✥  番外1 我らが影の声[下]

[上]
・R-18(微)




 束の間、日々は平穏に過ぎた。何しろタナッセにはやるべきことばかりあり、個人的な考えに耽るような時間的余裕はない。
 ノックの音に身構えたが、扉をくぐったのは侍従頭だった。
「お茶をお持ちしました」
 頼んだだろうかと、タナッセはいぶかしげに顔を上げながら相手を見た。
「差し出がましいかと思いましたが、少し休憩されてはいかがかと」
 彼はお茶の準備を進め、開いた茶葉の柔らかな芳香が室内に薄く広がっていった。
「お二人共に倒れられては、私どもも困ります故」
「それほど根を詰めていたつもりはなかったが……。……あれはまた、不調か」
「ここのところは落ち着いていらっしゃります」
 正確な動作で注がれゆくお茶を眺め、確かに疲弊している、とタナッセは認めた。慣れぬ事でも望んだ事であるとか、なにがしかの目的意識があれば苦にならないのだろうが、彼はどちらも持たないため、ふと我に返る瞬間はどうにもならなかった。
「今しがたご結婚祝いのお品物が届きまして。広間にいらっしゃいます」
 旦那様もご確認頂きますようお願いしますと侍従頭が言い、タナッセはやむを得ず、不承不承頷いた。ことさらゆっくりとお茶を楽しむような真似はすまいと考えた。
 抑えているつもりのようだったが、レハトはずいぶん楽しげだった。目録作りを自ら買って出、ひとつひとつ品物をためつすがめつ、たくさんある、と弾んだ声で呟いた。タナッセの目にはそれほど多くあるようには見えなかった。仮にも寵愛者の婚礼祝いがこの程度かと、届いた荷を眺め鼻を鳴らした。
「これ……贈り主の名前がないわ」
 持ち上げて見せたのは大ぶりの肉切り包丁だった。ほとんど不吉なまでに無闇と光り、レハトの華奢な手に握られると冗談のような大きさだった。
「それは――、ヤニエ師……伯爵からだ」
 包み紙の端に、出し抜けに思い出したように付け加えられた署名を見つけてタナッセが言った。頭字だろうと見当をつける。
「料理が趣味なの? その……立派な包丁ね」
「さあ、聞いたことはないが。そもそも結婚祝いに送るような品とも思えんが、あの人のことは分からん」
 言葉を選んだレハトの感想を聞き流して、タナッセは手近の本をぱらぱらとめくった。稀覯本には違いないが興味の無い分野だ。
「でも綺麗よこれ。こんなに磨いてあるなんて、実用品とは違うのかし――」
 言いながらかざして検分していたレハトはふと口を閉ざし、魅入られたようにナイフを見つめた。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
「――おい」
 傾けたナイフに反射した光が目に入り、タナッセは彼女を咎めた。
「え、ああ、ごめんなさい」
 虚を突かれたらしく、レハトは慌ててナイフを下ろした。目測を誤った動作は勢いづいて、卓に金属がぶつかる派手な音が響いた。
「……失礼、しました」
 いっそう眉をひそめたタナッセに、レハトはばつが悪そうに目を逸らしたまま謝罪した。柔らかな布でナイフを拭い元通り箱に戻し、うつむいたままヤニエ伯爵、と目録に綴った。
 一体どこがそんなに気に入ったのだろうかと、タナッセは鏡のように光るナイフを手に取ってみたが不機嫌そうな顔が映るだけだった。あいつのことなどわかる訳がなかったなと小さく息を吐いて、自分が彼女を分かろうとしていることにタナッセは気づいた。
 先ほどレハトが逃げるように退出していった扉に目をやり、流されるがままここまで来た自分に考えまいとしてきた相手のことなど想像もつかないと思う。もちろん師の本意など分かるむべもない。
 タナッセはナイフを元通りしまい、目録を開いた。初めて見るレハトの字は一見教本通りのようでありながら、文字の流れや撥ね方に独特なものがあった。だがどれだけ眺めても、彼女がその背に回した腕に抱えている物は見通せなかった。


 膚そのものへのあこがれ、欲とでも呼べばいいのだろうか、そういうものが自分の中にあることをいつから知ったのだろうか。性欲とも違う、他人の肌に自分の皮膚がふれて擦れる感触はなぜか懐かしく、安心感をもたらした。目を閉じてしまいたくなるような。
「――お城で暮らしているとき、王子時代、もしあなたが死んでいたら、どこに埋葬されたの?」
「藪から棒に、何だお前は」
 細やかな刺繍が施された夜具や柔らかな羽でふくらんだ枕が重ねられたその寝台は、白い繻子の帳に囲まれ、どこからも隔絶されていた。
「王城神殿が管轄する……墓所は、どこなのかしらと思って。リリアノ様は所領をお持ちに、……ならなかったでしょう」
 この寝台の中が世界の全てだ。
「あなたが死んだら、どこに埋葬すればいいのかしら?」
 この荷物はどこに置いたらいいのかしらと自問するような、なだらかな問いかけだった。
「その話は今することか? 教区の神殿にでも行け、奴らの仕事だ」
 敏感な部分には触れる気にならず、手遊びに肌を撫でた。脇腹からへその横をさすり、薄い皮膚の下の青ざめた川を辿って太ももに指先で地図を書く。
「あなたはいつも望まない場所にいるのだし、選べるのなら選びたいかと思って」
 生きているのだからこの薄っぺらな身体の中にも、人体が成立するために必要な臓物が一揃い詰まっているはずだった。それとも神の寵愛者ともなれば、臓器の一つや二つ欠損していても正しく動けるものだろうか。それともこの女は死人だろうか。
 細い身体の中に思い馳せ、丘の上の柔らかな草を指で梳いた。
「死んだ後のことなぞどうでもいい。勝手にしろ」
「私が死んだら、どこに埋葬されるのかな?」
 本当に言いたかったのはこれかと、タナッセは決めつけた。
「さあな。だがその先は約束されている、安心するがいい」
 レハトはうっそりと笑って何も言わなかった。
「……こちらに集中しろ」
 慣れた女の形をなぞり、お義理に湿り気を確かめて生温かい内部へと入っていった。
 この閉じた世界ではあらゆる価値観が消えていく。同じ動作を繰り返していると、自意識は遠のき身体性だけが残る。
 レハトはまぶたを閉じて枕の端を掴み、小走りで歩く人のようないくらか乱れた呼吸をしている。小さな汗の玉が早くもうぶ毛に浮いて、明かりに反射している。
 相手は誰でもいい、こいつでなくともいいはずだ、自分が欲しているのはこの相手ではないのだから。半分殺した女に慰みを得る自分が醜く卑しかった。浅ましいと、タナッセは何度も考えたそのことをまた考える。
 わずらわしい思いを抱えながらもそれほど不快な時間でもないのは、この時ばかりはこちらが主導権を完全に握ってしまえることも、理由の一つだろうと考えていた。タナッセのすることにレハトが口を差し挟むことはない。しかし不当な接待を享受し続けられるほど高貴な性格ではなく、その従順さこそが鼻につくのだから世話はなかった。これでは今までと変わりがない。
 嫌なことが起こったときそれに目をつぶってしまうと、目を閉じている間にもっと悪くなる。そのようなよくある忠言を身をもって学習したのは、自分の肉体に精神が裏切られた時だ。それ以来、嫌だと思いながらも意識して、定期的に排泄するよう心がけた。嫌だったのは、それが好きだったからだ。
 ただの性欲で、生理現象だ。そう割り切ろうとしても自分の肉体を自分で制御できない理不尽さに腹ただしい気分になった。他人に振り回されるのは願い下げだが、自分に振り回されるのはそれだけでは済まなかった。
 思想を変えることは出来る、心を押さえつけて無い振りをすることも出来る。他人の前で自己を装うことも出来る、上手くすれば自分自身すら騙すことができるだろう。しかし己の体から逃げることだけはどう足掻いてもできはしない。
 その恐ろしく単純で強固な事実を覆すことは誰にも出来ない。候補者と呼ばれた少年がどのような末路を辿ったかを考えれば理解できよう。
「……っ」
 一瞬きつく寄せた眉に警告を受けた気がして、タナッセははじかれたように動きを止めた。考えに没頭していて、ことのほか粗雑な扱いをしたようだった。
 一度止めてしまうと再開するのに苦労する。どこからやり直せばいいのか迷っていると、空白にレハトはうっすらと目を開けた。
「……どうしたの」
 問われて我に返り、私はどうしたのかと彼は自問した。そしてお前が痛がったから止めたのだと、とても言えないことに思い至る。
「興が……乗らん」
 それだけ言ってしまえば、後はそう面倒でもなかった。ため息をついてお前相手に欲情するものかと、今さら効果のない悪罵を投げつけた。なにしろ彼らは情を交わすような関係ではないのだから。
「どこに行くの」
「まさか寝台はこの部屋にしか無いとでも思っているのか? 領館の主人を名乗るのならば家財の把握ぐらいしておけ」
 寝台を滑り降り手早く服を身につけながら、タナッセは一刻も早くこの場を立ち去りたいと切望していた。ほとんどは面子のために、言い争うのは御免だった。
「……主人」
 上体を起こし白い乳房も露わに、レハトは同じ言葉を力なく復唱した。
「ああもちろんお前が主人だ、この土地も館も私も、お前の持ち物だ。お前がここにいろと私に命令するのならば、私はそれに従おう」
「そんな命令、しないわ」
「では失礼させてもらう。良い夜を、寵愛者殿」
 しないだろうと、タナッセは知っている。
 人を呼ぶのも面倒で、タナッセは暗い廊下を一人、急ぎ歩いた。向かった先は自室だった。そうと定めたはいいが、用する頻度の低い私物が押し込められて、物置と変わらない。当然、寝台の用意などしていない。
 扉を閉めると急速に頭が冷えて、適当な客間に行けばよかろうにと自分に呆れた。呆れながらすり切れた毛布を見つけ長椅子からクッションを端に追いやり毛布をかぶった。横になれるだけでありがたいのかも知れない。
 動くたびに絡みついてくる残り香が煩わしく、不快だと自分自身に喧伝するように空咳をした。一人きりの夜で、月明かりに透明な埃が見えた。タナッセは細く息を洩らして、まぶたを閉じた。
 翌日はひどく体が痛んだ。関節が軋んで頭のすぐそばで銅鑼が鳴っている。間抜けたことに、長椅子で眠った影響が多大に及ぼしていた。日が陰る以前に限界を感じ、タナッセは寝台に倒れ込んだ。意識の最後は感冒で寝込むほど虚弱だとは思わなかったと、落胆することだった。

 夢うつつに声を聞いた。
 冷たい手が前髪を払い、そっと汗を拭いていく。額から耳の裏、首筋を手拭いが触れては離れていく。顔の近くで手のひらが動く気配と、それで起こされる微風がわずらわしい。熱のせいだ。何もかもがおっくうで気怠く、過敏に反応してしまう。
 何がこの女と他の者を分けるのだろうと、タナッセは重いまぶたと格闘しながら考えていた。目を開ける前から、手が傍らにあるだけで、その空気で誰だか知っていた。
 触れた指先は濡れていた。唇を湿らせようと、水に浸し立てた指が谷間をかすめ山を撫でた。
 半身を起こし手を持ち上げる動作すらおっくうだというのに、他人の襟元を掴む力などほとんど入らない。引き寄せながら身を起こす途中、見慣れない壁が目に入り、ここはどこだろうと考える。見知らぬ壁の模様、何かを言い掛けようとしたままで止まった唇。引き寄せたそれに口づけて突き飛ばすように押し返した。
「……そら……これでいいだろう。もう行け」
 押し返された細い体はしばらく反動で揺らめいていたが、タナッセはその先は見ずに目を閉じた。
 お前がここに居るのはこれが理由だろうから私は義務を果たした、これ以上説明しない。最小限の言動でタナッセはそう告げた。どれほど薄め些細なしぐさに押し込めても、悪意だけは誤解なく伝わるものだ。
 慈悲深い眠りがまぶたを撫でて、寝台に体が沈んでいく。タナッセは喜んで意識を手放し、小さく一度だけあった扉の開閉の音を気のせいかも知れないと考えた。

 静かなささやき声が意識の遙か遠くから近づいてくる。それは衣擦れの音、床の敷物の上をすべる足音、人間の重さや体温が形作る人の気配だ。
 あくる朝泥のような眠りから目覚めたタナッセは、枕元に見知った姿を発見した。口の中が粘ついて気色悪く、乾いた唇は上手く質問を紡げなかった。
「……何でお前がいる」
「お水新しいから、冷たいわよ」
 レハトは彼の額に手拭いをそっと当て、汗を拭いた。
「侍従にやらせればいいだろう」
「みんな忙しいのよ、寝てるのは私とあなただけ」
 言いながら、手にした吸い飲みを彼の口元に持っていった。
「私が寝室から追い出したから、風邪引かせちゃったんだし」
「お前が看病する理由にはならんだろうが」
 ねばっこい口中を押し流した冷たい水が何よりありがたく、言い争う気力も萎えてタナッセはそう簡単に指摘するにとどめた。続けてレハトは、汗を拭くからと湿った夜着に手を掛けた。冷やした手ぬぐいを持ち無言で彼の体を拭き、抵抗がないのを見定めてから着替えを手伝った。
 新妻は夫への心配から侍従たちに任せきりにできず自ら看病を引き受けた。思いついた物語を弄び、私は今妻に看病されているのかと、タナッセは感慨に耽った。こんなことは予定になかった。馬鹿馬鹿しい限りだった。
 目を閉じた子どもに何度も口づけた、あの時は真剣そのものだった。ある意味では純粋ですらあった。死なせたくない一心だったのは何故だったろう。私は殺したりしないと証明したかったのかもしれない。
 これは普段と逆の立場だなと彼はふと思い至る。自分が分け与えレハトが受けとる関係だったはずだ。
「お前、楽しんでいないか?」
「何を?」
「私に恩を売れるのをだ」
 その時とても奇妙なことが起こった。正面の仏頂面とまともに向かい合い一瞬きょとんとしたレハトは、それから声を立てひどくあけすけに笑ったのだ。何の警戒もなく無防備に笑ってから、戸惑った相手の顔に気づき、しまったとでも言うように笑いを引っ込めふいと顔をそむけた。
「――今のは何だ」
「なんだって、何?」
 たらいに手ぬぐいを放り込みながら、レハトはもう普段通りだった。
「笑っただろう」
「いけなかった? 笑うことくらい、あるでしょう」
 どうということもない、大したことではないとレハトは堂々と冷淡な態度を貫いた。タナッセは答えられず、レハトが水をかき回す単調な音だけが部屋に繰り返した。
 沈黙が警笛を鳴らし違和感はじりじりとタナッセのうなじを焼いた。何かがおかしい、気づかなければいけないと考えようとしたが疲弊した頭は回らず、有用な意見は何一つ出なかった。そして何がおかしいと思ったのか、捕まえ損ねて結局分からないまま忘れてしまった。
 私は本当に鈍いと、タナッセは後になって考える。それはレハトが隠していた本当の顔だった。
 違和感がなりを潜めてからは、彼女が笑ったことをいまいましく思った。笑顔に腹を立てた。タナッセの憎しみを、感情を、決定を飲み込んで飛び越えて何もかも忘れて簡単に笑ってしまえるレハト。
 十八年の生涯を賭けた博打に敗北し負債を背負い、日ごと夜ごとそのことを突きつけられ自分自身に嘲笑われている彼にとって、己の憎しみを矮小化されたような、顧みるに値しない感情だと言われたも同然だった。自分に向けて笑いかけてしまえる彼女が憎らしかった。
 寛容な態度は品良く軽蔑されているような、格が違うと諭されるような不快感を胸にわだかまらせた。苦しいのは自分だけかと、納得したはずの呪詛は淡緑の霧のように取り巻いて、肺の中に充満していく。
 こういった所がまた許せないのだと、手前勝手な理屈だと知りながらもタナッセは改めて強く憎んだ。


 朝の寝室に、しゃがれた鳥の鳴き声が短く、しつこく響く。窓近くまで張り出した枝葉のためだ。
 タナッセの体調が回復してからは、いつも通りだった。のろのろと起き上がろうとするレハトを尻目に、タナッセはこの場に一人きりであるように身支度を整え部屋を出る。廊下の腰壁は古く、傷やへこみが目立った。本来ならば修復させるところだが、仮住まいの身には過ぎた要求だとタナッセはすぐに目を背けた。
 席に着き給仕を受けていると、広間の扉が開いた。
「おはよう」
「……朝食は寝室でとるのではないのか」
 レハトは陽光の中では妙に存在感がなかった。
 タナッセの口調は冷淡ではあったが露骨ではなく、取り繕う技術ばかり上手くなる。師はこのことを指して言ったのだろうか。だがその報いは既に受けたはずだった。
「特に、こだわってる訳じゃないわよ」
 いつもそうしていたろうと、続けて言われた言葉を軽く流して、彼女は席に着いた。
「ふらふらと、うっとうしい」
 会いたくなかった。変に素直な気持ちがタナッセの胸に湧き起こった。先日のこともあり、一人になる腹積もりを潰されたことでタナッセの気分はささくれだった。それは朝食の間くすぶり続け、不快な気分はだんだんと大きくなっていく。早々に食事を切り上げ席を立ち、息を詰めるようにして大股に部屋を横切った。
 執務室の扉を開き頭を切り換えようとしていると、背後から呼び声がした。何故だかレハトが追いすがってきていた。
「あの……タナッセ、待って!」
「貴様、いい加減にしろ! 私は義務を果たしているだろう、これ以上お前に指図されるいわれはない!」
 ここまで言えば引き下がるだろうと思ったが、その日は違った。
「……ま……、待って。タナッセ、待って」
「うるさい!」
 切羽詰まったようにレハトは訴え、手を伸ばした。その手が触れた瞬間、タナッセの憎悪は臨界に達した。怒りで目が眩み、こいつに思い知らせてやりたい、という抑えがたい欲求が頭からつま先までタナッセを満たした。だから恐らくその手を振り払った瞬間必要以上に力がこもったのは意識的なことだったのだと、彼は後から考えた。けして偽悪的になろうとしている訳ではなく、現実を直視した結果として。どちらにせよそれはレハトには決定的な力加減として伝わった。
 手を伸ばさなければと分かっていたのにタナッセの体は動かなかった。奇妙に間延びした動きでレハトはよろけ、足をもつらせ、扉の金属の取っ手に胴の辺りをしたたかにぶつけた。単にぶつけただけではない、ぞっとするような鈍い音を最後にレハトはその場にうずくまり、長く沈黙した。
 時間は元通りの速度を取り戻したが、タナッセは足の裏に根が生えたように動けなかった。何から考えれば良いのかすら思いつかなかった。

 寝室は薬の匂いが鼻をついた。医師の手当てを受けたレハトは表面上は落ち着いて、寝台に身を起こしていた。
「大したことないわよ。一、二週間で痛いのは……治まるし、一月もあれば完全に良くなるそうよ。とにかく安静にして、してなさいってことだから、特に変わらないし」
 痛みが強いのか時折唇を噛んで、口調だけはそっけなくレハトは言った。
 衛士らの手で寝台に運ばれたレハトはその間、平気、大丈夫とうわごとのように繰り返していた。駆けつけた医士の見立てによれば、肋骨が折れたのだろうということだった。レハトの体調不安から領館に医士を召し抱えてはいたが、外傷の手当をさせることになるとは思ってもみなかった。
 その彼女は胸の下を片手で押さえたまま、自分の頬を撫で空中に向けて中途半端に笑った。
「そこまで……するつもりではなかった」
 長い沈黙の後、タナッセはぽそりと口にした。いたたまれなさを押し隠そうとするあまり妙な区切りで発音し、自分の指を白くなるほど握りしめた。レハトもまた気詰まりではあったが、気丈に振る舞おうとしていた。
「わざとだなんて思ってないわよ。そんな……半端なこと。今さらでしょう」
 今さら。そう、今さらだった。何もかもが終わった後でも人の生は続いていく。
 もっとも簡単な方法は何もしないことだ。放っておけばその内死ぬ。分化のとき、危ぶまれるたびにその選択肢は常に背後にあり、一歩後ろに下がるだけでよかったのだ。何かをしない選択はいつでも誰でも選べる。
「……不用意だった」
 寝台に手を付いて、レハトは鈍い動きで身を乗り出した。タナッセをきつく睨みつけ、その瞳は熱のために潤んで一種異様な輝きを放ち、上気した頬は赤みが差していた。
「――何て顔してるの」
 ゆっくりと唇を開き、穏やかさを装ってレハトは詰問してきた。彼女が怒っていることに初めて気づき、正当な感情だ、当然だと理解を示しつつタナッセは驚きに目を見張った。レハトが自分に怒っている。
「痛いのは嫌だけど、そんなことじゃないの。言ったでしょう、私たちは同じなの、あなたが加害者で私が被害者だなんて、あなたの妄想よ。全然違う。私たちは対等な存在なのよ、この生活も、怪我も、関係も、何もかも私たち二人で選んだ結果のことでしょう。私はあなたが罪悪感でいっぱいになって、そのために私の……奴隷、私の精神的な奴隷みたいになるのが嫌なのよ、そんなこと望んでないし、何一つ嬉しくない、それに、それは間違ったことなのよ。正しくないの。ねえ、分かる? 本当に分かってる?」
 レハトは何度も同じ質問を繰り返したが、何を聞かれているのかタナッセには判然としなかった。何よりその剣幕に幻惑されたように動けずにいた。
「……喋ると痛い」
 頬は急速に色を失い青ざめて、息を切らしたレハトは何度も唾を飲み込もうとして失敗した。
「……興奮するからだ」
 タナッセは吸い飲みをレハトの口に持っていった。その手からレハトは水を飲み、息を吐いてタナッセの眼を強く見つめた。
「あなたが出ていきたいのなら、それでいいんだから、ちゃんとそう言って」
 枕に頭を預けてレハトが言った。髪の際に汗の玉が浮いている。それから目を閉じてもう一度ゆっくり息を吐いた。
 タナッセは答えず、黙ってそこに立ち、しばらくして枕元に手を置き身を屈めて、はむように一度口付けた。その行為にはどのような理由も決意も必要ではなく、十分に手慣れていた。


 寝室の扉をそろりと開き、タナッセは暗い室内に足を踏み入れた。
 明かり取りから月の光が一条差していた。椅子の背にかけられたレハトの化粧着は、彼女自身のようにくったりと身を横たえている。寝台の足元で不揃いにうずくまる履き物は小さく、胸に訴えかけるものがあった。
 眠っているレハトは穏やかに見えた。うっすりと開いた唇から規則正しい呼気が洩れて、口もとにかかった髪の一房をかすかに揺らしている。昼間の怒りは霧散してもうどこにも見えなかった。
 レハトの広長舌は思い返しても唐突だった。何が彼女を駆り立てたのかの方が、タナッセには気になった。その怒りは他のどんな言辞やいたわりの態度よりもタナッセの内心を揺さぶった。
 魔物が棲むという地の果て、海の底、魔の草原。こいつもまた奴だけの彼岸を夢見、それを抱えて生きているのだと。
 ここにきて、タナッセは初めてレハトを生きた人間だと認識した気がした。印持ちという人種ではなく、彼女だけの考えや好みや欲やらなにやらを持つ、一つの肉体と一つの心しか持たない生きた人間。
 そのことに気づくと目の前で眠る女がどこか恐ろしく、薄気味悪くすら感じた。シーツに埋もれ横たわる死にかけた薄い身体に、世界のあらゆるものが詰め込まれている。けれども危ぶまれながら成人したレハトの寝顔はどこかあどけなく、いたいけにすら見えて、お互いが失ったものを思い起こさせた。
 脱いだ靴を隣に並べると、小ささは際だって見えた。気になるからと理由をつけて、タナッセは彼女の靴を揃え直した。同じ部屋の長椅子に横になり毛布を重ね、今日ばかりはと、番犬のように眠りに就いた。