✥  掌編2

・短いの四つ。主にレハト(男)×タナッセ(男)。二つ目と三つ目は現代パラレル。
診断メーカーのお題を使わせていただきました。
タイトルは「場所/登場人物の行動/使用する単語」です。




早朝のベッド/プロポーズする/雷


 鎧戸を叩く風雨は弱まる気配がない。閉じた窓を眺めても無意味なのはわかっているが、外が見たくてカタカタ揺れる戸を見つめていた。そうしてぴったりとしめきった窓の向こうの光景を想像する。数歩先すら見通せないほどに紗のかかる視界、息ができないほど降りつのるしぶき雨。
「雨すごいな」
「そうだな」
 思いがけず返事があって、隣を見た。眠っているのかと思っていたが、タナッセは案外はっきりした顔をしていた。さっきまでの俺と同じように、閉じた窓を見ている。
「起こした?」
「雨音に」
「まだ早いよ」
「こう暗いとわからんな」
 唸るような雷鳴がとどろき、腹にたまる。しばらく二人で同じ音を聞いていた。
「止まないな」
 タナッセがぽつりと言う。寒いのか、裸の肩を隠すようにシーツを引っ張り上げている。後ろ髪の一房が折れて、妙な方向に跳ねていた。閉じかけた瞳を引き留めたくて口を開くと、思いもよらない言葉が勝手に飛び出した。
「この雨は止まないよ」
「ほう」
 退屈に慣れた高貴な人びとがそうであるように、タナッセはいかにも冷え冷えした口調で相づちを打つ。なにもかも大昔に経験したことだというような倦んだしぐさに、興味のなさと心がひかれる様子を同時に装える、その見事な技法を彼が無意識に披露するさまがたまらなく好きだ。
「まだまだ降るよ。世界が沈むまで降るんだからさ」
「ここはなんともないようだが」
「まだ地上に残っているのはこの城だけだ。他はもう沈んだ。ここももうじきだ」
「お前がこの国最後の王となるのか。なんともはや」
「みんな死ぬから何も心配するなよ。城が沈んだら二人で舟に乗ろう」
「どこにも行けないだろう」
「行けるところまで行くんだ。釣りでもしながら、水没した世界を見て回ろう。ずっと遠くまで行こう」
「二人で?」
「一緒に」
 問いかけるように見上げる瞳を見返した。
「そのあとはどうなる……」
 おとぎ話のめでたしめでたしの続きをせがむ子どものような言葉を、タナッセは静かに口にした。
「そこで終わりだよ。最後は俺たちも沈む。おしまい」
「……はっ」
 皮肉っぽく唇を歪めてタナッセは息を吐く。
「それも悪くないだろう」
 言ってから、本当にそう思ったのか楽しげな顔を見せた。
朝の屋上/さびしがる/ラーメン


「うわあ、寒い」
 大げさな叫びにため息をこらえてゆっくりと振り向くと、案の定レハトだった。両腕で自分を抱きしめながらこちらに向かって歩いてくる。
「朝は冷えるね」
「年寄りみたいだぞ」
「もうトシだよ。そのあたり、濡れてないの?」
 軽やかに足を踏みならし、レハトは眩しげに目を細めて笑う。そして私が腰を下ろした屋上のへりを指さした。
「そういえば、濡れていたような気がするな」
「えっ。なんで座ってるの? いいの?」
 言ってほどいた腕をむやみと動かす。
「かまわん、どうせ洗うのだから。お前が」
「僕かよ!」
「それぐらいしろ」
 コンクリートは夜のあいだに熱を放出し終わり、朝露に濡れて冷たい。普段は意識しないそれが、質量のある石くれだと感じられた。墓石のようなじっとりと重い巨大な建造物。
「まあ、するよ。それぐらい」
 困ったようにレハトが頷いて、私は黙る。
 上半身を少しばかりねじって、屋上からの景色を眺めた。何か感慨があるのではないかと思って来たはずだったが、どうしてか惜別の嘆きも、出立の喜びもなかった。
 ざらつく感触が手のひらをこする。かすかな痛みが覚醒したばかりの体に不用意に響く。
「おなかすいたな」
 太陽は顔をすべて出しきった。今日一日の快晴を約束するような青空が隅々まで広がっている。
「ねえラーメン食べに行かない? この間、おいしいとこ見つけたからさ」
「一人で行け」
「付き合い悪いな。あ、やっぱり時間帯で食べるもの決めてるの? ラーメンは昼食、ステーキはディナー、とか、そういうの」
「そうだな」
 振り向かずに、適当に答えるとレハトがふっと小さく息を吐くのが聞こえた。考えてみれば、私たちは喋ってばかりいた。はじめて顔を合わせたときから、ずっと。
「本当に行くの?」
「何度も言っただろう」
「僕を置いて?」
「結果的には、そうなるな」
「あなたがいないと、僕、だめかも」
「お前は大丈夫だ」
 たまりかねたようにレハトが語気荒く詰め寄ってくる。
「タナッセはどうなの」
「私は、大丈夫だ」
 言い切ると、レハトはわざとらしくため息をついた。
「強情だなあ」
「意志が強いと言え。……お前から学んだのだ」
 やっとレハトの方を向いて言えば、当人は仏頂面ですたすたと近寄ってきた。
 隣に座ったかと思うとくるりと体を反転させて足を外に垂らす。柵のない屋上の外側に。地面ははるか下だ。
「ふーん。本懐を遂げたってわけだ」
「本懐? 私が?」
「そうでしょ。ある意味、リリアノの跡を継げるんだから」
 感心して、「なるほど」と声をあげるとレハトは指摘しておきながら面白くなさそうな顔をしている。
「そういう考え方もあるか。だが、別に私の本望では……」
「じゃあ、あれだ。江戸の敵を長崎で討つ」
「……それこそ全然違う」
「いいよ、わかってるから。いいんだ。僕にはふさわしくないってさ。優しくないし、賢くもないし。さっきだって、電子レンジでお湯沸かしたりしたし」
 見せかけの態度に「これはポーズです」とラベルを貼って、そこまでしてようやく安心できるのは、お互い様だった。それで終わりにしてやろうということなのだろう。最後までこの態度を崩さなかった。空疎なソフィスティケーションと習慣的なアイロニーを繰り返すことで隠蔽されていく雑多な関係性。
 私たちが築いたのはこんなものだったろうか。
 しかし、せっかく見逃してくれるというのだから、乗らない手はなかった。
「侍従たちがどうやって湯を沸かしても興味は無いな」
「薄情だな」
「その通りだ」
 不意にレハトが腕を伸ばして、私の胴体をつかまえた。額を胸にこすりつけて、小さく鼻をすする音が一度だけ聞こえた。このまま力を込められたら落ちるな、と思いながら抱き返すことはしなかった。
「さみしくなるよ」
「息災でやれ」
 私もだと言いかけて、ひっこめた。
「ねえ、おなかすいたからさ、ラーメン食べに行こうよ。最後に。タナッセのおごりで」
 無邪気な様子でねだるレハトに苦笑してしまい、仕方なしに頷いた。仕様がない奴だなと兄のように言うと、レハトは縁石からそろそろと降りて私の手を引き歩き出した。
昼の書店/ときめく/枕


 前夜の雪が凍った道路なんて、普段なら運転は避ける。でも今日は何があっても行かなくちゃならないところがあった、それこそ雪が降ろうと槍が降ろうとも。深呼吸して、ギアをローに入れる練習をしてからエンジンをかけ、予定していた時間よりずっと早くに家を出た。そうして背中に冷や汗をびっしょりかいて、郊外の巨大なショッピングモールにたどりついたときはへとへとだったけど、なし遂げた達成感でほとんど崇高な気分になっていた。そうだ、なんたって憧れのディレマトイさんに会えるんだ。これくらいはなんともない。むしろ、気分が盛り上がって良いじゃないの。朗読会の時間まであと五分ある。ダッシュでいけば大丈夫、いけるいける。
 ……はずだった。
 そのくそったれなショッピングモールは設計者の理性に致命的な欠陥があり、ワイオミングの荒野のごとき広大無辺な敷地と入り組んだ構造を誇りさらに本屋が複数箇所に配置されていた。サイン会? こっちじゃなくてサウスエリアの三階ですね。
 何でこのご時世に本屋が複数入っているのとは、読書家の端くれとして愚痴るまい。原色の森をさまよい、ヒールで足をぐねってたどりついた書店の中を進み、見慣れた著者近影が印刷されたポスターを見つけたときには疲労困憊していた。
 それでも彼を実際に目の当たりにすると一気にテンションがあがる。あの人実在したんだ!
 著者による朗読会は終了していて、場はサイン会に移っていた。長机に新著が積まれ、順番に握手して離れていく。
 朗読会、参加したかったな。何を読んだんだろう。質疑応答はやってくれたのかな。誰か、ネットにレポあげてないかな。つらつらと考えながらすみっこでひっそりヘコんでいると、腕を組んで壁にもたれかかった男性が揶揄するように楽しげな声でつぶやくのが聞こえた。
「調子に乗ってるなあ」
 腹が立って思わず睨みつけると、目が合った。
「失礼ですよ」
「すいません」
 男性は、組んだ腕を少し緩めて軽く頭を下げた。背が高くて、強そうだったので、怖かったけれど周囲には人がたくさんいる。いきなり殴られたりはしないだろうと、思い切って続けた。
「……ファンじゃないなら、どうしてサイン会なんかにいらしたんですか」
「ファンじゃないってわけじゃ……。ただ、俺は個人的な友人で、こういった場面は初めて見たものだから、なんかちょっと……面白くなっちゃって」
「あ、そ、そうなんですか。すみません。朗読に間に合わなくて、ちょっと落ち込んでいたもので、言い過ぎました。でもご友人なら応援してあげても……余計なお世話ですね。ごめんなさい」
 気恥ずかしさからなにか言わなくちゃと焦って、さらに余計なことを言ってしまった。
「いや、俺こそ。あのー、TPOていうの、考えてなかったよね。言い訳すると、あいつは調子に乗ってるくらいでちょうどいいからさ」
「そうなんですか? そうですね、デリケートなかたなんでしょう」
「ウン、まあ……そう……かな」
 友人と名乗った男性は、居心地悪そうにニット帽の中に手を押し込んで頭をかいている。一ファンと、生身の彼を知る人とでは違う見方があるのだろう。
「でも、文章に書かれたほうが本当の気持ちという気がしませんか」
「本当、かあ。そうなのかねえ。近くにいても、わからないことなんていくらでもあるから、そうなのかもな」
「あ、私のほうが彼をよくわかっているとか、そんなことを思って言ったわけじゃないんです。ただ、上手く言えないからこそ文章を書くこともあるでしょうから、そこに本音が反映されることも、と思って……」
 それほど強固な信念を持って口にしたわけではなかったのに、何か思うところがあるのかものうげにそんなことを言うので、慌ててフォローに走った。やっぱり私は口で何かを言うのは苦手だ。私の弁明を聞いて、いやちゃんとわかったよいい人だね、と彼はすぐに笑顔になった。子どもが甘い物を口にしたときのような、いやみのない笑顔だった。
「ディレマトイさんは、詩の中と実在はそんなに違うんですか? 例えば……実際はすごく人好きする感じだったり、意地悪だったりとか。答えづらかったら、気にしないでください」
「あいつ? やー、あんま変わんないかな。それに良い奴だよ、本人もそう言ってたし。ところでファンの人って、今でもディレマトイって呼ぶのが普通?」
 ディレマトイにセルフブランディングに熱心なイメージはなかったけれど、少しはコントロールしているのだろうか。なんとなくはぐらかされたような気がしたけれど、彼の流し方が自然で気にならなかった。そつがない。
「あ、いえ。私はクセというか、習慣です。子どもの頃にはじめて読んだ物が筆名で、それが思い出深いもので……。たいていはお名前で呼びますね」
 友人さんは肩の力の抜けた人で、話しているあいだこちらに緊張感や威圧感をまったく感じさせなかった。ひょうひょうとしてとらえどころがないのに落ち着いている。さっきの笑顔といい、ディレマトイの作風とは相容れないんじゃないかと変に気をもんでしまうけれど、友達というのはそんなものなのかもしれない。
「ちょっとした派閥があるんですよ。旧筆名派と本名派は仲が悪いんです。旧筆名派は初期のピリピリした雰囲気の作品が好きで、自分たちが発見して育てた、みたいな自負があるひとがけっこういるんです」
「アイドルみたいだな」
 彼はあごの先をいじりながら妙に真面目に論評した。
「私は、一番思い入れがあるのは最初に読んだ処女作ですが、素直に好きなのは近作かもしれません。だから討論会なんかで日和見だとか言われちゃうんですけど。ご友人さんはどうですか?」
「俺はいつだって今のあいつが好きだよ」
 友人さんはまっすぐ前を向いて、行列の向こうの彼を見て言った。それは作品に対してというよりも彼自身について、とても個人的に言及したように聞こえた。私的な告白を思いがけず聞いてしまったような戸惑いに、私は一瞬黙る。
「ほら、順番だよ」
 促されて行列の終わりに押し出された。振り返ると友人さんはもう一度ゆるく笑って、腰のあたりで控えめに手を振った。私も会釈して、向き直る。
 前の人がテーブルを離れて、私の番がきた。
「おっ応援しています。これは、私の、枕頭の書です。何度も読み返しています。十四歳の頃からあなたのファンです」
「ありがとうございます」
 彼がさらさらとフェルトペンを動かしているあいだに、いそいでハンカチを取り出し手汗をぬぐった。さっきまではどきどきするなーと思っているぐらいだったのに、いざ目の前にするとどっと汗が出てきたのだ。
「応援しています。新著も、まだうまく咀嚼できていませんが、何度も読み返しています」
 しまった、同じことを二回言ってしまった。
 差し出された手は男性にしてはほっそりとしていた。ペンより重い物を持つことなんて考えもしないだろう柔らかな手で、間近で見ると目元にうっすらと笑い皺が見えて、それがとても意外だった。ちゃんと人間だった。
 ディレマトイさんが控えめに微笑んでくれて、私は十四歳の子どもに戻った気分だった。
 握手を交わしたばかりの手を、空中に浮かせたままふらふらと列を離れた。ほうと息をついて、壁際を見回したけれど、友人さんはもういなかった。握手してしまったと自慢したいような気持ちだったけれど、友人さんはされても困るだろうから、はしゃいで迷惑をかけずにすんでよかったかもしれない。
 貰ったサインをしみじみ眺めて嬉しくなっていると、頬が熱くなってるのに気づいて、確かにアイドルみたいだと苦笑した。
夕方のベランダ/選ぶ/糸


 露台にしつらえた食卓のろうそくが微風にちらちらと揺らいでいた。タナッセはぼんやりとその炎をながめながらレハトを待っていた。
 街筋からは人通りが絶えて、昼間に巻き上がった土埃がゆっくりと戻ってくる。立ち並んだ家屋の鮮やかな屋根も、薄暗がりに見分けがつかなくなっていくところだった。
「先に食べてりゃ良いのに」
 音もなく露台にすべってきたレハトは自ら椅子を引いて座った。待たせたことなどついぞなかったように堂々と、後ろめたいところなどなさそうな振る舞いにタナッセは少しばかり眉をひそめる。
「客人を放っておいて、そんな真似をするわけがないだろう」
「今さら義理堅いそぶりなんてするなよ」
「お前と違い礼節が身についているからな」
 レハトはどことなくかどだって、軽口を盾に絡むような口をきいた。険悪というほどではないがなにか不安定な、自身をなおざりにするような雰囲気だった。
 何か言うべきだろうかとタナッセが考えているあいだ、レハトは料理の説明を熱心に聞き、彼には構わず食べ始める。
「この肉ってトリ? さっぱりしてうまいね」
「大事な領地を人に預けて遊行とは、お前もずいぶんと余裕だな。多少は落ち着いたかもしれんが、良かったのか」
「ディットンに来たかったんだよ」
「ここに? 観光でもしたかったのか」
「いや」
 わずかに頭をふり否定して、レハトは食卓の中央に置かれた燭台の明かりを見ていた。ふと手を伸ばし、灯火のひとつを指でつまんで消すと、明るすぎるからと独り言のようにつぶやいた。
「まさか、父親探しでももくろんできたのか。見つかると思っているのなら愚かしいことだぞ」
「発想が意外と前向きだな。違うよ」
 とりつくろうように冷やかしつけると、レハトは軽薄な笑顔で否定した。
「きのう、魔の草原に入ってみたよ」
 思いもかけない言葉だった。呆然として見返すと、彼は顔をしかめながら口元だけで笑った。言葉の意味するところがようやくタナッセに理解できたころ、レハトは安心させるように続けた。
「なんともなかったよ」
「……どうして、そんな真似をする」
「ただの好奇心だよ。機会があるならやらずにはいられない人間なんだ」
 苛立ちで険しい顔を隠さないタナッセをなだめるように、レハトはへらへらと笑った。
「そんなに奥まで行ってないよ。ほんの二、三歩、ちょっとだけ。臆病だからさ、本当に戻れなくなるのは困るんだ」
 そのときの風景を思い出しているのか、きつく目をつぶり、ゆっくり開いて続ける。
「この国に背を向けて、南を向いて立つと、草しか見えないんだ。もさもさ生えてるからさ、草が。空と、背の高い草だけ。呼ばれるだとか話に聞くけど、俺には何も聞こえなかった。草むらの中に立ってるとさ、俺が異物だという気がしたよ。延々つづく草原の欠けた部分。俺がいることで、俺のぶんだけ、草原に欠落をつくっているんだ。俺が草原を損ねているんだよ。……それから、すぐにもどったよ」
 レハトはしゃべり終わったしるしに渇いた喉を潤すと、手にした杯を見て不意に気づいたように言った。
「乾杯しよう。忘れてた」
「……何にだ」
「親友の門出に」
 言って、レハトは従僕に新しいカップを持ってこさせた。真意が読めずにタナッセはいくらか困惑しながらそれを受け取る。
「門出というほどのことでは……大体、いまさら」
「お祝いはいつ何度やってもいいものさ。次代の桂冠詩人に乾杯」
 つられるようにタナッセが軽くかかげた銀の杯に、レハトは楽しそうに同じものをぶつけて音を立てた。そして何ごともなかったように食事に戻り、機嫌良く笑って近況などを語り出した。
 塩入れにレハトが腕を伸ばして、タナッセは彼の肩の後ろあたりに白っぽい糸くずがついているのを見つけた。何の気なしに手を出し指摘しようとすると、気づいたレハトは大げさにそれを避けた。
「なんだよ、さわんなよ」
「さわ……別にお前に触りたかったわけではない、糸くずがついていただけだ。人の親切を無下にするな」
「うるせえよ。付けてるんだよ。おしゃれだよ」
「勝手にしろ」
 レハトはタナッセが示した肩のあたりの布を引っ張って、無理な姿勢でなんとか糸くずを見つけ出した。指でつまんだそれを、不機嫌そうにそっぽをむいたタナッセの肩、同じ場所にひょいと移す。
「貴様」
 再度つまんだそれを指ではじいて、タナッセは呆れた。レハトはすまして肉を切り分けている。
「怒るなよ」
「お前が怒らせているのだろう」
「笑えって」
「……あのな……。自分でわかっているのだろうが、お前、少し……いささか常軌を逸しているぞ。魔の草原に好奇心で入り込むなど」
 いさめられたレハトはふっと力を抜いて、両手を膝の上に揃えて置いた。
「……疲れているのか」
 宵空の月は不躾なまでに明るい。神が薄目でのぞき見ているようで落ち着かなかった。
「俺にはわからなくなるんだ」
 夕闇に浮かぶレハトの据わった目にろうそくの明かりが映り込む。眼球を焼くように濡れた球面が人の光で飾られる。
「どうして俺はこんな所にいるんだろう? どうしてこんな立派な邸の、ばら色の露台で、洗練された、生まれついての貴人のような態度で贅沢な夕食を摂ったりしているんだろう?」
 途方に暮れているというよりは転がり込んだ幸運に嫌悪と怒りを覚えているような口ぶりに、タナッセはどこか空恐ろしくなった。
「何を憎めばいいのかわからないんだ」
 仕方なしに、椅子を引いて立ち上がりレハトのそばに立った。
「……慰めてやろう」
「……どうもありがとう」
 タナッセは彼の頭をそっと抱いて、なでてやった。あやすように髪の上を何度か軽くすべらせると、レハトが我慢できなくなったように吹き出す。タナッセも少し笑い、肩を小突いて席に戻った。
 刻々と日が陰りゆくのに勇気づけられて、タナッセは唇を舐め切り出した。
「今まではっきり考えたことはなかったのだが……ここに永住することに、なるかもしれない」
「かもしれない」
 語尾を繰り返して、レハトは片眉を器用に上げてみせる。どことなく非難するような色がにじんでいた。
「師の……ヤニエ師の、養子に入らないかという話が出ているのだ」
「へえー。なんでまた。面倒なことになるだけだと思うけど、伯爵になんか得があるの、それ」
「いや、あの人は別に……ただ、そういうことも、可能ではあると……必要だと思うのなら検討しろと」
 しどろもどろになりながら、何が変わるというわけでもないのだがと前置きをしてタナッセは続けた。
「良いかもしれない、と」
「何が」
「何が?」
「良いかもしれないって、何に?」
「それは……色々、考えて……。基盤というか、足場を固めておくのも悪くはないのではと……」
 どうしても言い訳のようになるのを避けられなかった。こうするべきだという確信があるわけではなく、曖昧な予感のようなものがあり、タナッセは自分がなぜそれに従うのか説明しきれなかった。
 あるいは彼に相談か弁明がしたかったのかもしれないが、そのふたつはずいぶん違う。
「それなら、俺だっていいよね」
「お前? 何にだ」
「後援者にさ。俺には養う家族はいないし、つくる気もないから芸術の発展に生涯を捧げるのもいいと思ってたし」
 それがどこまで本心なのか、タナッセには測りかねた。レハトは詩にそれなりの理解はあったが、身を入れて学ぶというほどのこともなく、それはすべての物事に一貫した態度だった。
 それが彼の問題なのだろうとタナッセはかねがね推測していた。レハトはなにかに真摯に身を入れるということができなかった。どこか投げやりな心情を隠して楽しそうなそぶりを装う悪癖があった。そこには一人目ではなく「二人目」であることの苦しみと、唐突に人生の価値観を変えざるを得なかった悲哀が通底して存在していた。
 かといって、レハトの申し出がすべて嘘だとも思えない。
「俺にしなよ」
 彼が沁みいるように優しい声を出せることを、タナッセは知らなかった。
「いや……だが、それは……」
「いつまでも師匠の影響下にいるの、よくないと思うぜ」
 困り切っていると、レハトは卓の上に長々と腕を伸ばし、タナッセの頬に触れた。指の背を空気よりも軽くすべらせて、タナッセがはっとしたような顔を見せる前にはなした。
「……そう、だろうか。だが、それとお前に世話になることは、関係が……」
「なんで? 自分で言うのも何だけど、俺はお前に信頼されてるし、好条件の物件だよ。それとも作品に口出しするようなこと心配してる? 政権批判しろとか、ランテの独裁を許すなーとか言い出すかもって」
「いや、そんなことは考えないが」
「じゃあ、いいよね」
「まあ……そう、かも……しれんが」
 見つめてくるレハトは、なにかわくわくするような、タナッセには見えないものを見ているような柔らかな眼差しで、それは彼をいくらかほっとさせた。
 それに近くにいてやれば、また妙な真似をする前に止めてやることができるかもしれない。
 ふと思い出したように身をただして、レハトは袖をまくり上げた。その手首に巻かれた、目立たない細い金属の腕輪の留め具を外し、タナッセに差し出した。
「やるよ」
 意図がわからず見返すと、レハトはタナッセの手を取り上げ、そこに腕輪を押し込みながら心なしか目を伏せた。
「母さんに貰ったんだ。父さんから贈られたんだって」
「お前……いくらなんでも、そんなもの受け取れるか」
 驚いて手を引っ込みかけると、レハトはまたへらへらと笑う。ろうそくの揺れる光の加減で歪んだ笑顔は作り物のように頼りない。
「いや、そんなに思い入れないからさ、それには」
「あのな、そもそも受け取る理由がない」
「ただの腕輪だよ」
「ただの腕輪だと思うのならば肌身離さずつけていたりしないだろう」
「あれ、知ってたんだ。いつもつけてること」
「……別に、承知していると言うほどのことではない。たまたまだ。一度気づくと目に入るものだろう」
 舌打ちしかけたのを不機嫌にごまかすと、レハトは返却は受け付けていないとでも言いたげに手のひらを見せて両手を上げる。
「本当言うと、もう持っていたくないんだよ。見てると色々考えて腹立つからさ。だからどっかの川にでも投げ入れて錆びさせてやりたいんだけど、この俺でもそうするには勇気がないんだ」
「魔の草原に入り込めてもか」
「それが人間らしさってやつだろ。題材にしろよ」
 タナッセには簡単に手放して良い物だとは思えず、しつこく食い下がったが、レハトは聞かなかった。
「じゃあさ、預かっててくれよ。惜しくなったら返して貰うから」
「……預かるだけだぞ」
 妥協したつもりが、いいなりになっているような気がしてならなかったが、タナッセはそれでも良いような気持ちになった。レハトは気を取り直して料理の続きに取りかかろうとしている。
 温かな金属が手の中で軽い音を立てる。