✥  散文

タナッセ愛情ルートの超短編よっつ。




 腕の中で眠る妻のなめらかな額には、神から授けられし徴がある。
 心底これが欲しかったことがあった。
 印なき自分を呪い、印持つレハトを呪い、殺しかけ、救われた。全てを諦めたとき、欲しかったものは望んだものとは全く違った形で手に入る。
 アネキウスは私のために彼女を遣わせてくれたのだろうか。そんなことを思いついた自分に苦笑する。まったく、都合が良いにもほどがある。
 目を閉じて淡く光るそこに指を這わすと、彼女自身の熱の他には何も感じなかった。
 私を救い、私を断罪する唯一の存在。私の神。
 沈黙していた空気の層が身震いして、彼女が目覚めようとしていることを告げた。その瞬間世界はもう一度色を取り戻し、鳥が歌い芳しい花の香りが満ちる善き処へと姿を変える。
 睫毛を震わせて、彼女が目を開く。閉じられていた瞳は潤んで私を映している。彼女が微笑む。柔らかく、美しく、限りない慈愛を持って。つられて自分も微笑んでいるのがわかった。そして私はもっとも大切なことを口にする。平凡で、ごく普通の言葉を彼女に捧げる。
「おはよう、レハト」
「おはよう、タナッセ」
 二人目の寵愛者が突然の不調を理由に臥せっているその間、断罪を待つのは王息だけではなかった。彼の母たる五代国王もまた、その時が迫り来るのを感じていた。表面上は誰の目にも普段と何ら変わるところは無かったが、心は豪雨に晒される水面のように泡立ち、千々に乱れた雑多な感情が去来していた。
 神は何を望み彼を遣わしたのかと、恨み言めいたものがリリアノの胸をよぎる。彼が目を覚ましたとき、我が息子が告発を受けるのだろう、そして継承者に害なそうとした者が死罪以外に罪をあがなえる道理はない。王族であろうとも、いやさ王族であるがために例外はない。そして王である己の判断が己の理外にあったことはない。言うまでもなくこれからも。
 あるいはこれが――そう思いかけてリリアノはかぶりを振った。運命とも巡り合わせとも考えたくはない。二人目を彼の地より召喚したこと、囲い込んで留め置いた措置、どれもみな正しく、思い返せど結論はいつもそこに帰結した。
 当事者を含めた全ての人々の予知が外れるのはそれから五日後になる。

「ヴァイル、お主が決めねばいつまでも終わらぬことぞ、それとも我と一日過ごしたいのか?」
「うーん」
 開け放した窓に肘をついて、背を向けたままの少年は首を傾けている。甥を横目にリリアノは手元の書類を迷いなく振り分け、ときおり何やら書き込みをつけて片付けていく。
「今日は市もないというに、中庭に何か面白いものでもあるのか。猫でもいたか?」
 すっきりと良く晴れた休日だ。遊びに行きたいのならさっさと片付けてしまえばいいものを、何を見ているのだろうと訝しんだリリアノが問いかけると、ヴァイルは手のひらに載せたあごをいっそう傾けて答えた。
「タナッセとレハトがいるよ」
「――ほう」
 それはそれは。
「タナッセがレハトの手を握ってる」
「ふん」
「さっきからずーっと見つめ合って動かない」
「ふ、さよか」
 自分が覗いてはさすがに息子に悪いかと、腰を浮かしかけたリリアノは思い直した。ただし中庭という選択はないだろうとは、伝えねばならないが。
「……レハトって変態なのかな……」
「……ヴァイル、我はこれでもあれの母親ぞ」
 下に向けていた頭を横に動かして、ヴァイルは呟いた。
「あ、逃げた」
 どちらが逃げたのか聞かなくとも分かるなと、リリアノは胸の中で独りごちた。
「ね、伯母さん、良かったね」
 ふいとこちらに向き直って、甥は優しい声を出す。労るような口調に申し訳ないような、礼を言いたいような胸が締めつけられる感情が短く、深く湧きあがった。心配をかけただけではない。成り行きを見守っていたのは己だけではないのだ。
「そうだな」
 そして本気なのかと訝しんでいるのも自分だけではあるまいと、密かにリリアノは考える。どうやらそういうことになりそうだと、耳に入る話から掴んではいたが頭から信じ込むには突拍子もない話だ。
 巡り合わせか、とリリアノは一度は否定した考えをもう一度俎上に上げる。印が象徴するものから息子を遠ざけておきたいと、どこかで願っていたはずではなかったか。
 あるいは、最初から認めていたのかもしれない。まったく都合の良い宗旨変えだ。
「上からは丸見えだけどね……」
 ヴァイルがぽつりと呟いて、リリアノは忍び笑う。
 二人は若く、王の手には余る問いの答えを見つけたのかもしれない。
「……タナッセは優しいなあ……」
 顔を伏せたまま、感に堪えないようにレハトはゆっくりと囁いた。肩口に頭頂部を押し当てて、押し出すようにため息をもらした。
「優しくて、頭が良くて、真面目で一所懸命で、不器用だけど努力家で。親切だしかっこいいし、背も高いし、意外と力もあるし。どうして私なんかと結婚してくれたの?」
 恐る恐る額に手をあててみるが、平熱としか感じられない。脈も平常だ。するといよいよ頭の線が切れたのだろうか。
「お前、何だ、どうした。大丈夫か。今のはなんだ、なにかの罠か? 気分でも悪いのか。それともあれか、何か買って欲しいものでもあるのか」
「でも馬鹿だなあ……」
 同じ口調でしみじみと暴言を吐いて、妻はもう一度私の手を取った。
 扉の夢を見た。
 戸板は厚く無表情で、磨かれた金属の把手は鈍い光を放ちながら眼前に立つ男の姿を歪んで映している。見上げる扉の前に立ち、握った拳を持ち上げて、どこに降ろそうか私は迷っていた。
 まだ呼んではいけないはずだ。
 指を開いてのばし、ひやりとする堅い板に手のひらを重ねた。向こうも、こちら側も、衣擦れも囁きも物音ひとつしない。こそともしない静寂に自分の心臓が動いているか不安を覚えて、胸に手をあてた。
 音はしなかった。

 あまりにひねりの無い夢を見た自分に、目覚めて苦笑した。篭りを終えてレハトが出てくることを鶴首して待ち焦がれる、私の状態そのものだ。
 あの扉がどこに通じているのものなのか、よく知っている。その階に別段用事はなくとも何気なさを装って通り抜け、部屋の前を歩き去りながら閉じられたその扉に一瞬視線を流すことがあった。あの向こうにレハトがいる。彼、まだ彼女とはいえない彼が羽化を夢見てまどろむ場所。
 私の期待と不安、高揚、その他もろもろの感情など知らぬ顔で閉め出し、奥津城のごとくその人を隠している扉。
 私は扉が開くのを待っている。