✥  アブサード・レギュレーション

お題とてつもないしきたり 必須要素:テレビ
現代パラレル/友情/レハト→タナッセ




 映画を部屋で見るときは明かりを消す、というのがタナッセの言い分だった。最初は嘘だと思い、次にからかっているのかと顔を見た。タナッセはたまにそういうことをするから。真顔だった。真顔っていうか、普通。あんまりにもしれっと言うので、もしかしていやらしいことをしようとしてるのかとちらりと考えたくらいだ。ない。それはない。だってそもそも僕たちは付き合ってないし、タナッセはきちんと手順を踏んで順序を踏みたい人だろうし。信じていないルールを持ち出してなあなあに事を運んでやらしいことをしようと目論んだりしない、たぶんきっと。僕は彼の親友だけれど恋人じゃないからそのあたりのことはわからない。そんなに外れてない想像だと思うけど。
 そんなわけで反対する理由もないので彼の言うとおり、映画を見るために電気を消してソファに腰かけ、黙って画面を見つめた。タイトルは『隣人は静かに笑う』だった。題名だけは知ってると言ったら借りてくれたのだ。特別見たかったわけじゃないんだけど。そうじゃなかったらちゃんとラブストーリーを選ぶ。ちゃんとってなにかと言うと、それはやっぱり雰囲気づくりに一役買って欲しいからだ。
 せめてそういう空気になってくれることがあるなら、ちょっとは感覚がつかめるんだけどな。そうなったときの態度で距離感を測ってみたい。イイ感じの空気になるのか、不機嫌になってしまうのか、鼻で笑っておしまいか。でもタナッセのことだから平気で気づかないふりするだけなんじゃないの? ありうる。そしてほんと言うと僕だって似たようなものだ。あんまり人のことは言えない。
 いちど、手をつないだことがある。とはいっても二人で歩いているとき後ろから車が来て、危ないぞ、とタナッセが言って僕の手を引っ張っただけのことだ。
 ありがと、とお礼を言って彼を見ると、戸惑ったような、何か言いたげな表情で僕を見つめていた。道に迷いでもしたような不安な様子に、どうしたのと聞くと、細くて驚いたとタナッセが言ったのだ。つかんだ手首が思いがけず細くて面食らったと、少しばかり眉を寄せて。え、そりゃ女だもの、タナッセよりは細いよと笑ってごまかしたけれども、内心けっこう嬉しかったのだ。そんなことが。
 あとで女友達に一連の出来事を話してどう思うか聞いてみると、そもそも車道側を歩かせるとか脈なしじゃねとか、そんなの気にする男のほうが少ないとか意外と細いって微妙に失礼じゃないとか、なぜだかみんなが揉めだしてしまった。ほかの人に聞いてもどうにもならないってことはわかった。
 そんなことを一人でもやもやと考えていたせいか、その日はなんとなく、なんで電気消すの? と聞きそびれた。あれって一般的なのかな。僕は昔から普通のラインがいまいちわからなくて、そういうことを質問するのに少しばかり気後れする。特に相手が彼なら。すぱっと聞いちゃえばそれで済む話なんだけど、タナッセに馬鹿にされたくないとどうしても思ってしまう。僕は彼に対してはなんだか奥手になる。

 どうして毎回うちに来るんだって言われたら、テレビが大きいからって答えよう。タナッセの部屋は静かだし、きれいだし、飲み物だっていろいろある。インドア派は飲み物にこだわるの法則だ。おやつ買ってきたからって言って、入れてもらおう。
 いつも考える言い訳はまだ使ったことはない。聞かれないからだ。僕はそこそこ映画に詳しくなった。
 半額クーポンを手につたやに入ると、すごぶる目つきが悪くて上品な格好をしたガタイの良い男性が睨みをきかせていた。あのガラが良いのか悪いのかわからない感じ、どこかで見たことある。
「あれ、レハト。久しぶり」
 決めかねてぐるりと店内を一周して戻って来たところで声をかけられた。ヴァイルだった。ひとりきりで、床にしゃがみ込んでいる。こんなところで会うとは思わなかったのでびっくりした。
「入口のとこにそれっぽい人がいたからなんだろうと思ったら、ヴァイルだったのか。なに、休み? 何か借りるの? 僕はタナッセのとこで映画見ようと思って」
「へー、じゃあこれ一緒に見ない?」
 ヴァイルが立ち上がって、手にしたケースを見せる。前から言っていたとおり彼は男を選んだ。同じくらいだった身長も今では差がついて、僕は少し見上げる格好になる。
 差し出されたのは『死霊の盆踊り』という、ピンクの女の人が謎のポーズを決めたDVDだった。名前は聞いたことある。有名なはずだけどよく知らない。
「何、怖いのこれ」
「怖くない。これっぽっちも怖くない。怖いのははらわたのほう。ただこれをひとりで見る度胸がない」
「ふーん?」
「気分転換したくてさ」
 言ってヴァイルはちょっと笑った。うん、と僕は頷く。

 つたやの向かいにある激安スーパーに寄ってお菓子を選びながら、タナッセが好きそうなのを探してしまう自分が嫌になる。大好きかよ。そうですけど。それなのに高級店でぴかぴかしたケーキを買いはしないところが、たぶん可愛くないんだろう。でも僕だってほんとはピエール・エルメに行きたいのを我慢して駄菓子を買いあさってるんだから、タナッセも少しくらいイライラすればいいんだ。
「何ため息ついてんのさ」
「天使を追い払ってるの。僕あいつら嫌いだから」
「レハト、いい加減「私」って言わなきゃだめだよ」
「ヴァイルまでそんなこと言うなんて、裏切り者」
「までって? タナッセ?」
「あんな奴大嫌いだよ。酢昆布食わせてやるから」
「あんたって意外と地雷多いよな」
「僕からしたらこの世界が地雷原だよ。むしろガス室だよ」
 苦しいことばっかりだと言うと、ヴァイルは訳知り顔にまた少し笑った。アスファルトの地面をブーツの底が蹴ってお互い不満を言い立てる。
 二人して突然来るなとぶつくさ言いながらもタナッセは部屋に上げてくれた。この部屋はいつも静かだ。音楽は書斎で、それもクラシックが流れるだけだし、テレビはいつも消えている。時計の針の音も、街の喧騒も聞こえない。いつ来ても静かでそれでいてさみしくないこの部屋が僕は好きだ。
「今日はお前までいるのか」
「休憩。すぐ帰る。なに、レハトそんなに入り浸ってるの」
「ここテレビがおっきいんだもん。畳一枚分ぐらいあるよね」
「そんなわけあるか」
 僕がお菓子を広げているあいだに、タナッセはコーヒーをいれてくれた。ヴァイルは借りてきたDVDをセットして、立ち上がり壁際まで歩いて行くとスイッチに手を伸ばして迷うことなく明かりを消した。ぱちん。そこで気づいた。これはお金持ちのしきたりだ。でっかい画面のテレビとそれに合う大きさの部屋があるときにより効果のある演出だ。
 そうすると部屋はたしかに映画館のようになる。暗い中にテレビ画面だけがこうこうと光って、深海で宝物を眺めているおとなしい魚になったような気分。ソファだってふかふかだ。僕は真ん中に座らせてもらったので、両手に花……花? だよね一応。うん、と考えながら膝を抱えて足首をクロスさせる。落ち着くのだ。タナッセが咎めるみたいにちらっと脚を見た。しまった。またはしたないとか思われた。このクセ直さないと。
 電灯の他にも、僕には理解できないしきたりが山ほどある。
「……ひどいな」
「ひどいね」
「噂以上にひっどいね」
 タナッセがたまらずもらした感想に僕が乗っかって、ヴァイルが結論づけた。
 カンペ棒読み、大根が可愛く見える学芸会演技、真夜中のはずなのに引き画になったら真っ昼間。手抜きとか、もうそういうことじゃない。
「これってわざとやってるのかな」
「あんまりひどいひどいって言われてるから見なきゃなって気になってさ。でも
一人で見る勇気がなくて持ってきたんだ」
「ヴァイルでもそんなことあるんだね」
「俺小心者だしさ」
「わー嘘つき」
「これ、一人で見てたら画面たたき割ってたかも」
「過激だ」
 そうそう、ヴァイル相手になら何も考えず普通に喋れる。でも隣でタナッセがどんな顔して僕たちの話を聞いているのかってことが気になってしょうがない。映画よりくだらない会話だとか思われていないかな、とか。べつにくだらないって思われたっていいじゃん、くだらなくないことで笑ってたら頭おかしい人だよ! やっぱりいやだ!
 好きな人によく思われたいという気持ちと、ありのままで好かれたいという気持ちと、みんなはどうやって折り合いをつけているんだろう?
「これ、いつまで続くの?」
「さあ……」
 自分で選んだくせに真っ先に飽きたヴァイルがじゃがりこをぼりぼり食べながら答える。画面ではさっきから女の人がおっぱい丸出しで踊っている。
 最初はけっこうびっくりした。でもヴァイルは知ってたんだろうし、有名な映画だからタナッセだって知ってたのかもしれない。だからなんか気まずい空気が流れた気がしたのは、僕の考えすぎかもしれない。だっておっぱいが出てるのに全然えっちじゃないし。揺れるだけならプリンだってふるふるしてる。頭五分はどきどきしてたけれど、あんまりしつこく続くので見慣れてしまった。部屋が暗くて良かったとは、やっぱり思うけど。
「ちょっとタナッセ、寝ないでよ」
「…………むしろ、お前らがどうして起きているのか分からんのだが……」
 ゆるく腕を組んでうつむいているタナッセに声をかけると、ぼんやりした顔で返された。この人ほんとに寝かけてた! しまった寝顔を見るチャンスだったのに。起こさなければ良かった。寄りかかってくれたかもしれないのに。
「ツライこともこうやってみんなで一緒なら乗り越えられるんだよ」
「そもそも前提からして間違っている。これは乗り越えねばならない試練ではないし、お前たちと一緒に何かを成し遂げなければならぬ道理もない」
「なんだなんだ、一匹狼気取りか~?」
「ほんとタナッセは協調性に欠けるよな」
 僕が茶化すと反対側からヴァイルが追い打ちをかける。
「オオカミってのは群れで生活する生き物なんだぞ?」
「あ、俺も知ってる。羊って団体行動苦手なんだって」
「えっほんと?」
 固まって暮らしてるみたいなのに、あれは飼われているからなのかなどうだろうねとヴァイルと言い合っていると、とん、と二の腕にわずかな重みと振動が伝わってきた。はっとタナッセが起きたところだった。
「ねっ、寝ちゃ駄目だよ」
「誰も寝てはならぬ!」
「『トゥーランドット』!」
 ヴァイルが突然叫んだので、急いで調子を合わせる。
「馬鹿か……」
 タナッセは息をはきながらいつもの感想を無造作に言った。浅く腰かけ直して背もたれに体重を預けて、何度か瞬きした。薄闇のなかで尖った喉がかすかにゆらめく。
 僕の動揺に二人が気づいたんじゃありませんように。気を遣われたんじゃありませんように。アネキウス様よろしくお願いします。そういうの、苦手なんです。
 さっきタナッセのこめかみが触れた箇所ばかりが気になった。まだそこに他人の体温が残っていて、外側からそっと押されているような余韻が響いてくる。むずがゆい。気にしすぎだ。わかってる。でも隙だらけのくせに無防備とはほど遠いタナッセが気を緩めたのが嬉しい。
 史上最低と名高い映像が、白昼夢と言うにはあんまりにも生々しい馬鹿らしさで海底を流れていく。

「これほど心安らぐエンドマークはかつてなかったな」
 深海から浮上してもとの部屋に戻ると、タナッセはやれやれと言って首を回しながら電気をつけた。ヴァイルが遮光カーテンを開ける。二人がばらばらに動いているのを見ていると、じっとしているときに寄ってきた猫が身動きした途端に逃げていくさまを思い起こした。
「あーつっまんなかった」
 堂々とヴァイルは言って早々に帰り支度をはじめている。こんなことで貴重な休みを使って良いんだろうか。
「レハトそれさ、一緒に返しといて。あんたもなんか借りてたろ」
「うんいいよ。ねえ、怖いほうってタイトルなんだっけ」
「死霊のはらわた?」
 ホラー映画はラブストーリーの次に良い。
「そうそれ、次はそっち見る。『死霊の盆踊り』って変なタイトルだね」
「盆のわけないしね」
「これ、原題はなんて言うの?」
「オージー・オブ・ザ・デッド」
「ふうん。オージーって何?」
「乱交」
 らんこう?
 卵、LAN、公……蘭交、濫行、らんこう。乱交。グループ・セックス。
「へ、へえ……」
「うわ、レハト照れてる」
「急に言うからびっくりしたの! 不意打ち禁止!」
「俺のせいじゃないし。タナッセ、逃げるなよ」
 そろっと部屋を出て行こうとしたタナッセに抜け目なく釘さして、上着取ってと続けて言いつけた。
「お盆関係ないよね。……ええっーと、ほら。この間見たのは何だっけ?」
「『隣人は静かに笑う』。アーリントン・ロード」
 水を向けると仏頂面でタナッセは答えて、ヴァイルの上着を放り投げる。僕のはハンガーに掛かったままだ。
「あんたさ、女の子と二人でそんなもの見てるの? どっかおかしいんじゃないの?」
「なーっ、なんでアーリントン・ロードが『隣人は静かに笑う』になるのかなっ」
「さあ?」
「おかしな邦題をつけるのは配給会社や広告業界の悪癖だ」
 何で僕ばっかり慌てなきゃいけないの?

「ブッチ・キャシディ・アンド・ザ・サンダンス・キッド!」
「『明日に向かって撃て!』」
 玄関でヴァイルが最後に叫んで、僕は同じように叫んで手を振った。
 バケット・リストが『最高の人生の見つけ方』になったのは納得していない、とぶつぶつ言いながらタナッセが引き返す。
「でもさ、シスター・アクトなんかは素敵だよね」
「『天使にラブソングを…』か。まあ、悪くはないのではないか」
 僕はその後ろを追っかける。背中を見ながら、とことこと。
「タナッセの番だよ」
 部屋に戻ってお菓子の袋なんかを片付けながら話しかける。タナッセはお菓子のかけらがソファの隙間に入り込んだりすると、もう不愉快きわまりないっていう顔をする。最悪追い出される。ので危険物として即座に処理することにしている。そのタナッセはキッチンにカップを運んで、カップじゃなくて手を洗っている。
「何がだ」
「タイトル言ってよ」
 心なしか顔をしかめて僕の言葉を考えていたタナッセは、意味がわかるとさらに不機嫌そうになった。
「……ア・ブ・ドゥ・スーフル」
 それでも相手をしてくれるんだから良い奴だ。優しいのだ。でもこれは僕が友達だからだ。友達の特権、だけどそれだけ。
「『勝手にしやがれ』だ! わかんないと思ったんでしょ、残念でした。それってタナッセの気持ち? 忙しいの?」
「何から何まで付き合っていられるか。……お前も一人でふらふら来るのはどうかと思うがな。追い出しはしないから、映画でも何でも好きに見ていろ」
「せっかく来たんだし、時間あるならお話ししようよ」
「……どうして」
「どうして!?」
 理由がいるの!?
「いや、違う、その……今のは間違えたのだ」
 しばらく待ってみたけれど、タナッセは何を間違えて何を言いたかったのか、言わなかった。小さくだけれどため息をつかれて、僕のほうがため息つきたい。ついでに泣きたい。殴ってやりたい。
「……マイ・シスターズ・キーパー」
「え? あ、ああ、『私の中のあなた』だな。お前が持ってきたのだった。あれは結局のところ子が死の受容に導く話だろう。なんだか最初から最後まで承服しがたい筋だったような……まだやるのか。ええと、ザ・ダムド」
 ソファの後ろを回って、タナッセが歩いてくる。
「きれいにまとまってたと思うけど、きれいすぎかもね。ダムドか、『地獄に堕ちた勇者ども』だっけ。やだ、もっと可愛いのにして。カイト・ランナー」
「『君のためなら千回でも』。お前はこれが可愛いとでもいうのか」
「タイトルは」
「タイトルだけだろう」
「全部可愛くないよりよくない?」
 一人分隔てて同じソファにタナッセが座る。気流が薄い香りを運んできて、布がきしきし音を立てて僕の体も少し揺らぐ。
「そんなに大事な価値観だとは思わんが……ええと……テン・シングス・アイ・ヘイト・アバウト・ユー」
「『恋のからさわぎ』。そうそう、そういうの。ヒース・レジャーが『君の瞳に恋してる』を歌うんだよね。あのシーンはぐっとくるよ。タートル・ビーチ」
「……『抱きしめたいから』。シンギング・イン・ザ・レイン」
「えー、今のよくわかったね。絶対勝ったと思ったのに。『雨に唄えば』。オコナーの可愛さは文句なく星いつつだね」
 なんで僕は次から次に思いつくんだろう。確かに半分くらいは口実づくりで映画ばっかり見てたけど。そのうちほんとに詳しくなってきたけれど。だいたいタナッセだって変だ。ときどきは僕に付き合って一緒に見てくれてたけれど、そこまで映画好きでもないのに正解するし。
「ネバー・レット・ミー・ゴー。サービス問題だよ」
「勝負だったのか……。『わたしを離さないで』、映画は未見なのだが。ああと……ビーイング・ゼア」
 ほんとはもうやめたい。でも負けたくない。どうしても負けたくない。
「どういう基準で出題してるの? 『チャンス』、あれって『ツァラトゥストラかく語りき』がベースなんだってね。僕全然気づかなかった」
「読んでいないからだろう」
「ばれたか。もちろんこれは勝負だよ。プライドをかけた本気の戦いだよ。ザ・トゥルース・アバウト・キャッツ・アンド・ドッグス」
「――言ってるだろ」
「ハズレだよ」
「『好きと言えなくて』」
 一拍のちによどみなくタナッセが答える。どうして知ってるんだろう。
「ドクター・ストレンジラヴ・オワ・ハウ・アイ・ラーンド・トゥー・ストップ・ウォーリーイング・アンド・ラヴ・ザ・ボム」
「うわっひどい! あ、でもほとんど直訳なのか。もっかい言って」
「降参したらどうだ」
「しません。ええっと、『博士の異常な愛情……愛情、ええーと。私は……または私は、いかにして心配するのを止めて愛、水爆を愛するようになったか』。どうだ。なに、その顔」
「お前の得意げな顔が腹立たしい」
 勝負がつくっていうのは、どっちかが勝ってどっちかが負けて、そして終わることだ。戦っているその時間は、まだ何も決まっていない。
「ふふん。正解でしょうが。ザ・ビーバー」
「……『それでも、愛してる』」
 わずかに眉を寄せたのが前髪の隙間に見えた。
 何か言おうかと思ったけれど、何を言っても無駄な気がして黙っていた。たぶんもう、僕が何かを言える段階は過ぎてしまった。途中でやめることもできたのに。
「……ネタ切れ?」
 それならそれでいいと思ったのに、タナッセはやめなかった。負けず嫌いめ。
「ボニー・アンド・クライド」
「『俺たちに明日はない』。なんだ、つまんない。ド定番じゃないの。お前の本気はそんなものか! イモータル・ビーラブ!」
「『不滅の恋』」
 恋が不滅じゃないことぐらい僕だって知ってる。
 乾いた声で言って、タナッセは黙った。イイ感じの空気にはならなさそうだ。でも今のところタナッセは不機嫌ではないようだし、鼻で笑ったりもしない。気づかないふりもしなかった。好きな人の困った顔を見るのはとても楽しい。タイマーがすごい勢いでカウントダウンしていてもそれは変わらない。
 一秒ごとに沈黙がふくれあがって、部屋の酸素を奪っていく。
 僕たちは似ている。今まではそれを無邪気に喜んでいた。
「ビーダゼルド」
 そっと隣をうかがうと、タナッセは少しうつむいて、唇の内側をわずかに噛んでいる。顔色は青白く息苦しそうだ。これってどういう意味? そういう意味? 違う? 僕なんか勘違いしてる? 逆の意味? それともべつに意味なんてないの?
「……わ、『悪いことしましョ!』」
 タナッセが僕の手首をひっつかんで満身の力で引っぱった。勢いづいて、すっ飛ぶように転びかけると反対の手首もつかまれ衝突は免れた。真正面にタナッセの顔があった。
「知っているか。そのくだらん映画が何を下敷きにしているか」
 一瞬殴られるんじゃないかと思うほど怒気をはらんだ声だった。こんな目ははじめて見る。出会ったばかりの頃でもこんな冷え冷えとした目はしていなかった。タナッセの手の中にすっぽり収まった手首の骨がきしんで悲鳴を上げる。
「お前は本当に何ひとつ分かっていない」
 知ってるよ、ゲーテのファウストだよね。口にしたら声が震えそうなので心の中だけで答えた。本当に折れてもおかしくないほど腕を握りつぶされて血の気が引く。遅れて心臓がばくばくと音を立てはじめる。
「そう言われると、そうなんだけど、でも」
「そうだろう。お前は私のことなど何も知らない」
 タナッセは自分が押さえつけられているような顔をしている。一語一語はっきりと発音しながら言葉を噛み壊し、どこにぶつけるでもなくばらばらとまき散らす。その様子を見ていてやっと、タナッセが怒っているのは僕のせいなんだと納得した。
「そんなことないよ……」
「何ひとつ分かりはしない」
 子どもの頃近所の子と遊んでいて険悪な雰囲気になったとき、僕が黙らなくてしつこくして、言い返せなくなった相手に頬をしたたかに打たれたことがある。それから十年たっても、にわか仕込みとはいえこの国最高の教育を受けても、僕は成長していなかった。こうやって他人を追い詰めちゃだめなんだということをもう一度急いで反省しても遅かった。このまま絶交を言い渡されることもありそうだった。
「……僕が悪魔だから?」
 言ってみると彼の唇が歪んで笑いの形を取る。つかむ腕の力が少し抜ける。
「こちらの気も知らず手前勝手な都合ばかり押しつけて。言ったお前は結果がどうであろうとすっきりしていい気分だろうがな。私はどうなる。こちらに罪悪感を抱かせて私は友人を失って……お前との友情を捨てたくないという気持ちを顧みる気もないか」
 そこまで言うなら、なだめるのはやめよう。比喩で噛み合うのもやめにする。
「あなたが好き」
「貴様、私の話は無視か。聞く価値もないか」
「言ったでしょ、プライドをかけた本気の戦いなんだって」
 にらみ返すと、タナッセは疲れたように嘆息して僕の両手をゆるゆると降ろす。けれども離さない。不自然な姿勢なので背中が痛んだ。両手をつかまれたまま、同じところをつかみ返してみる。タナッセの手首は僕よりずっと太く、僕の指では回りきらなかった。
「冷たいな」
 下を向いたままタナッセがぽそりと言った。
「誰かさんが高くに上げたまま握りしめるから、血流が阻害された」
 ばつの悪そうな顔をしたことを取り繕うようにすぐさましかめ面をつくり、タナッセは苛々と手を離した。
「お前な。お前は今私に……その、気持ちを打ちあけたところなのだぞ。少しはしおらしくするとか、したらどうだ」
「うんわかった。僕はタナッセの家来になる。あなたがこの世にあるかぎりは、すばらしい目に遭わせてあげる、快楽でたぶらかし騙しおおせてあげる。仰せのままに何でも致しましょう」
 たしかこんな台詞だったはずだ。
 不意を突かれたような素顔をさらしたあと、ソファの隙間に落ちた菓子屑を見とがめるときの表情でタナッセは僕の言葉を聞いている。
「よくもまあ、堂々と……恥ずかしくはないのか」
「恥ずかしいって、誰に? 僕に? タナッセに?」
 僕は本気なんだ。これだけは全力で、全身全霊で伝えなきゃいけないことだ。結果として受け入れてもらえないなら仕方がないけど、いま手を抜いたりしたらほんとうにみっともないことになる。だから僕は、タナッセも僕のことが好きなほうに、僕の全部賭ける。
「ねえ、ホントは恥ずかしいよ。すごく恥ずかしい」
「……そうだろう。……それで当然だ」
「だけど……だけどさ」
 タナッセは視線を外し、消えたままのテレビ画面を見ている。僕も彼を正面から見るのはためらわれて、座り直すこともできずにソファの座面に忘れられたタナッセの手首を見ていた。
 覚えているのはタイトルだけ。見たことはなくて、言葉の響きが良くてただそれだけ記憶していた。
「ドマーニ・エ・トロッポ・タルディ」
 きっと知らないだろうけど、それでも別にいい。
「悪いが、私はそれほど映画通ではないのだが」
「トゥモロウ・イズ・トゥー・レイト」
「……ぬけぬけと言い直すな」
「タナッセは特別待遇だから、ヒント。そのまま訳せばいいんだよ」
「……『明日では遅すぎる』」
 本当にはそんな映画なくたっていいんだ。
 当たりだというサインのために笑いかけた。ちゃんと答えて正解したのに、タナッセは憂いを隠さない。僕はにわかに不安になる。タナッセの表情の陰りの意味を、僕はずっと迷いだと思っていた。ためらいは守りたいものがあるからだと思ってきた。彼自身、僕との関係、そして僕。それは間違いだったんだろうか。勝手な思い込みでしかなかったの?
 このまま沈没してしまうのではないかと思うほど長い沈黙を経て、タナッセがふっと短く息を吐いた。
「神に賭けを挑むのは私のほうだ」
 あまりに低いささやきをうつむいて言うものだから、聞きもらしそうになった。
「レハト。先程の言葉をたがえないと約束するならば、お前の願いを叶えてやる」
 しんとした眼差しが、薄暮の迫る部屋にほの白く浮かび上がる。喉がつまって、うまく唾が飲み込めなかった。みぞおちのあたりがきゅうと締まって冷たくなる。僕は誘惑されているんだろうか? これは悪魔の契約なんだろうか?
 ためらいながら両手を差し出すと、タナッセはそれを取った。僕の手をくるむように優しく握り、隠してしまう。
「あの……さっきのはどういう意味だったの。間違えたって、言ったでしょ」
「お前もしつこいな。あれは……どうして私なのかと、その……お前がどうしてそんなに私が好きなのかと……不思議に思ったのだ」
「なんて奴だ」
 僕はそこまでタナッセ好き好き感を溢れさせていただろうか。だからってそんなにはっきり言うことないじゃないか。
「じ、事実だろうが。質問したのもお前だ」
「うん」
 実のところその通りとしか言いようがなかったので頷くと、タナッセは黙った。黙ったまま眉間にきつく皺を寄せて怒ったように僕の目を見つめて離さない。
 それは案外難しい質問かもしれない。どれだけ彼の良いところを挙げても、なんだかそれは後付けの理由のような気がするから。愛がどこからやってくるのかといえば、それは僕自身だ。僕の中の何かがタナッセの何かと化学反応を起こしたからだ。
「うんと……タナッセの好きなところを言えば良いの?」
「違う、馬鹿か。そんなものは教えられたところで納得するようなものでもない」
 それならきっとタナッセも同じなのだ。彼もそれを知ってる。
「じゃあ代わりにタナッセが僕の好きなところを言ってみる?」
「言うか馬鹿が! だいたい何故それが代わりになる。馬鹿か」
「うん、やっぱり言わなくてもいいよ。あるってわかっただけで、十分嬉しい」
「貴様……」
 ひっかけるつもりはなかったんだけど何故かそうなってしまったので、タナッセの機嫌はてきめんに悪くなった。それならいい機会だしとことん開き直ってしまおう。
「ねえあれ言って。契約するときの言葉」
「……断る。全てには付き合えんといっただろうが。お前もルールを守れ」
「うーん」
 うわずってとぎらせながらタナッセは僕を叱った。ルールに則るなら誘惑しなくちゃならない。誘って、惑わし、陥落させるのがきまりだ。
「僕はさっき言ったじゃない。ルールに沿うならタナッセも言わなきゃ」
 だめだと言われたら引き下がろうと思ったのに、タナッセはがっくりと頭を落として、くそ、とかこれだから、とか言いながらゆるく僕の手を引いた。
「ああ、もう……」
 タナッセはいつだって優しい。いつだって僕に甘い。
 わくわくしながら近づくと、そのまま抱きしめられた。
「う、動くな。こっちも見るな」
 予想外のことに体が反射的に動くと、背中に回った腕が僕を胸にぐっと押しつけた。どこか獣じみた、男の人の匂いがする。どうしよう。どうしようっていうかどうもしようがないんだけど、ちょっと触れただけであんなに意識していたのに、いきなり近すぎる。僕ヘンな匂いとかしないかな平気かな。
 頭がこつんと音を立てる。タナッセは何度か息をはいて、ためらい、唾を飲む音が耳元で聞こえる。顔を見られるのは恥ずかしいのに、抱きしめるのは恥ずかしくはないんだろうか。またよく分からない基準が出てきた。
 膝のあいだに入り込み、タナッセの胴のあたりに手を回して僕は言葉を待った。
「とまれ、お前は――」
 耳たぶに唇がかすめる。
「――あまりにも美しい」
 その言葉は耳の穴からするりと進入してきた。産毛を撫でて詰まった喉の奥の隙間を抜け、胸の中をぐちゃぐちゃにかき回し、ほどけながら降りてゆく。下腹が温かいもので満たされ、そこから体中に熱が広がる。足指の先やまぶたの裏まで、末端の隅々に熱が行きわたり暖かくなる。すべての毛穴がいちどに開いて身震いしそうになる。
「……ありが、と……」
 うすピンクの貝殻のような耳に唇を寄せてなんとかそれだけ言った。喉がからからになっていて、変な声がもれそうだった。
 再びため息をついて、タナッセは僕の肩にかくんと頭を落とす。
「大丈夫?」
「……どうしてこうなったのか、納得がいかん。なんだこれは。理不尽にもほどがある」
「僕も最後にはタナッセの幸せを祈るよ。安心して」
 頭をこつりとあてて言うと、あきらめたか呆れたように首もとで笑う気配がした。