✥  番外2

運命の人」の続きのようなその後の話。もう憎悪じゃない。単品だとよく分からないかも。

注意
・名前有りのオリキャラが複数出張ります
・R-18
・サブタイは湯煙温泉慕情殺人事件幽霊奇譚です




 希望がなければ、絶望もない。


 寵愛者様、継承者殿と呼ばれるようになった当初、周囲の分かりやすい侮蔑の表情と、分かりやすいへつらいの態度に冷めた気持ちでいた。これに慣れなくてはいけないのだと思ったとき、まずは寵愛者様と話しかけられたときすぐに反応できるようになろうと決めた。私は寵愛者様、継承者様、候補者様と自分に何度も言い聞かせていると、違和感は日に日に薄れていった。
 それから時が過ぎて似たようなことを試した成果があったようで、奥方様と呼びかけられればすぐ顔を上げられるようになった。けれでも旦那様、という単語の意味するところに思い至るまでにはいつも短い間が必要だった。何ひとつ実感が持てず、これからも慣れる気がしない。
 旦那様がお呼びです、とにこやかに侍従に告げられ、だんな様、だんな様、と呟きながら部屋を渡る。旦那様とはもちろん奥方様たる私の夫である人物のことだ。私が妻で彼が夫。
 窓の外はぞっとするほど晴れている。陽光が白い地面に反射して、いっそう鮮やかな緑が目にうるさい。それだけで疲れを覚えた気がして、歩む先に視線を戻した。
 領館はそれなりに多くの人がいるはずだけれど、いつも一定の静寂を保っている。静かで穏やか。彼の性格からはかけ離れた好みだと考えてしまうのは、私の一方的な言い分だろうか。
 扉まで開けてくれる扱いはおそらく彼のそれをなぞったものなのだろう。壊れ物のように扱われて自分が繊細な細工物かのように感じた。
「来たか」
 文机から傾いだ上半身を起こして、タナッセは私と視線を合わせた。彼はものを書いているとき、没頭しだすといくらか姿勢が悪くなることがある。常に折り目正しい彼にしては珍しい悪癖だ。
「呼ばれましたので」
 領地に越してきてからは、私の体も私たちの関係も、小康状態といったところだ。最初の頃はもっと緊張感があった。私を取り扱うタナッセの態度は、乱暴になったかと思えば、影を踏むことすら避けているのではないかと思わせることもあり、私もどうしていいのか分からなかった。それからいくらか日が経ったこととそして、人目がほとんど無くなったことも、タナッセには良かったのだと思う。顔を合わせているとき、沈黙が続く時間は短くなり、適切な距離感を測れるようになった。
 引き出しから数枚の紙束を取り出して、タナッセは私に差し出した。
「何?」
「名目上はお前がこの領地の主だろう、たまには仕事をしたらどうだ」
 言いながら彼は別の書類をまとめたり引っ張り出したりと忙しそうだ。
 渡されたのは領民からの、陳情や相談のような愚痴のような意見書だった。多くは神様、寵愛者様への頼み事だ。たぶん、自分で全て目を通すほどの物はないと判断したんだろう。もしかしたら私が仕事をしているふりをするのにちょうどいいと思ったのかもしれない。彼のずれた気遣いのひとつ。
 寵愛者の呼び名は庶民にこそ絶大だった。貴族達からは無知で不作法の田舎者、とこき下ろされてきた私だが、領民からは熱烈な歓迎を受けていた。ここに越してきて農夫たちと話した時など、これで毎年豊作になる、と決まったことのように言われて居たたまれなかった。私自身は出身の村ではアネキウスなどほとんど意識したことがなかったために。そして無論、神の加護を感じたことも無かったため、余計に。
 一枚目。さいきん花の色が悪い気がして心配しています。雨が降らないようにできませんか。無理。
 二枚目。アネキウス様に、もとおおきな兎鹿が産まれませんかと聞いてください。無理。
 三枚目。湖に幽霊がでて困っています。寵愛者さまなんとかしていただけませんか。
 幽霊?
 ちらとタナッセを見れば、彼は素知らぬ顔で仕事を続けている。文面はもう少し続いている。
「……幽霊が出るんですって」
 ふん、と鼻を鳴らしただけで彼は返事をしなかった。
「幽霊って、いるだけなら別に困ることもないと思うんだけど」
「困っているのなら実害があるのではないか」
 もっともらしいことをいいつつ、タナッセはこれっぽっちも信じていない口調だ。
「私が育った村でもあったわ」
 試しに言ってみると一応は聞いているらしい、タナッセは手を休めず頭を横に一度、軽く傾げてみせた。
「湖の側に森があるんだけど、夜、その辺りに幽霊が出るって騒ぎになったの。白くてひらひらしたのが沢山出るって。しばらくして巡業の神官を名乗る男性が村長の家を訪ねてきて、お祓いが必要だって」
「それで謝礼を無心したのだろう、どうせ」
「そう、良く分かったわね。それで、詐欺師だという人と、神官様を疑うなという人で対立して……でも結局はお金包んだのよね、みんなで少しずつ」
「お前の村は阿呆しかいないのか。一人でもまともな頭を持つ者がいればそのような愚かしい結論になどたどり着くまい。烏合の衆もいいところだ」
「でもその自称神官様は、ではお祓いしますって森に行って、しばらくしたら真っ青になって戻ってきて、お金は返しますって言い出して。何も説明しないですぐ出ていったのよ。けれどもその後幽霊を見た人はいなくなって、神官の真偽はうやむやになって……皆、何となく忘れてしまったのよね。私もずっと忘れてたわ」
 そこで言葉を区切ってタナッセに目をやると、げんなりした顔で軽蔑した声を出された。
「心底、聞いて損をする話だった。これ以上の感想を述べるのも憚られる」
「続きがあるけど、聞きたい?」
「……話したければ聞いてやらんこともない」
「……別に、話したくはないかな……」
 なんとなく意地悪したくなって言ってみれば、彼は目を閉じ、私に聞こえるよう殊更はっきりとため息をついて話を戻した。
「それで? その領民の嘆願はそれだけか」
「『その湖の灌漑工事の水路の方向で、揉めています』」
「……どう考えてもそちらが主題だろう、そういうものはきちんとした報告を上げろ、馬鹿か」
「ああ、別添えでちゃんとした報告書がくっついてる。ええと、どちらに権利があるっていう訳じゃないから、余計収拾が付かなくなってる感じかしら。面子って大変ね。領地の端っこ、そうね、ここから鹿車で半日くらいのところかな」
 渡した報告書を長いこと睨みつけた後、タナッセは諦めたように顔を上げた。
「仕方があるまい、私が行ってこよう」
「え? あなたが行くの?」
「他に誰がいる、文官にでも任せるつもりか。それともまさかお前が行くとでも言うのか」
「でもこれ私宛よ、『寵愛者様、アネキウス様によろしくお願いいたします』」
「そうか、それならアネキウスによろしく言ってくれ、私は視察にいって領民と話す。貴様はそこで寝ていろ」
「『温泉があります』」
「何?」
「温泉があるんですって」
「……それがどうした」
「私ね、城で暮らして一番気に入ったのは、望めば毎日でもお湯のお風呂に入れるっていうことなの」
「……」
「湯治っていう考えもあるわよね」
「……」
「鹿車で半日ぐらい、平気よ」
「……」
「温泉」
 タナッセのため息はとても長かった。




「それで、誰の屋敷だったっけ」
「ペンドール男爵家。と言っても男爵はすでに没して、元妻と息子の二人暮らしだ。男爵の爵位も名目だったからな、まあ、暮らしは平民とそう変わらん」
「ふうん」
 灌漑工事の件が片付くまで、お世話になる家の説明を聞きながら、窓の外を覗き見た。鹿車は街道を抜けて開けた土地に入っていく所だ。
「言っておく。……男爵は事故死したのだが……遺体が見つかっていないらしい。幽霊の話など、夫人の前でするなよ。未亡人だとかも、迂闊に口にするな」
 真面目な顔でタナッセから注意を受け、あまり納得は出来ないまま頷いた。
 現れた湖畔の館は、平民暮らしと聞いて想像したよりは大きかった。複雑な彫りの入った門扉を抜け、鹿車から降りて鮮やかな青屋根を眺めていると玄関の扉が中から開かれた。
 出迎えに自ら出てきた来た夫人は、未亡人との呼称からは程遠い雰囲気の人物だった。驚くほど若く小柄でいながら、肉感的な体を慎ましい衣裳に包み、固くまげを結っている。感じよく頬笑んで夫人は歓迎の挨拶を口にした。
「初めてお目にかかります、タナッセ殿下、レハト殿下。当家にようこそ」
 タナッセの名前を先に呼んだのは意図的なのか、そうじゃないのか私は意地悪く観察しようとしていた。どういう意図があろうと私は政の一線から退いて、余生を送る身なのだからどうだってよさそうなものだけど、タナッセが関わるのなら関心がある。
 彼が夫人と受け答えしている間、会話を聞きながらそっと室内を見渡す。なかなかに質素で家具はどれも年代物だ。けれども隅々まで掃除が行き届き、床は磨かれ空気にはかすかに花の香りが漂っている。
 夫人の笑い声に視線を戻すと、彼女は本当に楽しそうに笑っていた。あまり王城では見られないタイプの笑顔だ。かといって、育った村で見てきた笑顔とも違う。品位を保ちつつも嫌味なところが全くない、相手まで楽しくなるような軽やかな笑い声だった。

「――何を不機嫌になっている」
 通された部屋の扉が閉まった途端、さっきまでの笑顔などどこにやったのかタナッセが詰問してくる。
「私が? どこが?」
「そこだ。何か不満でもあるのか」
 疲れたようにため息を吐かれ、私の方が嫌になる。おかしな所で勘がいいのはランテの血なんだろうか。いつだって気づいて欲しいところにはまったく気づかないのに、気づいて欲しくないところは一番に突いてくる。
「別に。愛想いいなあ、と思っただけよ」
「それはそうだろう。彼女にとって我々はいわば上役にあたる、しかもそれが寵愛者ときている。吹けば飛ぶような立場なのだ、機嫌を損ねたくはないだろう」
 幾分驚いたように、真面目な顔で分かりきったことを彼は説明してくる。
「……笑ってたね」
 タナッセは確かに鈍いけれど、今はそれを責められない。だからといってまったく苛立たないでもいられない。
「え? ああ……よく笑う人だ」
「年上なのに」
「うん?」
「意外だなと思って。それとも案外ああいうお姉さんタイプが合ってるのかも」
「お前は先程から何の話をしているのだ、相手に分かるように話さねば会話にならんだろうが。そんな基礎の基礎から私が教えなければならんのか。見事なまでに何一つ身についてないな」
「……馬鹿」
「きさ……馬鹿とは何だ馬鹿とは! いいか、お前がそのふざけた態度を――」
「分かるように言えっていうから言ったのよ、タナッセのくそ馬鹿」
「くそ……」
 絶句している彼を置き去りに、閉めたばかりの扉を開いた。聞かれてなければいいのだけれど。

 裏庭は室内と比べると、いかにもちらかっていた。こちらまで手間をかけるだけのお金がないのだろう、枯れ葉は隅にうずたかく積もり、元々は白かっただろう素焼きの鉢は苔と土埃に汚れている。軋む長椅子で頬杖をついていると、風が枯れ葉を散らばせていった。
 私にとってタナッセは、未練のようなものだ。もう少し生きていたいと思わせる、理由そのもの。けれども私が彼の未練になりたいとは思わない。そうなってほしくない。
 なるべく笑っていようと思っていた。私が平気そうにしていれば、負担が少しは軽くなると思っていた。だからといって仲睦まじい夫婦になれるとも、もちろん思っていない。だから私の気持ちを彼に分かって欲しくはないのに、分かってもらえないことに苛々している自分がいやらしくて気持ちが悪かった。馬鹿すぎる、タナッセが正しい。
 一緒に暮らしていくのだからそれなりに上手くやりたいし、それなりに上手くやれればそれでいいのに。
「あーあ……」
 だけどもあんなに楽しそうな顔をしなくてもいいのに。社交の場ではいつもつまらなさそうな態度を隠しもしないくせに、直後に私に声をかけたときはもうそんな顔だったのに。
 冷たくすると傷つくくせに。けれども笑わせようとすると不快にさせてしまう。優しくしすれば不審がられて、大人しくしていると心配させる。どうやっても楽しくは暮らせそうもない。考えまいとするほど、何の含みもない笑顔がちらついて、私では正反対の表情しか引き出せない現実を思って沈んだ気持ちになる。
 割り切れないのは期待しているからなのかと、短く息を吐いて目を上げると、見計らったようにそばの茂みから、がさごそと大きな音がした。
「……こ、こんにちわ」
 一応は貴族の館だ、まさか賊のたぐいではないだろうと思いつつ緊張していると、茂みから顔を覗かせたのは六、七歳かそこらの子どもだった。身なりからして使用人の子ではなさそうだけど、どこを抜けてきたのか小綺麗な服のそこここに泥汚れがつき、さらさらの金髪は小枝や葉が絡みついている。
「こんにちは。ここの子かな?」
「う……えと、はい」
 一所懸命敬語を話そうとする彼の態度と、飛び跳ねた髪のずれがおかしくて、思わず吹き出しかけた。たしか夫人には一人息子がいると、言っていたはずだ。
「話しやすいように喋ってくれていいのよ」
「はい、あっいいえ、えと、ちょ、寵愛者さまに、お話があります」
「うん、なあに?」
 招き寄せて小枝をとってやりながら話を聞くと、子ども特有の匂いに混じって何か嗅いだことのあるような匂いがした気がした。言い出しにくいのかまとまらないのか、細面の顔で百面相をしながらええと、とかあの、とかの言葉を繰り返している。
 私にも子どもがいればなあ。思いついた考えの身勝手さに頭を振った。一体誰が育てるというのだ。
「あの……ぼ、僕のお父さんを殺した人を、つかまえてください」

「――機嫌は直ったのか」
 風が冷たくなる前に邸内に戻ると、顔を上げずにタナッセが声をかけてきた。そういう彼も、もう怒ってはいないようだった。すぐに仕事に取りかかっていたらしい、資料の紙束をめくっている。
「もともと悪くありません」
 あれからずっと気にしていたのだろうかと考えると、悪いとは思いつつも少しばかりいい気分になる。離れた卓の椅子に腰掛けて、素直に謝っても納得してはくれないだろうから、あとでいいことしてあげようかと密かに考えていると、視界に影が差した。見上げると当人がいつの間にか隣に立って、何をするでもなくこちらを窺っていた。……なんだかもじもじしている。
「……? 何? どうかした?」
 見上げた髪に手が伸ばされて、耳元でかさりと乾いた音がした。疑問に思う目の前に無言で枯れ葉が差し出される。さきほど庭でついたのだろうが、これでまた彼の機嫌を悪くさせたことは間違いない。
「あ……。やだ、ありが――」
 礼を言いつつ目線を上げると間近に人の体温を感じた。正面のタナッセの顔は傾いて、目線は合わなかった。僅かに開いた唇、伏せかけた瞼には前髪が半分被さっている。造りかけの彫像のような、ずいぶん整った造形の顔だと、冷静に観察している自分がいた。
 タナッセはそのまま両手で頭を押さえ込むようにして、舌を絡めてきた。普段、ふとした折に唇を当ててくることはあっても、いつだって義務のように軽く触れるだけだ――少なくとも神の目のある時間は。こんな真昼時に前戯のように深く口づけされることはなかった。
 タナッセの心理は本当に分からない。やはり怒っているのか、それでこの反応なのか。
「……何、食べたの? なんか苦い」
 唇が離れたときを見計らって、曖昧に笑って見上げると彼は何故か傷ついたような表情を一瞬覗かせた。すぐに普段の何ともいえず不機嫌そうな顔に戻って、うんざりした声を出す。
「――お前は慎みもなければ色気もないな、普通どちらかは備えているものではないのか」
「これ、香草?」
「薬だ」
 頭を振り大きく息を吐いて一言、背を向けかけるタナッセの服の裾を、反射的につまんで引きとめていた。
「どこか悪いの?」
「それはお前だろう」
「ねえ」
「ああ別に大したことはない、苦い薬を飲めばそれで済む、それだけだ」
 薬ってなんの?
 大したことないって、どれくらい? いつから? 痛いの? 苦しくない? それって私のせい? 疑問は胸に次々浮かんでは消えた。聞いたところで答えてはくれないだろうし、何かできるわけでもないし。
 何も言ってはくれないし、何も聞いてはくれないし。私もそれを望んでいないはずだ。
「……色っぽくて慎みのある人もいるわよね」
「お前とは対照的な人物だな」
「男爵夫人とか」
「…………まあ……そう、かもな」
 渋々ながら肯定されて心の中で罵倒する。でもそれはタナッセにとっては、きっといいことだ。
 そこで館の老侍従が夕食を告げに来たので、それ以上追求するのはなしになった。タナッセは明らかにほっとして私から離れていく。
 案内された居室に夫人はいなかった。てっきり歓待のために同席するものと思っていたけれど、どうやらタナッセが先回りして断っていたらしい。今日は自分も疲れたからと、弁解じみた説明をごにょごにょと呟いて横を向いてしまう。私の体調に配慮したのだろう。そういう性格なのだから。
「豪勢だね」
 料理の皿や杯は客人二人には明らかに多かった。
「滞在費をいくらか色をつけて渡したからかもな。気にすることはない。向こうは気にしているだろうが」
 私の表情をどう取ったのか、タナッセはなんとも良く分からない解説を早口で告げて、席に着いた。
「さっきね、変な話を聞いたの」
 包み焼きの薄紙を慎重に開きながら、夫人の子どもに会ったこと、自分の父親は誰かに殺されたと彼が主張したことを話す。湖に出る幽霊は、父が犯人を見つけて欲しいがためにさ迷っているのだと考えていることも説明した。包み焼きの中身は豚だった。玉ねぎの甘い香りもして美味しそうではあったけど、いくらか不安にもなる。
「まさか私たちのために一頭潰したり、しないわよね」
「子どもの戯れ事だ。何故そんな思い込みをしているのか知らんが、いちいち付きあっていたらきりが無い」
 タナッセはまったく取り合わなかった。そもそも幽霊がどうだのといった騒ぎに興味が無いのだろう、煮込みを突きながら適当に答える。
「どうしてそんなことを思い込んでるのか、気にならない? ねえもう少しそっちの麦酒を回して」
「酒はもう止めておけ。それは家族の……躾の問題だ、夫人が子どもと話し合うべきで、私たちが簡単に口出しして良いことではない」
 果物の鉢をこちらに押しつけながらタナッセは何とも言えない顔をしている。
「このお酒って何か、いまいちな感じがしない? お水は美味しいのに」
「そのような水の微妙な違いが分かるとは、お前にも人に披露できる芸があったのだな。気のせいだ。おい、呑むなと言ったろう」
 目をつぶって飲み比べると、麦酒は少しすっぱいけれど口当たりは軟らかい。水は引き締まった感触がする。水と酒だから単純に比較は出来ないけれど、別物のように感じた。
「やっぱり違う」
「……ここの酒はそれなりに名の知れた特産品だ。お前が田舎者の馬鹿舌だから物の価値が分からんだけではないのか」
 顔を上げると、タナッセはどこか困ったような納得のいかない表情をしていた。いつもの弁舌も勢いがなく彼にしてはずいぶん迷いながら言葉を継いだ。
「ふーん……?」
 本当にそれだけだろうかと、考えながら杯を弄っているとタナッセがぼそりと呟いた。
「体調が味覚に影響することもある」
 突然こういう、気づかいなのか指摘なのか世間話なのか分からないことを言い出されると、私もなんと返していいのか分からない。
「ええと……男爵はどうして亡くなられたの?」
「散歩中に崖から落ちた。戻ってこない男爵を村人たちで探し、彼がいつも散歩している経路から少し外れた崖の上に、すべったような足跡と男爵の帽子を見つけた。下は急流で、遺体が見つからないのはそのせいだ」
 柑橘の皮をきれいに剥きながら、タナッセは事故の状況を端的に説明した。そんなことまでよく調べている。
「つまり、誰も見てないのね」
「男爵が殺されるほど誰かの恨みを買っていたという話は聞いていない」
「ないとも聞いてないでしょう」
「喉に良い、食べろ。どうしても殺されたことにしたいのか」
「違うけど……子どもがそんなこと考えてるなんて、あんまりじゃない?」
「そう思うのなら、余計にだ。思慮もなく差し出がましい真似をして、いっそうこじれたらどうするつもりだ」
「……タナッセ、子ども、好きなの?」
「そう見えるか」
 見えない。
 真剣な顔で見返されてその言葉を飲み込んだ。怒らせる気がする。
「でも、あなたってわりあい世話好きで辛抱強いし、小さい子とか相性良さそうよ」
「誰が世話好きだ! 貴様、人を馬鹿にしているのか」
 柑橘を食べながら言ってみると本当に怒らせてしまった。私とは相性が悪い。


 荒れた庭を片づけるタナッセの側に、小さな子どもがいる。子どもの金の髪は日差しを受けてきらきらと光を振りまいている。大きく口を開けて無邪気に笑い、タナッセの足下をちょろちょろと走り回り、枯れ葉を運ぶ。
 子どもはお父さん、とタナッセを呼んだ。振り向いた彼の横顔は、穏やかで優しかった。
 これは夢だ。私が目にすることのない未来の夢だ。そう遠くない日に私は山に登るだろう、そのあと、いつかタナッセにはちゃんとした人と再婚して、子どもも儲けて欲しいと思っていた。だから私はその夢をその時までちょっとした切なさと幸せな気分で眺めていられたけれど、タナッセの瞳を見たときいくらか打ちのめされた気になった。
 そこには喜びだけでなく、強い意志があった。自信に満ちて、未来を信じている。私には決してあげられないもの、罪の意識とは無縁の愛。
 私は立ち尽くし、遠い光景をぼんやり見ている。
 頭の上に違和感を覚えた。横になった頭に、温かな重みがかかっている。これは手のひらだ、それもきっと彼の。まぶたの裏も窓の外も、沈黙が澱のように沈んでいる。まだ夜は深いのだろう、ずっと遠くで風が木の枝をさわさわと揺らしている。
 タナッセは何をするでもなく私の頭に手を預けてじっとしていた。私は眠っている。
 眠っている私の髪を長い指が一度だけ梳いて離れ、代わりに首に手がかかる。親指を開いた手のひらがぴたりと喉に張り付き、軽く力がかかる。首を絞めるのだろうかと考えたけれど、力がかかっているのは指先だけだ。彼は私の脈を測っている。
 しばらくして指が外され、気配がそろそろと遠慮がちに寝台に横たわった。それはまるで隣で眠る人を起こすまいとする、気遣いを感じるようだった。以前の関係のままのタナッセであっても、おそらくそういう風に振る舞ったろうと思う、だから特別私を思いやっての行動ではない、だから私もこんなに深刻に受け止める必要はないのだ。
 すぐに死ぬだろうとも思っていたのに、そのために拝領したというのに、これほどだらだらと生きて、こんなおかしなことになるとは思っていなかった。優しくされると、困ってしまう。それは私も同様だ。私のことで苦しまないでほしい。最後までただ憎まれているほうが、彼にとってはましだったのかもしれない。
 だからどうかあの夢が正しく現実となりますように。




 翌日、タナッセは余計なことはするなと言い残し、工事の件で出かけていった。
 私は怒られない程度に余計なことをするため、幽霊を見たという人を探そうと館を出た。夫人に一言断る時、息子さんが父は殺されたと言ってましたけど、あなたはどう思います? と聞きたい衝動にかられたがもちろん聞かなかった。夫人はお気をつけて、と頬笑んで夕食の希望はあるかと聞いてきた。
「レハト様は虚弱だから胃の腑に負担の掛からない、滋養のある物をお出しするようにと伺ってましたけど、お口に合いましたかしら」
 希望はない、とても美味しかったと礼を言って、侍従に扉を開けてもらった。
 外は良く晴れていたが、湖の側だからか空気がさわやかで歩きやすかった。息が切れないようゆっくりと湖の周囲を歩いていると、農夫らしき男達が数人、額をつき合わせるようにしてお喋りしているのを見つけた。
「皆さん、おはよう」
「おや、これは……おはようございます、寵愛者様。お散歩ですか」
 身分証をぶら下げながら歩くというのも便利なものだ。話が早くて助かる。
「幽霊を探しているの。それと、ビルカという人がどこにいるか、ご存知ない? ビルカ・タイヒ=エスタンケ」
 手紙を送ってきた人物の名を出すと、彼らは一様に驚き、顔を見合わせてから姿勢を正した。
「……あの。少しお話ししても、よろしいですか」
 ためらいがちの質問に既視感を覚えつつ承諾すると、一人が勢い込んで話し出した。

「男爵には、愛人がいるって噂になっていたらしいの」
 ものすごく馬鹿にした目ながら、タナッセは黙って聞いていた。肘掛けを指先で規則正しくつついている。
「ここの人ではない違う誰かと一緒にいるところを見た人がいるの。夜中にこっそり出かけたり、明け方に車で戻ってきたりもしていて、それで他所に誰かいるんじゃないかって話になったのね。
 で、男爵には子どもの頃将来を誓った幼なじみががいたんだけど、成人前に遠くに引っ越してしまったんですって。その人が男爵の愛人じゃないかってもっぱらの噂。それでね、最初に幽霊がでるって手紙を送ってきた人、ビルカ。それがその幼なじみさんの名前なのよ」
 そこまで喋ってタナッセを見る。渋い顔。
「それで? 他所の土地の幽霊騒ぎを報告してきた、そいつとは会ったのか」
「別の領地に子どもの頃引っ越したのよ、すぐには調べられないわよ。誰も詳しくは知らないみたい。ただ、工事の報告書に手紙をくっつけたのは、誰かに頼んだと思うのよね。そう難しくないからやってくれる人もいるでしょうし」
 我慢ならなくなったようにゆっくり息を吐いて、タナッセは睨みつけてきた。
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「分かってるわよ。男爵は誰かに殺された、幼なじみと子どもはそう疑ってる。それは、間違いないでしょう」
「そんなに立派な動機があるのなら表立って訴えればいいだろう、名乗って手紙を書けるのだから」
「だから、出来ない理由があるのよ、たぶん。聞いて回ったけど、幽霊を見たって言ってる人は評判の――って言うのもおかしいけど、近所では有名な目立ちたがりの娘さんくらいなの。後は出たらしいねっていうくらいで。もしかして噂を流してるのは――」
 言いかけると、タナッセが立ち上がって詰め寄ってきた。
「お前な、その推理ごっこの先にあるものについては考えたことはあるのか。最後まで責任を取るつもりが――」
「お二人とも、今よろしいかしら?」
 タナッセが何かを言おうとした瞬間ノックの音と共に明るい声が室内に響いて、私とタナッセは二人同時に勢いよく振り返った。
「……私、お邪魔だったかしら」
 男爵夫人が困り顔で立ち尽くしていた。胸のあたりに上げた両手がおかしな形で固まっている。
「ああ、いや。騒がしくて、申し訳ない。何か……?」
「あの、温泉にご案内しようかと思いましたの。まだご覧になってませんでしょう」
 どうかしら、と夫人はまだ困った顔のまま首を傾げた。タナッセは眉間の皺をするりとほどいてそれはありがたい、とかなんとか返事をしている。タナッセのくせに愛想が良すぎる。

 しばらくどちらも黙ったまま、目の前の光景を見ていた。
「……ほら、どうした。入りたかったのだろう。温泉とやらに」
「ちょっと……考えていたのと違ったみたい」
 正面を向いたままタナッセが無感動に呟き、引きつりそうになる声を抑えて返答した。
 湖と隣り合う一段低い場所に温泉はあった。泥水のような赤茶に濁った水が広がり、衛生のために進んで入りたいとは思えない色をしている。見た目は沼地だ。小屋が併設され、そこから温泉まで囲いで左右が覆われた通路が設置されていた。
「目をつぶって入ったら気持ちよさそうよ。どうしてこんな色になるのかしら」
 思い切って、屈んで手のひらを浸すとどことなくもったりした感触が絡みつく。温かくて気持ちがいいことは確かだ。
「隣り合ってるのに湖は温度が低いのね。水源が違うとか、そういうことかしら」
「湖と言うより池だな、これは」
「あなたが王城湖を見慣れてるから小さく見えるだけよ」
 引き上げた手は汚れてはいなかった。べつだん臭いもない。ぱたぱたと振り、乾かしておしまいにする。
「夕食の後で、入ってみようかな」
「好きにしろ。言っておくが、私は遠慮するからな」
「そう? あ、そうか、タナッセは湖とか川で水浴びしたこと無いんだね。こういうの、無理だったりする?」
「……無い訳ではない」
「そうなの? じゃあ入る?」
「遠慮すると言っただろう」
「ご覧になった方は、大抵そう仰いますよ」
 押し問答になりかけたところに、くすくすと笑いながら夫人が口を挟んだ。
「気持ちの悪い色ですもの、私も輿入れしたとき一度入ったきりです。別段面白いものでもありませんし」
 ほれ見ろ、と言わんばかりにタナッセが見返してきて、妙に悔しくなる。
「でも血の巡りが良くなります。食欲も出ますから、レハト様にはお勧めします。私はこれ以上食べたくなったら困りますから、入りませんけど」
 悪戯っぽい頬笑みで見つめられ、なんとはなしに居心地が悪い。笑顔に見えてると良いのだけど、と思いながら意識して口角を持ち上げた。

 見た目は泥水でも暗くなれば分からない。
 角灯がいくつか囲いにぶら下げられ、中で炎が揺らめいている。雲もない夜で、星と月明かりが凪いだ湖に柔らかな光を落としていた。まるで舞台だ。
「タナッセも入れば良いのに」
 呟いた声が消えていった後は、私が水面を叩くぱちゃぱちゃという音しかしない。幽霊も休みを取っているらしく、静かなものだった。
 部屋に戻る前に湖の側まで少し歩いてみると、風が吹き付けてきて唐突に夫人の子どものことを思い出した。あの子は水の匂いがしたんだ。今日は会ってない。もっとちゃんと話を聞いてあげたいのに。
「気持ちよかったわよ」
「そうか」
 部屋に戻ると、タナッセは明かり取りの下で小さな杯を傾けていた。
「何飲んでるの?」
「飲んでみろ」
 意図が掴めないまま差し出された杯を受け取って覗き込む。指一本分も無い、ほんの味見だけの量が底に溜まっていた。匂いはどうも果実酒のようだけど、タナッセが私にお酒を勧めるなんてどういうことだろう。
「……あれ、これ……?」
「昼間、出先で土産に持たされた品だ」
 美味しい。昨夜飲んだものとは明らかに味が違う。
「どういうこと?」
「さあな」
 飲んでみろといった癖に、そういう態度を取らないで欲しい。
 思ったけど言わずにおいて、どうしてここでは違うお酒が出るのだろうと、考えながら胸元のボタンを弄っているうちに外してしまった。やたら小さくて固いから先ほど苦労して留めたものなのにと、大きく息を吐いて見下ろしていると、私のではない大きな手が伸びて指に触れた。
「……タナッセ?」
 留めてくれるのかと手を離すとしかし、彼はそれを無視して他のボタンを外し始めた。黙ったまま二つ三つとボタンを外していき、露わになった胸の間に唇を寄せてくる。開いた窓から顔を出すように服の端を持って、タナッセは私の身体を丁寧に舐めていった。見下ろす機会はなかなかない。
 触られても今日はあまり熱くないなと思い、温泉の効能かしらと考えていると寝台に押し倒された。
 温かな吐息が肌にかかる度に、奇妙に感傷的な気持ちが湧き出てくる。時折歯が浅く肌を傷つけて、叱咤されている気分になる。
 私の身体でタナッセが触れてない場所はどこだろう。思いついて頭から順番に確認していると、腿の間に手のひらが差し込まれた。気がつくと大きく脚を開いた、信じられない格好をしていると人ごとのように考えた。服をはだけ別々の方向に足を向けて、他人にこんな所を触らせている。
 下穿きに掛かった指が引かれるのに気づき、脱がしやすいようにと自分の腰を浮かすと予定調和の笑劇を演じているような気分になった。これは合意の行為です。
「……何を笑っている」
「気持ちいいから」
 好きな人とするのはとても楽しくて心地よいものだと、聞いたはずだったけれどそんな素朴な感想は湧かなかった。愛などない方が、心置きなく振る舞えるために快感を得やすいという反対の話も聞いたことがあるけれど、どうやらそれも眉唾物だと夫がその表情で教えてくれた。
 私は、これ以上無い仏頂面で恐ろしく破廉恥な行いを続けているタナッセを見ていた。指を入れて検分するように具合を確かめたり、よく見えるように腰を持ち上げたり。
 目を閉じたら口づけてくれるだろうかと、そうしてされるがままに任せた。
「――レハト?」
 慌てたような声が間近に響いて目を開けると、タナッセの当惑した顔がゆらゆらと上下しているのが視界に入った。どうしたんだろうとちらりと考えて、我に返った。
「……ごめん」
「……事の最中に寝いるとは、余程退屈だとでも言いたいのかお前は」
「ごめんなさい、なんだか、暖かくて……ぼうっとしちゃって……」
「レハト」
「あ、うん」
 呼びかけにはっとして頭を起こすと、今度はひどく心配そうな表情が見えた。彼の動きも完全に止まっていた。
「平気よ、続けて?」
 タナッセは何度か口を開け閉めして、結局何も言わなかった。諦めたように私の体を寝台に横たえ、無言のままゆっくりと自身を引き抜く。ずるりと這い出てくる感触に、一瞬体が震えた。
 また失敗してしまった。謝ろうかどうしようかかなり迷って、別のことを言うことにした。
「疲れてたのかも」
「……そうか」
「平気?」
「それはお前だ。……私のことは気にしなくていい」
 タナッセのこと以外に気にかけることなんてあるだろうか。
 私自身の死を受け入れた今、周囲の人の心配くらいしか気に掛けることはない。現在もこの先も、一番心配なのは間違いなくこの人だ。これから彼がどんな生を送るのだろうと考えるだに、心配で仕方がない。
 重い体をなんとか起こして、背中に抱きついた。裸の背中は熱くて気持ちがよかった。温泉よりずっと効能がある。
「これだけでも効く気がする」
「……そうか」
 気がする、と言っているだけだから嘘ではない。そんな気がするのだから。硬くて骨張って、抱きしめても拒まれているように感じたけれど。裸の体からは微かな汗の匂いが立ち上ってきて、頭がぼんやりとしてきた。タナッセの匂いだ。
「着ろ」
 言われて、差し出された夜着にのろのろと袖を通した。またボタンだと思いながら留めていると、違和感の正体に気づく。
「これ、あなたのみたいよ」
「――構わん、お前のを探すのは面倒だ。下だけ寄こせ」
 余って垂れ下がる袖を見せると、タナッセは一瞬戸惑ってから煩わしそうに頭を振った。夜着の下衣だけ渡して、どうするのかと思い横目で窺っていると、それだけ穿いてそのまま横になってしまった。らしくないだらしなさだ。私の性質が伝染でもしたのだろうか、それだけ疲れさせてしまったのか。
「お前もさっさと寝ろ」
 言いながら引き倒され、今度は上掛けもかぶせられた。
「寒くないの」
「寒いわけないだろう」
 気になって聞いてみるとそっけなく返事があった。短い間が空いて、同じ質問が投げられる。
「寒いのか」
「ううん。言ってみただけ。寒くない」
 寒いと答えたら着替えさせられてしまうかもと、急いで否定する。行為の後で、同じ夜着の上下を二人で分けて着るだなんて、恋人同士でもなかなかしない。
 私の返事をどう捉えたのか、タナッセはいくらか身を寄せてきた。領館の物と違いそれほど広い寝台ではないので、いつもよりずっと近い。直前までもっと近くにいたはずだったけど、それより近く感じる。




「……今日はどこから話を聞いてきた」
「出入りの商人と、ここの小間使いの子が話してる所にお邪魔したの」
 私の顔を見て、うんざりしながらもタナッセは尋ねてきた。
 昼間、タナッセは揉め事の調停に忙しく、私は観光と療養と調査で忙しい。朝起きたら彼はもういないこともあり、こうして寝る前にやっと会える日が続いていた。
「夫人は地方から輿入れしたんだけど、自分の地元のお酒が恋しいからそれだけはどうしてもって、取り寄せてるんですって。で、それしか口にしないそうよ」
「なんだ、それしかとは」
 彼は書類をめくりながら、どうでもよさそうに相槌を打っている。
「水は絶対飲まないし、お茶の代わりに沸かした果実酒を飲むんですって。すごく徹底してる。
 でも、わざわざお金と時間をかけて、美味しいお酒を退けて、郷愁に浸りたいような人かしら。そんなことをするくらいなら、庭の改装を考えそうなものだけど」
「……何が言いたい?」
「工事に必要な調査だとか言って、湖をさらってみるのはどう?」タナッセは口を閉じ眉を寄せて、厳しい顔をしている。たぶん、私と同じ事を考えているのだろう。「ここの水を飲むのは嫌だなって思うような物が、出てくるのかもしれない」
「で、それが幽霊の正体だとでも? 馬鹿馬鹿しい、そのような浅慮な妄想で人手を使えるか。大体、飲料以外の料理や洗濯、風呂に使う水はどうなってる? ここのものだろう。それでは片手落ちも良いところだ」
 ゆっくり頭を振って、タナッセは書類をまとめて整えた。
「我慢できない線引きがあるのかも。湖を調べると聞いて夫人がどう出るか、試してみたって悪くないんじゃないの」
「悪くない? 何が悪くないだ、幼稚な探偵ごっこで他人を振り回していいものか」
「……あの子、捕まえてくださいって言ったのよ。見つけて、とか探して、とかじゃなくて。あなただって、考えたでしょう」
「考えることと口にすることの間には大きな隔たりがある。何を口にするかは、よくよく考えてからにしろ」
 やっぱり考えたのかと、口には出さず思って別の話をすることにした。これ以上言ったら本当に怒らせてしまう。
「灌漑工事の件は、どう?」
「ああ、しょうもない見栄の張り合いだ、くだらん。渉外官にでも任せればよかった」
 言いつつタナッセは書類を片付け終わり、寝台まで歩いてきた。
「大変?」
「大したことはない」
「でも、タナッセが実質領主なんだもの。私が死んだ後も、経営よろしくね」
「それで私が領地をうまくかすめ取ったとか言われるのだろう、お断りだ」
「今でも十分言われてるし、返還したくらいじゃ変わらないよ。あきらめて受け取ればいいじゃない、減るもんじゃなし」
 話しながらタナッセは頭を回し、自分の首の後ろを手のひらでさすったり押さえたりしている。疲れているのだろう。
「ね、肩揉んであげようか」
「別にいらん」
 否定されはしたものの、肩にかけた手を振り払われたりはしなかった。薄手の夜着の下に硬い筋が広がり、何故か若木を連想した。広い背中だ。ちゃんとした男性の背中。
「どう? 強い? 弱い?」
「……弱い」
「このくらい?」
「……」
「ねえ痛くない?」
 反応がないのでどんどん力を込めていったのに、タナッセは黙っていた。ぎゅう、と強く押して自分の体のほうが跳ね返されそうになる。そうして遊んでいると、タナッセがゆっくりと振り返り、ひどく優しく手を取られた。
「もう、いい」
 目を伏せてそれだけ言うと、彼は持ち上げた手を膝に返してきた。そっと、精緻で脆い細工物を扱うような仕草だった。
「なによ……」
 一瞬胸がつかえて、上手く返せなかったのが悪かったのか、タナッセも開きかけた口を閉じてしまった。気まずい沈黙の後、寝ろ、とそれだけ小さく言ってタナッセはまた私に背を向けようとする。
「……今日はしないの」
 本当は、こっちを向いてよと言いたかった。背中を見るのはもううんざりだと。
「――体調が良くないのだろう」
「具合が悪いからしようって言ってるの」
 横顔には抑制された感情が滲んでいたけれど、それが何かは判別できなかった。楽しそうでないのは確かだ。
 それが義務だと思っている人に抱かれるのはあまり楽しいものではないし、彼も同じだろう。それでもこのままお互い背を向けて眠るのは嫌だった。
 タナッセは短く逡巡して、ぎこちなく腕を伸ばしてきた。それでもしばらくの間、私の体を抱きしめたまま動かずにいた。
 経験を積めば技術も向上するのが普通だというのに、回数を重ねるごとにタナッセの動きは固く稚拙になっていくようだった。たぶん気を配る要素が増えたのだろう。私の体調とか、気持ちとか、感じ方とか。気にしないでと言ったところで、それらを無視できるようになる性格でないことは知っている。私は酷なことをしているだろうか。
 吐息をすぐ側で感じて心地よかったけれど、彼はそうでもないことは体の反応から、正しくは反応がないことから想像がついた。
「……その気になれないなら、仕方ないけれど」
「そんなことは言っていないだろう。ただ……ただ、お前の貧相な体を相手にするのは骨が折れるのだ」
 言われて思い出すのは、男爵夫人の柔らかそうな肉厚の腰や丸い肩だ。こればかりは致し方が無い――胸はそれなりにあると思うのだけど。
 何にせよ私自身は自分の体に希望がある訳ではない。こうして向かい合って普通に話せれば、それで大体の目的は果たしたようなものだ。どうせこれ以上は望めない関係なのだから。だからほんの少し安堵して、口が滑ったのだ。
「それなら私がしてあげようか」
 タナッセの口が反射的に大きく開いてそのまま動きが止まる。きっと、馬鹿、と言おうとしたのだろう。それからゆっくりと唇を閉じて引き結び、眉間に浅く溝が刻まれる。きっと私にはタナッセを怒らせる先天的な才能が備わっているのだろう。そうとしか思えない。けれども彼が腹を立てたことで行為は滑らかに進んでしまうのだから、人とはよくわからない。いくらか乱雑に服を脱がされながら、気分が重くなっていく。哀しませたり、怒らせたり、そればかりで。
「ごめん」
 むき出しの肩に口づけられて、そう小声で呟くと耳に届いたらしく、タナッセは喉の奥から返事をした。
「何を謝る」
「悪かったな、と思って」
 タナッセの動作は段々と緩慢になって、やがて止まってしまった。のし掛かってはいるものの、俯いた顔は髪の陰に隠れていた。膝と手を寝台に着いて、彼は短く沈黙した。
「もう、いい。寝ろ」
「――タナッセ」
 疲れたように言葉を投げ、呼びかけには応えずタナッセは背を向けようとする。
「……こっちにきて」
 半身を起こして腕を伸ばして絡めた。はねつけられるかと思ったけれど彼は素直に、というより私に引っ張られるままに抱えられた。さっきも、そうしてくれた。
「あの、ね……」頭を抱いて横になると胸元に息がかかって少しくすぐったい。髪を梳いてどう言ったものかと、考えながら続けた。「なにか勘違いしてたら嫌だから言うけど、私、あれ……ええと、するの嫌いじゃないよ」
 返事はなかったけれども不自然に静止した体から、こちらを窺う気配を感じて話を続ける。言い訳のように聞こえなければいいのだけれど。
「どうしてもしたいわけでもないし、あなたが嫌だったらしないよ。私は人が嫌がるところが見たい変態じゃないし」
「……それは私に対するあてつけか」
「なに、そんな自覚あったの?」
 拗ねたような声がおかしくて、少なからずからかうような口ぶりになったのは許して欲しい。はいともいいえとも分からない、返答のような独り言のような言葉にうなり声が混じった。
 髪に口づけて滑り落ち、やっと目があったタナッセは、どことなく寂しい子どものような顔をしていた。
 唇を重ねると体温以外の温かさがゆっくりと染み込んでくる。瞬きする時間に襲われた眩暈が去ると、背に回した腕が意志に反して弛んで滑り落ちていた。離したくなかったのに、と思って手を動かそうとした時には、私が抱き抱えられていた。
「ん……」
 口の中で上あごをゆっくりと何度もさすられて唾液が溢れてくる。薄い唇の感触にはとっくに慣れたけれど、口づけられながら撫でられるのにはまだ慣れなかった。
 頬を包む手は温かい。もっと近くに来て欲しくて、服の端を掴むとゆっくりと体重がかかる。タナッセの重みを感じるのが、心地良い。
 タナッセのごく静かな呼吸音が間近に聞こえる。他に音は聞こえない。聞きたくもない。
「……レハト」
 タナッセの声が何かを確かめるようにごく小さく囁かれ、耳たぶを噛んで、首筋をゆっくりと降りていった。
 肌の上を手のひらが緩やかに這い、短い毛先がするすると舞う。くすぐったいはずなのに、どんどん身体が熱くなってくる。
「は……」
 ゆっくりと挿入されて、押し出されるように息が漏れた。まぶたを閉じてその感覚だけに集中すると、慣れた温かさに自分の中の何か、中心のようなものが呼び起こされるのを感じる。
「……目をつぶって、入ったら、気持ちいいって言ったでしょう」
「……くだらない」
 急に思い出してそのまま呟いてみると、聞こえていたらしいタナッセからとりあえずのような返事があった。
「そ、いえば……音も、似てるね」
「こんな時まで冗談を欠かさぬとは、まったくお前は、諧謔の精神に満ち満ちているな。黙れ」
 いくらか煽るつもりで嫌がりそうなことを言ってみると、タナッセも調子が戻ってきたようだった。こういう時の不機嫌な声は嫌いではない。
 緩やかな速度で抜き差しされていると、頭の奥がむず痒くなる感覚に休みなく襲われて、何かを急かされている気持ちになる。早く達してしまいたい。
 その後はタナッセの希望通り、最後まで何も言わずにおいた。




 夫人に会いたいと老侍従に告げると、彼女の私室に案内された。他の部屋にもまして質素で、隅に文机と書棚、箪笥などがまばらに配置されているだけだった。夫人は頭を抑え、ときおりため息をつきながら書き物をしている。
「まあ、レハト様。どうなさいました」
「今日は、息子さんは?」
 ぱっと立ち上がった彼女に問いかけると、意外そうな表情になった。
「あら、息子ですか? 実はお世話になった家庭教師の方がご病気で、お見舞いに行くって聞かなくて。領主様がいらっしゃる前には挨拶に帰るよう言ったんですけど……もう戻ると思うんですけども。でもどうしてですか?」
「……。私は、別に誰かの罪を暴こうとか、不正を正そうとか、そんなことを考えたことはありません。そんな資格があるようにも思えませんし。ただ……彼、息子さんは、違うと思います。何にも知らずにいて良いのかと、考えてしまうんです。こんなこと、私が口出しする事じゃないんでしょうけど」
 つっかえそうになりながら、考えていたことを言ってしまった。誰かが口出ししなかったら、あの子はずっと父は殺されたのだと、殺した誰かのことを考え続けることになる。
「……あの、レハト様?」
「湖の水を飲みたくないのは、死体が沈んでいるからですか?」
「……なんの話をしてらっしゃるんでしょう」
「さらってみようかと、思ってるんです。……ビルカ・タイヒ=エスタンケと言う人をご存じですよね」
「……寵愛者様」
 困ったように首を傾げていた夫人は、ふいに背筋を伸ばし握っていた両手を開くと、真っ直ぐに瞳を覗き込んできた。
「ご覧になってほしい物があります」
 夫人は本棚まで歩いていき、手前の本をあらかた脇にどけて、奥から錠の掛かった小さな木箱を取り出した。ポケットから鍵を取り出し、かちりと小さな音が立つ。「筆跡は、公文書で確認できると思います」
 渡されたのは男爵の遺書だった。
 幼なじみと将来を約束していたこと。けれども彼とは結ばれず、しかし諦めることも出来ず、成人後に再会し、お互い家庭がありながらずるずると関係を続けてしまったこと。終わりにしたいと言うと、幼なじみは、自分もそうだと言って自ら湖に飛び込んだこと。全てを精算するため同じ場所に身を沈めるつもりだということ。
 自分と相手の妻子に申し訳ないという言葉が合間合間に挟まれた遺書は、何度も開かれ折りたたまれてすり切れていた。
「ビルカさんは、誰にも探さないで欲しいという趣旨の手紙を、家に残していったそうです」
「――男爵は自殺だったんですか。それを隠そうと足跡をつけたんですか?」
「いいえ。……本当に事故なんです」歪んだ笑い顔の夫人の瞳に涙が滲んでいた。「自殺しようと決めて、湖に身を投げるつもりで遺書まで書いたのに、散歩コースの崖から滑って落ちるような人なんです」
 夫人の視線は選定印に注がれていた。もしかしたら、私が断罪者に見えるのだろうか。
「息子には、何も知らせたくないのです。その方がいいと、信じています。私は、神に誓って何もしていません。夫の最期の意志をねじ曲げ、罪を隠匿した以外は。
 レハト様、息子には何の罪もありません。せめて、あの子が成人して自分というものを強く保てるようになるまで、待っては頂けませんか」
 筋の通らない事をなりふり構わず懇願する夫人の強さは、私にはないものだった。堂々と反論できるような理屈も理由も持っていない。
「…………。……息子さんは、私に……」
「ただいま! ねえ母さん、寵愛者様がもう来てるって、本当!? 僕、今そこで……」
 玄関の扉を勢いよく開く音と同時に子どもが叫ぶ声がした。私も夫人も飛び上がり、大急ぎで木箱に遺書を突っ込む。ばたばたと走ってくる音が近づいてくる。
「あっ……」
 飛び込んできた子どもは私の顔と額を認めると、真っ赤になって急停止した。
「もう、あなたはどうしてそう落ち着きがないの! 第一どうしてこんなに遅いんです、お帰りに間に合わないところでしたよ。もっと早く帰ってらっしゃいと言ったじゃないの」
 夫人が子どもを叱っていると、遅れて、タナッセが静かに入ってきた。
「タナッセ」
「そこで会った」
 タナッセは少年にあご先を軽く向けそれだけ簡潔に言って、後は黙って親子を眺めている。何か考え事をしているようだった。
「すみません、もう、この子ったら……。紹介しますわ、息子のウォルターです」
 飴色の瞳を真っ直ぐこちらに向け、少年は大きく頭を下げた。瞳と同色の、癖のある短い髪がふわふわと跳ねる。
「はっ初めまして、タナッセ殿下、レハト殿下。ウォルターです。ちょ、寵愛者様にお目通りが叶い、光栄です」
「初め……まして、ウォルター。恩師のお加減が良くないと聞きましたけど、どうだったのかしら」
「は、はい。大丈夫です。ぎっくり腰でした」
 簡単な挨拶をかわした後、会話は得意分野のタナッセに任せてしまって、紹介された少年をよく観察した。身長は同じくらい、ほっそりした体格も同じくらい。けれども顔が全く違う。
 ウォルターはかわいらしい上向きの鼻と丸い輪郭で、あの子はすっきりした鼻梁と薄い唇の、線の細い顔立ちをしていた。そしてまた目の前の少年は夫人とは一目瞭然に親子だ。よく似ている。
 その晩は、四人で揃って夕食をとった。子どもは恐ろしく興奮していて、ぎっくり腰は意外に怖いのだということ、温泉と湖が大好きだということ、自分がいかに私に会えるのを楽しみにしていたのかなどをとめどなく喋り続けた。
 私は、ウォルターと喋るのと、夫人と目配せしあうのと、子どもに向かってときおり微笑むタナッセの横顔を盗み見るのとでとても忙しかった。

「それじゃああの子は誰なのかしら?」
 夕食の後、一生分食事をとった気分で寝台に寝転がって呟くと、タナッセが顔を向けた。
「あの子……ウォルター。私が会った子と、違うのよ。初日にあった子どもはさらさらの金髪だった」
 それから夫人と話して男爵の遺書を見せてもらったことと、その内容を教えた。怒られるかと思ったけれど、タナッセは黙って聞いてくれた。今日はなんだか大人しい。
「ねえ、あの子、誰かしら」
「お前、まさか幽霊かも、だなんて思ってないだろうな」
 言ってタナッセは折りたたんだ紙を懐から取り出した。広げると、役所に出される身分証のようだった。知らない領主のサインがある。
「写しだ」
 ビルカ・タイヒ=エスタンケ、生年××、男性。妻ヤービ、子ヨウリン。
「……男性」
「それが遺書を隠しておきたかった理由の一つだろう。不貞を働いていただけでなく、相手が同性となれば、受けるべき処罰とは別にどんな非難に晒されるか知れたものではない。父の名がどのような扱いを受けることになるか、息子には見せたくない光景だろうな。……どちらも碌な父ではないが、父親だ。加えて男爵の死も、本当に事故であってもそのような遺書があれば自殺と見なされるだろう」
「……じゃあ、あの金髪の子は、この子? ヨウリン?」
「それが最も可能性が高いだろうな。手紙も同様に、父の名を借りて出したのだろう。ビルカは行方不明の扱いだ。それと、妻子は彼が失踪する以前に家を出ている。その子どもが父を殺した人を捕まえて、というのはどこまで考えがあって言ったのやら」
「……なんか……何だか、都合が良すぎない? だって、私に会ったのも、ウォルターがいなかったのもたまたまだし、でも、ここの子? って聞いたらそうだって言ったのに。二人は家を出てどうしたの? 生家に戻ったの?」
 頭の中で話を整理しながら、ゆっくり喋る。ウォルターは父の死を疑っていない。夫人も息子の疑いを感じたことはない。
「逆だ。たまたまそうなっただけだ。別にお前に会うつもりはなかったのかも知れない、そこにいたから声を掛けてみただけだろう。お前は身分証をぶら下げて歩いているのだから、誰かに間違われることはないのだし。何にせよ幽霊より都合が良すぎるということはない。ビルカの妻子の消息は不明だ。とは言え不審なところはなさそうだった。まあ、これ以上詳しくは分からんが」
「この近くにまだいるのかしら。あんな小さい子が一人でってことないだろうし、出てきて……最初から名乗って、説明してくれてもいいじゃない」
 幽霊の噂を流したのか、利用したのか、湖に出ると言ったのはどこまで考えがあってのことだったんだろう。父親と、男爵のことはどれくらい知っていたのだろう。
「結局あの子のお願いは叶えられなかったんだし、出てきてくれないと説明も出来ない。……一度向こうの領地に行って探……駄目よね、うん、分かってるわ」
 途端、すごい目で睨まれたので慌てて撤回した。タナッセには今回ずいぶん迷惑をかけた。
「探し出してどうするつもりだ。不倫相手の遺書に自殺とありましたよと言って、相手が納得するか? 男爵が殺したのでは、という疑いはどうやっても消えん。それとも男爵夫人を告発して遺書を公表するか」
 それはしたくない。でもあの子は私に頼んでくれたのに。
「何もかも解決できるはずなかろう。諦めろ」
 私の頭に手を置き、くしゃくしゃと髪をかき回してタナッセは立ち上がった。そんなことをするのは初めてだ。
「……まあ、そう、だけどさ……あ、ねえ、灌漑工事の揉め事はどうなったの? 解決しそう?」
「ああ、領主殿がそれを思い出して下さって私も光栄に存じます。万事滞りなく進んでおります、ご安心ください」
「タナッセは本当に優秀だね。こんなに短期間であれもこれも調べて」
「これはなんと、かようなお褒めの言葉を賜り、痛み入ります。お心遣い、恐縮至極に存じます」
 背を向けて寝支度をしながら一本調子でぺらぺら喋っているので、まったく有難みはなかったけれど、妙に嬉しいのも確かだった。
「褒めてつかわそう」
 私は恐ろしく緊張しながら、タナッセの髪の毛を撫でた。彼は何の感慨も見せず、うるさがっただけだった。
「何をへらへらしている、とっとと寝ろ。明日には出発するからな」
「はい。おやすみなさい、あなた」
 言って顔を見ずに寝台に潜り込むと、だいぶ後からおやすみと呟く声が追いかけてきた。




「いいのか、黙っていて」
 帰りの鹿車の中で、タナッセが唐突に聞いてきた。湖畔の館はもう見えない。
「夫人が遺書を隠したのは軽い罪ではないぞ。すぐに調べていれば、ビルカが本当に自殺なのかどうか判別できたかもしれん。今さらだが」
「言った方が良いと、タナッセは思う?」
「……報いはあって然るべきだ。それに湖の遺体は引き上げてやったほうがいいだろうな」
「……工事のついでに遺体を探すようなことって、できる?」
「無理だな。湖自体にはほとんど手をつけない」
「じゃあ、ビルカを探すには遺書を公にするしかない?」
「そうなるな」
 少しだけ考えて、私は決めた。
「じゃあしない。あの二人の味方する。ビルカの家族はきっと納得いかないだろうけど、表立って言われたわけじゃないのに首を突っ込むのも、どうかと思うし」
「なんだ、急に物わかりの良いことを言い出して」
 不審そうな目でじろじろと見られて、少しきまりが悪い。
「ちょっと懲りたかな……最初から知らん振りしてたら良かったとは思わないけど」
 結局、あの金髪の子どもとはもう会えなかった。私はどこかで、本当に幽霊だったんじゃないかと疑っている。呆れられるだろうからタナッセには言わないけれど。

「そういえば、お前の村の方の幽霊騒ぎはどういう落ちなんだ」
 懐かしの領館が見えてきた頃、ふと思い出したようにタナッセが口にした。
「え? ああ、あれ? ええとね、お祭りの出し物を子どもたちでやることになってたんだけど、白い布をかぶってくるくる回る踊りをすることにしたのよ。それで、大人たちには内緒で練習しようって盛り上がって、夜中にこそこそやってたら幽霊だなんて騒ぎになっちゃったの」
「……それだけか?」
「それだけなの」
「…………くだらない。心底馬鹿馬鹿しい」
「最初は大人って馬鹿だなって面白がってたんだけど、神官が出てきてみんなでお金を集めて……なんて話しになったら怖くなっちゃったのよね」
 続けて三回ほどくだらない、と呟きひとしきり毒づいてからタナッセは聞いてきた。
「ああおい、その神官とやらは結局何者で、何に驚いたんだ?」
「単に噂を聞きつけて、お金になると思ってきた流れ者じゃないかな。森の中って暗いし、みんなで上手くやれば相当怖がらせることができるみたい」
「……つまり、その幽霊はお前か」
「お金を出さされて腹が立ったから、ちょっと脅しただけよ。別に、幽霊ですって自己紹介なんてしてない。でもあんなにびっくりするなんて、私たちには見えない何かが見えてたのかも……」
「無理やり怪談にするな」
 自分の頬に手のひらを当てて、怖いわね、と言ってみたけれどタナッセはまったく相手にしてくれなかった。鹿車が止まり、タナッセに手を引かれて降り立つといつもの玄関扉が目に入った。
 やっと帰ってきたと、心からほっとした。
「真実ってつまらないわね」
 タナッセもそう思ってるだろうと言ってみると、握った手を引かれ、名前を呼ばれた。
「……もう一つ、つまらない真実を明らかにしようと思うのだが」
「何?」
「私がお前の名前を呼んだのはいつだったか、なぜお前があんな話をしたのかと、聞いたな」
「……うん」
「それは……それは、お前が……。それはお前が、私を愛しているからだ」
「そうよ」
 自分でも驚くほどあっさりとその言葉が出た。私にとっては何年も前から自明のことだ。
「……そうか」
「うん」
「そう、か……」
 言いながらだんだんとタナッセの頭が下がっていって、最後は完全に俯いてしまう。
「……すまない」
 あまりに予想通りの言葉が出てきて、思わず笑ってしまった。
「言うと思った」
「……そんなにおかしいか」
「ううん」
 くすくす笑いが止まらず、不機嫌そうなタナッセは下からねめつけてきたけれど、迫力は無かった。
「おかしくないよ」
 答えるとタナッセは笑った。困ったように眉を寄せて、どこか苦しそうに唇を引いて、慎重な微笑みを見せた。久しぶりに奥深くから取り出したようなぎこちない笑みのまま、そっと私を抱き寄せた。