちらちらとタナッセの意識の裏を這い回り囁いてきた。あれは寵愛者だ。そして、それでも、お前はランテの血を引く者だと。
 産気づいた妻は用意していた部屋に隔離され、医師と産婆が呼ばれ、タナッセは一人耐えていた。倒れそうになる体を背もたれに押しつけて、平静を装った。組まれて膝の上に置かれた両の手は、血の気の失せた色をしている。足の裏と床が本当に接しているのか自信が無い。頭痛と吐き気は酷くなる一方だった。タナッセはそれを喜んで受け入れた。それはレハトの苦しみであり、ようやく自分に与えられた取るべき責任で、ずっと欲しがっていたものだった。
 そして繋がりは消えた。かき消すように吐き気も頭痛も去り、しつこくまとわりついていた誰かがふいに顔をそむけて去って行ったような戸惑いに喪失感すら覚えた。汗が引いていき寒気を感じる。解放され、息を整えながら顔を上げる。静かだった。
 ほどなくして使用人が緊張した面持ちで彼の元にやって来た。いつか見たような緊張と困惑と、喜ばしさを溢れさせて。
 そしてタナッセは彼の中で見ないふりをしていた存在がいま、眼前に立っていることに気づく。
 お前は人生を祝福していない人間が子どもをもうけるなどという欺瞞を許すのか?
「タナッセ」
 レハトは動揺し疲弊して、土気色の顔をしていた。それでも夫の姿を認めると、わずかに体をよじってはっきりした声を出した。
「お前は、本当に……最後まで私に厄介事を押しつけるのだな」
 彼の意識は笑おうとしたのだが、それほど成功しなかった。
「ごめんなさい」
 何度も唇を湿らせてためらい、レハトは言った。その言葉だけがぽかりと宙に浮いていた。
「ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんだけど、私……」
 タナッセは腕を伸ばしてレハトに触れた。汗で重くなった髪を何度も撫でて、もう片方の手を彼女の手に重ねた。いつか見た手の甲に浮いた血管は、いまや彼女を縛り上げる鎖として縦横に走りからまっている。
「絶対大丈夫だと思ってた。私はどこまでもそういう……そういう、主流から外れたような人間だと思ってた。表舞台には二度と出ないような。一時期、ただ、そこにいただけで……怒っても良いよ。ううん、いいなんて、そんな、おこがましいこと言わないわ。当然の権利だもの。こんな……私は、こんな……」
「いい。そんな話はいいから――」
 血の気のひいた白い顔に唇だけが赤々と浮いていた。
「いいから休め。何も考えるな」
 おっくうそうに頭を動かして、レハトは懇願した。
「怒ってよ」
「そんなことはしない。……するわけがないだろう」
 血の色をした唇が何かの形を取る前に、タナッセは彼女を寝台に横たえさせた。レハトは黙ってしまい、視線だけをたえず彼に注ぎ、待っていた。自分たちは今見つめ合っている。それはタナッセの息を苦しくさせ、ますます言葉を遠ざけた。
 汗の浮いた額を拭いてやりたい気がしたが、そのためには印に触れてしまう。それがタナッセには耐えがたく思え、代わりに目尻からこめかみまで撫でて髪を払ってやった。
「疲れただろう。よく……頑張ったな」
 侍従がやってくれるだろう。自分にはできなくとも彼らはちゃんと気づいて世話をしてくれるだろう。レハトは少し目を細め、諦めたように閉じた。苦しそうに息を吐く。
 選定。たくさんの中からひとつを選ぶこと。定めること。選定印。神の指の跡。思いもかけない嫌悪感がタナッセの中から溢れてくる。触るな。お前はレハトに触るなと、神と呼ばれる存在に明確な敵意を抱いた。ぼんやりとした、神など好きではないというこれまでの心情とは違う。こんなものが本当に寵愛だろうか。
「旦那様、このたびは……おめでとうございます。その……継承者様の誕生ですから。城に使いを……。ご指示をいただけますか」
「いや、まだしばらく……しばらくは、口外無用とする。何か言ってくる者がいればまだ生まれていないと言っておけ。間違いなくご機嫌伺いに馬鹿どもが戸口に溢れるぞ。贈り物を届ける奴らも多かろう。……とにかくあれを休ませたい」
 それは唯一信じられるものだった。けれどもそれすらレハトが否定した。血筋など考慮する材料にならないと。だがそれもレハト自身が再び否定した。何もかもなくなった後で残ったそのままのタナッセを、善悪を超えてレハトは肯定した。レハトが唯一の人間だった。彼女は自らの意思の力でそれを成し遂げたのだ。
 きれぎれに思い出す彼女のこと。自分のこと。これまでのこと。まるで死にゆく人を懐かしむような記憶の嵐に吐き気がする。
 まだ子どもの顔を見てもいなかった。