✥  臆病者達の恋[2]

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 招かれた貴賓室は初めて入る部屋だった。
 重厚な調度でまとめられている王城にしては明るい色合いの壁や布が敷かれ、大きな窓からは光が差し込む。
「警備上の理由があって、普段はあまり解放していないからな」
 きょろきょろと見回す私にタナッセが先回りして説明してくれる。にしては掃き清められた室内はほこり臭さもないし、窓に掛かる紗幕は真新しい。
「……たまには風を通すことも必要だからな、使ってやるのも親切というものだ。ほら、茶でも飲め」
 侍従が運んできたお茶は、初めて嗅ぐ香りがした。
「あ、いい匂いする」
「頂き物だ。よくあるものだが、まあお前には珍しかろう」
 ごく淡い橙色にさわやかな香りが心地良い。
「その、疲労や心痛に良いと聞くものだ。お前に必要かもしれんと思ってな」
「なになに、私のため? うわあ、タナッセが優しい。怖い。どうしたの、罪滅ぼし?」
 途端嬉しくなって舞い上がって、はしゃいでしまう。この前は心配されていらいらしたというのに、自分で自分がわからない。どうしてこんなにその時々で訳のわからない反応をしてしまうのだろう。こんなに気まぐれでなかったはずなのだけれど。
「私がお前に何の罪があるというのだ。頂き物だと言ったろう、お前のために用意したわけではない。ほら、冷めるぞ」
 それでもタナッセも笑っている。少し呆れて、ほっとして、いつものように笑って。
「うそうそ、ありがとう。嬉しい。感謝してる。いただきます」
 渋みのない柔らかなお茶は薫り高く、全身がほぐれて温まるようだ。カップを抱えて味わっていると、タナッセが私の反応を観察するように見ていて、笑みがこぼれる。
「すごく美味しい」
 途端に彼は目を逸らしてしまう。まっすぐに好意を伝えるとタナッセはいつも逃げ出してしまう、自分の優しさにすら傷つくからだ。
「……そうか。大したものではないが、その、気に入ったなら……良かった」
 温かいお茶をもう一度口に含んで味わう。指先から、唇から、熱が伝わって体中に行き渡る。優しい香りに包まれて、力が抜ける。
「ありがと。……感謝してる」
 小さい声で言ったから、きっと聞こえてないと思う。


「あ、これ懐かしい。村で食べたことある」
 盛り皿の端に、軸のついた小さな果実が載っているのを目にとめ手にする。
「これか? この時期に採れるものだが、お前のいたところでも栽培していたのか?」
「私が食べたのは勝手に山に生ってるようなのだよ。ねえ、こういうのやらなかった?」
 果肉から淡色の細い軸をちぎって口に運ぶ。傍らで、タナッセは不審げな顔で私を見守っている。もちろん軸は食べられるところじゃない。苦くて青臭いそれをなるべく噛まないように口の中で動かす。
「ほあ」
 ほら。と、言おうとしておかしな発音になった。見せた舌先に乗った軸は、うまくいけば一重結びになっているはずだ。
「できてる?」
 口の中に指を突っ込んで軸を取り出すと、綺麗な対称になっていて私は満足した。村の子ども達の間で大流行して、そのときずいぶん練習したけれど、さっきこの実を見るまで忘れていた。
「久しぶりだったからできるかな、と思ったけど。こういうのは忘れないものね」
 つまんだそれを指を洗う器に入れ、白い陶器の底に沈む緑の茎を眺めた。子ども時代の、村での思い出は年々遠くなっている気がする。水に沈んだようにぼやけて、輪郭がゆらゆらと判然しないのだ。  それが大人になるということなのかもしれないと、ふと思う。いろんなことを忘れていくことが。それが正しい成長の仕方なのかもしれない。
「……どうしたの?」
 さっきからずっとタナッセが沈黙していることに気づいて顔を上げる。彼は眉をひそめひどく真剣な面持ちをしている。
「……それは……今のは、他人に披露するようなものではないぞ」
 タナッセの声は低くかすれ、頬が紅潮している。そんなに怒らせるようなことをしてしまったろうか。
「そ、そう? どうして? 茎を食べるのは下品かな?」
「……はしたない、だろう」
 目を背け呻くように言い捨てられる。
「……そ、そっか、村ではみんなやってたんだけどな、まあそうだね。ごめんごめん、あんまりお行儀良くなかったよね。なんか、懐かしくなっちゃって。まあ、やっぱり育ちが良くないから? いつまでたっても田舎くささが抜けないって、言われる……し……」
 しゃべっているのは私一人だ。
 これ以上何を言ったらいいのかわからない。タナッセに軽蔑されてしまったかと思うと頭の中から言葉がひとつひとつ消えていくような気がする。私の付け焼き刃の交渉術なんて王城で生まれ育った生粋の貴族から見たら、ままごとみたいなものだろう。
 言うことが思いつかなくて、匙で無意味にお茶をかき回す。かちゃかちゃと音が立ち、タナッセがこちらを注視しているのがわかって手が止まる。また品がない、無作法だと言われてしまいそうな気がして、そう思ったらもう動けなかった。何を話しても何をしてもみっともないと、卑俗だと切り捨てられるような気がして、唇も指先も視線さえも動かせず、じっと橙色に映る自分を見つめていた。
 伏せた顔に彼の視線を感じた。
 そんなこと、山ほど経験したじゃない。城に来たばかりの頃は振る舞いが、言葉遣いが、着るものが、とにかく私に属するありとあらゆるものが、それこそ侍従や付き合う人のことまで何もかもこき下ろされ散々言われたけれど、私は平気だった。つらかったけど、平気だと思えた。今まで農村で暮らしてきた自分が貴族の流儀がわからないのも、上品な振る舞いができないのも当然だ。世間知らずと言われたときは、どっちが、と言い返したくなったけれど。自分はこれまでちゃんと生活してきたのだから、恥じるようなことはないと思っていた。
 けれども今、自分が貴族の出でないことが無性に悲しかった。私の生きた年月分がそのまま彼との距離なのだから。私はいつまでも無力で、惨めだった。
 沈黙は澱のように居室に淀む。何か言わなくては。せっかくタナッセが誘ってくれて、私を心配してお茶を用意してくれたのに。これじゃあ台無しだ。何か言わなくては。
 そのとき扉が叩かれて、びくりと体が震えた。カップが揺れて受け皿にお茶がこぼれる。隅に控えていた侍従が突然の来客に応対し、ひそひそと言葉を交わしている。
「……タナッセ様」
 滑るように近づいてきた侍従は沈痛な面持ちで主人の名を呼び、ちらりと私に視線を送る。
「……席、外すね」
 ひどく動揺していた私はそれだけ発語するにもずいぶん苦労した。貴族らしく優雅に見えるよう必死に体裁を取り繕う。
「待て、お前は客だ。構わんからそこにいろ」
 私の態度をどうとったのか、タナッセは私を押しとどめて侍従に向きなおる。初老の侍従は特に表情を見せずタナッセに紙片を握らせた。
「先ほど届いたものでございます。陛下の元にも同じ報せがいっているかと」
 悪い報せだということは侍従の態度からもしれた。陛下の元にも、という言葉から重大なことだとも。
 タナッセは広げてもなお小さなその紙片をじっと見つめている。視線はほとんど動かず、顔色も変わらなかった。彼は何度か瞬きして紙を畳むと、卓の上に置いたそれをこちらに滑らせてきた。
 見ろということなのだろうか。彼は何も言わずこちらも見ず、椅子に座り直して窓の外を見ている。
 乱れた文字は、リリアノが神の国に迎え入れられたことを告げた。
 ごく短い文章だ、一読すればその意味するところは明らかだった。それでも私は二度三度読み返し自分の頭にその意味するところが染みこむのを待った。神の国。リリアノ。タナッセの。リリアノが。神の国へと。……彼女が。
 何故自分の指がこうも震えているのか、その正確な理由を語句にすることはできなかった。私は紙片を時間をかけて元通りていねいに四つ折りにして、タナッセに返した。
 彼は一口お茶を飲んでからそれを懐にしまった。その優美で滑らかな所作には一片の動揺も見られなかった。


「……タナッセ、泣かないね」
「……子どもじゃあるまいし」
 長い沈黙のあと私が小さく呟くと、彼も同じ口調で応えてくれる。次の沈黙は短かった。
 意識的な長い吐息の後、密やかに、厳粛といってもいいほどの強さを持ってタナッセは宣言する。
「覚悟はしていたのだ。……こうなるだろうとわかっていたし、私にはどうにもできないことも知っていた。そう、そして、結局は……自分が何もしないことも知っていたさ。私は、そういう人間だ」
 あ、と思う間もなく目の奥が熱くなり視界が揺らいだ。隣でタナッセがぎょっとするのがわかる。
「お、お前が泣く必要なぞない。母上は最後までその責務を果たされたのだ。……悲しむことなどない」
 喉の奥が震えてなに一つ言葉が出てこない。鼻の奥がつんとする。唇をかみしめても涙が溢れ息ができなくなる。リリアノが死んだ。
「しかし、母上のために泣いてくれたのは……その……か、感謝する」
 もちろん身勝手でわがままで自分のことしか考えられない私は、リリアノのために、ためだけに泣いたわけではなかった。



「葬儀はランテの屋敷で行われる。その後、王城までとんぼ返りして埋葬になるだろうな。明日にも出発せねばならん、お前も支度をしておけ」
 その後もタナッセはいつも通りだった。どうしていつも通りなの、お母さんが亡くなったんだよと、理不尽にも彼をなじりたい気持ちが湧き起こった。本当に彼が大丈夫なのか、私はそればかりが心配だった。
「わかったわ」
 もちろん私はそんなことをしなかった。いつも通り分別のあるふりをして彼の言葉に首肯する。
 彼も一つ頷いてその場を去る。
 遠ざかる後ろ姿。いったい何度彼を見送っただろう。

 忘れよう。
 所詮子どもの頃の片恋だ、彼は友人としか自分を見ていない。会ったばかりの頃を思えばそれで十分ではないか。それなのに彼を見るたび胸が痛む。
 何だってこんな男を好きになってしまったんだろう。


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