✥  この世の王国 [1]

・『運命の人』の『番外2』のその後の話。

成人向けです。
妊娠、出産、複数のオリジナルキャラクター、攻略キャラの子供、死にネタ、近親姦、肛門性交、自慰、屍姦描写などがあります。
作中、妊娠中の性交について謬説に基づいた表現がありますが鵜呑みにされないよう特に記します。




 物語の結末はふたつしかない。未来が到来して過去を殴るか、過去が手を伸ばして未来の首を絞めるかだ。どちらでもないのならば、その物語はまだ終わっていない。

 頬に触れるこめかみの熱さは発熱のためだった。旅の疲れが出たのだろうと、タナッセは慌てはしなかった。レハトの体調に波のあることは慣れていたし、疲れているのは彼も同じだ。いわんや彼女の体にかかる負担は自分の比ではない。寝室に運ばせ医士を呼ぶよう侍従に言いつけると、その場を離れて彼女のもとを後にした。去りがたい気がしたからだ。
 不在の間の書類にざっと目を通しながら片手間に茶を飲む。久方ぶりの執務室は最後に見たときと何も変わらない。戸棚も机もきれいに片付いて掃除も行き届いている。だというのに目に入る何もかもに違和を覚えた。自分だけが世界の位相からずれてしまったようないたたまれなさがあった。
 今日はもう休もう。
 ぐずぐずと書類をいじくっていたタナッセはやっとそう決めて紙束を放り出す。今日はこれ以上何を考えても無駄だ。疲弊しすぎた。あるいは、浮き足立っている。ひとつ息を吐くと扉をノックする者があった。思わずレハトだろうかと考えてしまうが、無論そんなわけはなかった。
 使いの侍従は緊張した面持ちで、その緊張はタナッセに伝染する。
 何かあったのだ。彼女の身に、緊迫するような何かが。
 自己弁護か、憐憫か、タナッセは連れだって早歩きになりながら、素早く考える。
 最善の選択をして最悪の結果を得る物語類型のような半生だったように思う。その時その時これが正しい、あるいはより良い、あるいはいくらかましだと、できうる限り考え努力して決断してきた。手を抜いたとも力を出し惜しんだとも思わないし、やけを起こして誤りだと分かっている選択をしたこともない。己の判断に間違いがあったとは思わない。無論あとから考えれば間違いだったとわかることもある。しかし、歴史に「もしも」はないのだ。結果を見てからこうすれば良かったああすれば良かったと己ばかりか他人に言ってのけるような輩はどこにでもいるが、それは僭越というものだ。神ならざる身である人が人を断罪するなどおこがましい。そんなことを言えるのは過去を変えられる者だけだ。
 この地上でただ一人王だけは例外だ。
 だから私が後悔するのは克服すべき弱さなのだろう。
「旦那様」
 神の指先の跡が残る額が、視界の端に入る。
 寝台のかたわらに控えていた医士はタナッセを見るや立ち上がった。緊張と困惑に頬をときおり引きつらせている。それでも報告を終えた顔は喜ばしさを隠さなかった。それを隠すべきだとはタナッセも言えなかった。
 迷いはじめたのはいつからだろう。口にすべきではない、というのが常識的な判断というものだった。その程度の分別はあったはずだった。けれどもそれだけでは、黙っているだけではだめだと、言葉にして一歩踏み出すべきではないのかとずいぶん葛藤していた。そうして思いもかけないときにその瞬間が訪れ、こごっていた言葉はするりと口を飛び出た。いちど口を開けばあとは止めようがなく、背中を押されてたたらを踏むように前進した。
「なんだかおかしいなとは、ときどき思ったのよ。具合の悪さがいつもと違うように感じたの。今から思えば、だけど」
 横になったままレハトは思いつくまま喋る。
「あなたは? なんともなかったかしら。……それにしても、気づいたのが帰ってきてからで良かったわ。外出をやめにしたくはなかったもの」
 妊娠しないと思っていたとレハトはぽつりと言い、それはタナッセも同じ気持ちだった。医士は結婚当初から、体力的に懐妊は望めないだろうと、言葉を濁しながらも意図は明確に二人に伝えていた。彼女の肉体は寵愛者の頑健さをもってしても自らを支えるのに手一杯で、己以外の存在に割く余力はないのだということを、夫婦それぞれにそれぞれのための言葉で宣告していた。
「あんまりしつこく本当かって聞いたから、お医者様が不機嫌になってしまって」
 レハトは風に揺れるカーテンを見つめながら喋った。そこに自らの運命でも隠されているかのような真面目な顔で。
「でも、ずいぶんじゃない。あれほどはっきり無理だと断言しておいて、間違いでしただなんて? おまけに、他ならぬ私の体が妊娠できると判断したから妊娠したのだ、ですって。なによそれ?」
「レハト」
 自分の声がかすれてほとんど聞こえなかったことに、動揺しそうになった。きっと自分は平静な声で喋れると、信じていた。
「同語反復でしょう。なにも言っていないのと同じよ。馬鹿みたい。医士のくせにまじない師みたいなこと言って、役立たずだと思わない」
「泣くのはよせ」
「泣いてない」
 否定の返事だけはいつも素早く、レハトはわずかに鼻をすすり強くまぶたを閉じて黙った。血管が透けて見える薄いまぶたをタナッセは見ていた。
「どうしてそんなに落ち着いているの。人ごとだから?」
 ひらいた瞳を、ようやっと夫に向けて彼女は詰問した。
「驚いている最中だからだ。……当たるな」
「……私だって、びっくりしたわ」
「そうだな」
「私、妊娠してるんですって」
「それはもう聞いた。……まあ、とりあえず、少し休め。ああ……何か食べたほうが良いのではないか。もってこさせよう。まあ、食欲があれば、だが」
 タナッセも同じように、思いつくままとつとつと口にした。彼がゆっくりと喋っているあいだにレハトはだんだんと冷静さを取り戻していった。そしてもう一度鼻をすすり、「やつあたりしてごめんなさい」とこそりと言い、「あなたと同じものでいい」とつけ加えた。
 途切れた言葉の断片がいくつもタナッセの頭の中で回った。考えることが多すぎて、どこから手を付けていいのかわからなくなっていた。侍従たちに指示を出している自分と、事態を受け止めきれずにその姿をぼんやりと見ている自分とが別たれて感じた。
 決定的な瞬間が来てしまったのだと感じていた。もうけして後戻りはできないのだ。わからないふりも、見ない振りでやり過ごすことも、無視することもできない時が。二人は運命を共にする者だった。そして今、本人が望んだわけではないのにこの共同体に乗り込まなければならない存在があらわれた。
 子ども、とタナッセは胸の中でつぶやく。
 私達二人の子ども。同じ家名を継ぐ第三の存在。

 翌日にもなれば、レハトはもう落ち着いていた。少なくとも表面上は穏やかにタナッセを迎えて、昨日は興奮して迷惑をかけてごめんなさい、などと何ごともなかったような顔で謝罪した。
「でもどうして妊娠なんてしちゃったのかしら」
「……今さら言っても仕方があるまい」
 午後も遅く、閉め切った部屋は薄暗かった。
「そうね。絶対なんてあるわけがないのだから……そういうことだって、ありえたわね」
 曖昧な言い方で原因を遡及して結論づけて、それ以上は言わなかった。言えば、どこまでも遡らなければならなかっただろう。
 最初の衝撃が過ぎてタナッセが真っ先に考えたのは、レハトの体はどこまで持つのかということだった。時に熱を出し、時に死体のように冷たい指先で、寝込むことを繰り返すあの体で?
 長く長く黙ったのちに、タナッセは口を開いた。
「お前はどうするつもりだ」
 翳りゆく部屋で彼女は寝台に横になり、タナッセは椅子に腰掛けて、互いに別々の物を見ていた。
 この先この光景を思い出すのだろうかとふと思いついて、それが身震いするほど不愉快なことにタナッセは苛立った。情緒纏綿にもほどがある。こんな場面はうんざりする。こんなことのためにこんな所まで来たわけではなかった。
「私が欲しかったものはたくさんあったけれど、何ひとつ手に入らないんだって、思ったのよ。恨んでいるとかそういうことはないけど。力が足りなかっただけ。あなたのことだって欲しがったつもりはなくて、私が何かをしてあげられるのじゃないかだなんて……それも結局思い上がりだったのかもしれない」
 結論より先に過程だけを振り返り、過去の道筋をひとり辿って、彼女は自分の言葉を噛みしめていた。比喩ではなくほんとうに唇を噛んで、何かを睨みつけるような表情は悔しげにも見えた。タナッセは何から言おうかしばらく迷って口を開け閉めして、それから言った。こいつならこう言うかもしれないと、なかば予想はしていた。
「お前、産みたいのか」
「そう。実は、そうなの。……産みたいのよ」
 タナッセが口をつぐんだのを見て、レハトは時間をかけて口角を上げて、ほほえみのような表情を彼に見せた。
「子どもができるとは思わなかったけど。そうなってしまった以上、今さら言っても仕方がないから、だから言うけど、私は産みたいの。馬鹿なこと言っているよね。いつまでここにいられるかもわからないのに、無責任だし。けれど、始末してしまうのだって、同じくらい無責任よね? だから……」
 必死になって畳みかけた言葉を中断して、レハトは諦めたように息をつく。
「……こんなの、ただの言い訳よ。ただの理屈。たんなる自己愛の延長。私が産みたいの。それだけ」
 子は宝と呼ばれ、望まれて生まれてくることこそ幸福だと考えられている。タナッセもそこに異論は無い。ならば、子どもの命よりも母体を優先したいから堕胎してほしいと考える父親は、父親の資格があるのだろうか? 子を産まないでほしい、は愛の言葉たりえるだろうか?
 そして彼女が長く一緒にいたいから子は諦めるとでも言えば自分は満足したのだろうか、喜んだだろうか、自分は愛されていると思っただろうかとタナッセは考える。
 どのような選択も後悔が待っているのように思えた。危険を冒してでも子どもを殺せばレハトが助かるという保証はない。ちょうど、懐妊はないと医士がお墨付きを与えたように。
「産むにしろ産まないにしろ、危険は変わらんだろう。確率が……どのようなものかなど、わからんのだから」
 タナッセは息を吸い込んで、慎重に続けた。自分一人でどうにもならないのなら、自分一人で考えていたところでどうにもならないのだ。それが彼が得られたもっとも前向きな展望だった。なるようになれ。流されるままここまで来たのだ。
「だが、最後まで引き受けるのが筋というものだろう」
 レハトがぼんやりと見上げると、タナッセはごく真面目な顔で見返した。
「私が、育てると言っているのだ」
「途中でやめるわけにはいかないのよ」
「産み捨てただけでは親とは言えんだろう」
 きっとこれが最後の機会なのだ。
「私はそうなるわ。産み捨てて、親らしいことなんてなにもせず、記憶にも残らない」
「そうはならない。お前はそんなことにはならない」
 疑念の余地ない口ぶりに、レハトは眉を寄せ探るようなまなざしを彼に向けた。対峙するかのように二人は向かい合い視線を交差させて、見つめ合うと言うより睨み合うような緊張感が満ちた。
 それでも互いが互いを思い合っていることは疑いようがなかった。直接的にいたわり合うような言葉をかけたり、体の心配をしたりすることはほとんどなかったが、同じ戦場に立つ者同士として、いつも互いを視界に入れていた。タナッセにもわかっていた。
「そんなになにもかも上手くいくわけないわよ」
「お前にわかるのか?」
 夢を見ていたことは間違いない。
 レハトの体調は良くなっているように見えた。あの忌まわしい儀式の影から逃れえたのではないかと思えた。自説に具合の悪いことは都合良く忘れてしまえるように、指圧の弱々しさや休み休み歩く姿などの数々の兆候はその場限りのものかもしれないとうそぶいて見せかけの希望にすがった。だんだんと良くなってきている。これはむしろ、回復の証だ。自分と、彼女と、息子と、三人で暮らすこともあり得るのではないかと夢想した。
「私のような人間は、理性で子どもは持てないのよ」
 馬鹿だから、と自分に言い聞かせるようにレハトが言う。
「ならば蛮勇だな」
 揶揄する風でもなく返答するタナッセを、レハトはまごついたように窺う。
「なんだ」
「なんだか……変わったな、と思って。こんなときにそんなことを言うなんて。……それとも知らなかっただけかな」
「――お前のせいだ」
 他ならぬお前が私を変えたのだ。
「……生み捨てて憎しみの対象をつくるのと、産まれる前に殺されるのと、どっちがましなんだろうね」
「わかるわけないだろう、そんなこと」
「誰かを憎むのは、きついことでしょうから」
「わからないことを考えても時間の無駄だ。私たちは神ではないのだから、できる限りのことをするしかない」
 レハトの笑みはいつも彼には理解できないところで顔を出す。
「――神様だって、存在しないもののことなんてわからないよね」
 冗談を言うとき特有の開けっぴろげな、それでいてどこか媚を売られているような親しげな態度で、レハトはくすくすと笑いこぼしながら続けた。
「だとすれば、私たちは神様以上の存在かもしれないわね」
 タナッセには測りかねる、手に負えない無謀さをもてあそぶ口ぶりは、本人も信じていないことがありありと伝わってきた。誰かをからかうようなささやかな笑いが尾を引いてゆっくり消えると、ふと黙り、沈黙の中に引きこもった。
「迷惑よね」
「それは質問か」
「別に、……そんなわけじゃないわ。ただ……そうだろうな、と思って」
 レハトは目をそらし、意味の無い言葉をぼそぼそと言い訳した。
「ならばなぜ、お前は私に聞かない?」
 強い調子の言葉に、レハトは顔を上げわずかに目を見開いた。
「私がどうしたいのか、お前は私に質問するべきではないのか。なぜ聞かない? お前だけの問題ではないのだぞ」
 レハトはわずかに口を開けてタナッセの言葉を聞いていた。驚いたような、すぐそばにあった物に何かにようやく気づいたような、どこか泣き出しそうなはっきりしない表情だった。
「うん」
 腿の上でそろえた手を見つめて、レハトはもう一度うなずいた。
「……うん……」
 それから寝台に手をついて、挑むように語気荒くタナッセに迫った。あまりに直接的な問いかけに、始めたタナッセのほうが驚くほどだった。
「迷惑でも、最後まで私と一緒にいてくれる?」
「最初から、そう言っているだろうが」
 そう言い切れた自分を、タナッセは誇らしく思えた。
 この私にも、ようやっと。責任を取らせてくれる順番がめぐってきたのだ。
 気が抜けたような顔になって、レハトはゆるゆると肩の力を抜いていった。安心したと言うよりは、途方に暮れているような表情だった。
「前に……領地をもらってくれだとか言ったけど、あなたの好きにしていいからね。好きにしてほしいの」
「そんな話の前に、お前はまず良くなることを考えろ。これまでのように再々倒れることなどできないのだぞ」
「……うん」
「あまり……そこらをうろうろするのもやめろ。部屋で大人しくしていろ」
「わかったわよ。元々病人のようなものだもの、大して変わらないし」
「……そうだな」
「――いまの、冗談。ただの……軽口よ。ごめんなさい。私って、口が悪いわね。……考えなしで、しゃべるから」
 レハトは独り言のようにつけ加えて所在なげな手で髪を耳にかけた。
「ほら、長患いの死に下手、だっけ。意外に長生きするかもしれないし。分化のときは口づけだけで乗り切れたのだから、きっと平気よ」
「……思い出させるな」
 彼女は良い思い出とは言えない過去を、明るいとは言えない将来像を、頓着せずに口にする。その心を曇らせたくなくて、タナッセも気にしてはいないふうに、気軽に答える。
「肖像画の注文でもしましょうか」
「やめろ、縁起の悪い」
 返事を聞いて、レハトは作ったような笑顔を見せた。

 あれはどこまで耐えられるのだろう。本当に、医士の見立て通り、体が持つと判断したのだろうか。
 実際のところどこまで行けるのか見当もつかなかった。きっと大丈夫だと願望が言い、同時に反対のことを考える。出産どころか妊娠を継続するための体力すら不十分なのではないか。そして切り札とも言えた特有の回復手段は、堕胎の危険を排除できない。そうなれば、彼女自身無事では済まされない。
 良くできている、とタナッセは自嘲した。見事な袋小路だ。どうあっても自分はレハトを傷つける。あらゆる方向から、あらゆる意味で、彼女を傷つけるために存在する。今はそれを受け入れるしかない。
 持ちだしたものを戻せばいいのだと魔術師は言った。それは確かにある程度成功した。けれどももはやそれだけでは足りないのだ。体系だった知識と呼べるようなものはなく、経験は断片的だ。一人では限界がある。
 子が産み落とされるまで、一年近くある。その間タナッセは考えうる全ての手段をとるつもりでいた。
「城の……王族塔に入れるような官吏はいるか。無論、信頼できる者で」
 侍従頭に問うと、縁戚の文官が一人いるとのことだった。十八年城にいて誰とも信頼関係を築いていない自分に苦笑しながら、二度はないのだからとタナッセは自分を慰めた。文を飛ばし、まじないのような合図をしてほしいと頼むだけだ。もし返事があれば、自分に連絡してほしいと。不審がられながらも「指示通りにした」と返事があったが、その後の沙汰はなかった。邸でも同じように合図を送ってみたが、応答はなかった。あれほどうっとおしかった男の声ほど求めているものはなく、しかし返答はない。予想はしていたのでそれほどの失望はなかった。魔術師は見つからない。空白に話しかけるような無益な行為は最後まで続いた。
 待つ行為は少年が目覚めるまでのあの身を削るような日々を思い出した。
 他に思いつくのは良い医士の手配くらいのものだった。怪しげな民間療法にすがるほどは思考は混乱していなかった。しかしかつての候補者、選定印所持者にお付きの医士が増えたことはじわじわと巷間に広まっていった。
 タナッセにはそんなことにまで気を配る余裕はほとんど無かった。探りを入れるような文が数通届いて、やっと妻が特別な人間であることを思い出したほどだった。