✥  お別れの時間

お題:美しい悲しみ 必須要素:イヤホン
現代パラレル/死にネタ/クレッセ/タナッセ友情ルートかも?




 まぶたを閉じた彼女の顔は記憶の中とはずいぶん印象が違った。目を凝らしてみれば目尻や口元、鼻の際に死に化粧では隠しきれない細かな皺が刻まれ、目の下の皮膚はつやがなくたるんでいる。『最後のお別れ』ののち、棺はがたつきながらレールを動いて炉に収まり、耳障りな金属音を上げて扉は閉められた。所々塗装の剥げかけた黒い扉の前で火葬場の職員が一礼し、参列者に比べて格段に少ない立ち会いの者達もそれにならった。
 千度の炎をもってしても人ひとりの分の肉を燃やし尽くすのは容易なことではない。三十分かけて燃やし、三十分かけて冷ます。その一時間、彼女が燃えるそのあいだ、当然ながら葬儀は一切進まない。
 葬儀場の人々は各々てんでばらばらに時間をつぶし停滞した時間を無為に埋める。着慣れないスーツ姿で退屈そうに携帯電話を弄る若い男、遠慮がちなひそひそ声ながら途切れることなく喋り続ける中年女性の群れ、アルコールの回った赤ら顔でテーブルに肘をついて箸を動かす紳士。部屋の隅でゲーム画面を注視している誰かの子どもは、滑り落ちるイヤホンを何度も耳に押し込んでいる。みなが彼女が燃え尽きるのをただ待つその時間を、僕は神聖なことのように感じた。
 今この時間、誰もが彼女を待っている。
 心の片隅でかもしれない、意識の端かもしれない、早く終わればいいのにとそれだけかもしれない。生前のことなど思い馳せることもないかもしれない、そもそも彼女を知らないかもしれない。それでも今ここにいる全ての人が彼女を待っている。
 束の間の夢のように何の拠り所も実体もないその考えを、悪くないなと気に入った。そうして短いあいだ、下を向いて一人笑った。愛する人が死ぬことは、その人を愛することの次に素晴らしいことだ。

 喪主を務めるのは彼女の唯一の直系である、僕の息子だ。黒いモーニングを隙なく着こなし、周囲との打ち合わせやら挨拶やら昨日から働き詰めで、会話らしい会話はない。
 面倒な役目を自分から率先してやってしまう姿は彼女と重なるなと眺めていると、視線に気づいたのか彼がこちらを向き目が合った。その場で一瞬立ちすくみ、それから、足を止めさせたものを振り払うように彼は踏みだした。無表情の裏に怒りや不満、好奇心らしきものといった雑多な感情を押し隠して息子はこっちに向かって歩いてくる。
「やあ、忙しそうだね」
 けれどもたどり着く前、数歩進んだばかりでその決意はまたも転向した。
「――ええそうです。喪主ですから。今後の法要についても決めなければならないことが山とありますし、手が足りないんですよ。貴方も随分とお忙しそうですね。何か手伝いが必要でしたらどうぞ遠慮無くお声をかけてください、出来る限りお力になる所存です」
 びりりと眉が上がったかと思うと針を含んだ声音でなめらかに言葉を継いで、あっという間に背を向けられていた。上着には皺がそこここに見られ、見知らぬ人のような背中だった。
 こんな時でも融通が利かないなあと僕は、僕自身に言った。身軽であっても軽快でなく、物柔らかであっても柔軟ではない。この利己主義、独善が時に磊落として捉えられる不条理さを体現する者、それが僕だ。今は誰とも話したくない。
 珍しく内省的になっているのは後悔しているからだろうかと思いかけ、単に暇だからだと考え直した。
 まあ僕らはまだ生きているのだし、また後で話せばいい、少なくとも今日は逃げられることはないのだし。二度と話しかけるなと言われた気がしたが、皮肉が通じなかった振りくらいは朝飯前だ。

 一度、電話で話した。彼女がその重責を降ろす直前のことだ。
 息子と会いたいと告げ、日時などを淡々と決めた後で、もし彼と一緒に暮らすことになれば君に連絡を取る理由がつくりやすいねと今思いついたかのように付け加えた。一呼吸分間が開いて、困ったようにそっと息を吐く気配が電波に乗って遙かに遠くから伝わってきた。分かっているだろうが本人にはけして言ってくれるなよと、なだめるような口調は優しかった。本当に困らせることが出来なかった分は無効とし、不意を突けた分だけポイントとして加算した。勝てる見込みのないゲームだ。
 実際僕はそのことも意識していた。彼女へのアドバンテージたりうると、息子と同居する利点としてリストにそれを数えていた。もしもあの子が僕の立場となりこんな風な考えを抱いたならば、思いついたというそれだけで彼は罪悪感に苛まれ苦しんでしまうのだろう。優しい子だ。だからあの子は僕の心算には気づきはしないのだろう。
 はたして憎しみはあったろうかと腑分けするように心の中を探ってみれば、そう名付けられそうなものが確かにあった。例えば報われなかったこと、本当には理解されなかったこと。
 暖かな日差しは無用の気づかいからかけられた余計な毛布のようにわずらわしかった。忙しく指を動かしてゲームをしている誰かの子どもは、ときおり耳に手をやってはずれたイヤホンを直している。没頭しているように見えるのにそんなことが気になるのかと、どこか寂しい気持ちになった。
 僕は半端者だ。中心人物には到底なれない。かつて彼女と結婚していたときも成れなかったし、慣れなかった。
 煙突から立ちのぼる白と灰色のまだら模様の煙がピントのぼけた春の空に溶けて薄れていく。きっと泣くと思っていたのに、僕はそれほど悲しくもなかった。言いそびれた言葉などなく、伝えたい思いは必要とされていない。
 別れはとうにすんでいたのだった。