✥  二心異体

「最後の裏切」に至るまでの主人公の心情とその後
ずっと主人公がぶつぶつ言っているだけで、タナッセはほとんど出てきません




 タナッセのことを好きになった最初のきっかけは、婚約を申し込まれたことだ。
 お互い望むものを手に入れると、彼は言った。そして僕が得られるものも。けれども彼は自分が得られるものがなんなのかは言わなかった。ただ婚姻を結ぶ、と言っただけで。
 それまで彼と話した、というか彼が投げつけてくる言葉の数々、特に初めて城に足を踏み入れたとき彼がかけた言葉を僕はちゃんと覚えていた。それらが示すものは彼の提案とは相容れない。どう考えても、タナッセはこの城が嫌いだ。ここから出て行きたくてたまらない。それなのに王配を望むだなんて、そんなこと僕が信じるとでも思っているんだろうか。
 こいつは嘘をついている、それが僕の印象だった。
 でも僕は彼の申し出を呑んだ。僕はどうしても、王になりたかったから。彼が何をしようとしているかはさておき、それなりに役に立ってくれるのは確実だと踏んだ。同時に彼への印象が変わった。
 僕はそれまで、生まれついての貴族であらせる王子殿下は、泥臭い田舎者が不快なんだろう、そしてそんな馬鹿な子どもが玉座を望むだなんて馬鹿なことを言っていると、せせら笑って見下しているんだろう。と、大体そういう風に思ってきた。でもそうじゃ、それだけじゃなかった。無視できない存在になれる。それは歯牙にもかけない相手にかける言葉とは少し趣が異なる。彼も僕と同じように、同じ目線で僕を憎んでいたんだと、そのとき初めて知った。
――へえ。なんだ。そうなんだ。
 憎まれていると気づいてそんな気持ちになるのはずいぶんおかしなことだけど、それで僕は初めて、タナッセという人に興味が湧いた。こいつは大嫌いな相手にそんな提案を出来るくらいには根性があって、そのくらい強く叶えたい望みがあるんだ。ふうん。
 そういう人は嫌いじゃない。全然、嫌いじゃない。
 それが最初のきっかけだったと思う。僕が、彼に特別な感情を抱くことになる、最初のきっかけだった。それから僕が態度を少し改めたからか、タナッセとは少しずつ仲良くなった。なったと思う。一緒に剣の訓練をしたり、同じ本を読んで感想を言い合ったり。解説じみた感想の合間にまぎれる、彼の繊細で感傷的な物の見方がいちいち恥ずかしくて、馬鹿みたいで、つねってやりたいような気持ちになった。そんな話をもっとしてほしいと思った。すばらしく貴族的な態度と、貴族とは思えないほど率直な性格が同居した、複雑で、単純で、分かりやすくて分かりにくい王子様を面白いと思った。
 そうして気がついたときには、僕はタナッセを本気で好きになっていた。自分で思い返してもどうしようもない馬鹿としか思えないんだし、端から見たら本当に滑稽だったろう。そのくらい僕は彼に夢中だった。もしかしてこのまま僕が本当に王になれたとしたら、そうしたらタナッセは王配になってくれるのかも、と考えてしまうほどに。
 タナッセは他に目的があって、僕と婚約だなんて言い出したのだ、それは分かってる。分かってるけど、一人のときに少し夢想するくらいは許して欲しい。けしてそうならないのは知っているのだから、これはただの妄想なんだから。それに、もしかしたらもしかするかもしれない。例えば、タナッセの望みは王配の座にあって初めて叶えられる類のものかもしれない。だから、それで、本当に、僕たちが結婚することもあるのかもしれない。形だけでも伴侶となれたら、もう少し違うものが築けることもあるかもしれない。
 そうして僕は、女になった自分をこっそり思い描いてみたりした。母さんは美人だったから、僕だってそんなに変にはならないと思う、とか。タナッセはきっと可愛い感じの子が好きだろうからあんまり背が伸びないといいな、とか。
 そんな夢想の最後にはいつも同じ質問が待っていた。
 それにしても、タナッセの本当の目的は何だろう?
 その答えが印そのものだなんて、僕に分かろうはずがない。
「……タナッセ」
 呼びかける声は震えて、いかにも弱々しく哀れっぽかった。耳許で心臓がどくどく鳴っている。唇が乾いて、上手く喋れない。たくさん聞きたいことがあって、言いたいことがあるはずなのに、頭の中ではいろんな言葉が断片的に渦巻いているのに、胸が詰まって肺がちゃんと機能しない。
 ローニカだったろうか、勧められたからといってみだりに口にしてはいけないのだと教えてくれたのは。僕は実際そうしてきた。勧められたからといってみだりに口にはしないけれど、でも例えば広間で出される食事は普通に食べる。侍従が持ってきた飲み物も、ためらわずに飲む。それは、信頼しているからだ。それを作った人を、持ってきてくれた人を。
 だからタナッセ付きの衛士が持ってきて、タナッセが飲めと差し出した水も飲んだ。それは、信頼しているからだ。そうじゃなかったら受け取らない。タナッセも、僕を信頼してくれていたのではないだろうか。自分が差し出したものを僕が口にすると。
 ああだけどもちろん、自分が彼に愛されているだなんて思っちゃいなかった。いくら僕が馬鹿で無知でも、好きな人の気持ちくらい察することができる。タナッセが自身の憎しみを持て余すように、時折僕の額をじっと見つめているのはちゃんと知っていた。その目に映る色は簡単には語り尽くせない複雑さが混じり合った重いものだとも。そんな時僕は何も気付かない振りをして、視線から逃れたままでいた。それから横を向いたまま、あるいは顔を伏せたままタナッセに話しかけて、それから彼を見た。そうすると彼はいつも通りの態度を示してくれた。
 僕はそれを、好意だと思ってきた。タナッセの気遣いだと。少なくとも僕が見ている前ではその心を隠しておく配慮をするくらいには、僕に好感を覚えてくれているんだと。
 まったく僕は大馬鹿だ。救えない糞馬鹿だ。別に目的があると勘ぐっているくせに、そんなところだけ自分に都合良く解釈していい気になっていたんだから。
「――となれば、この世界でお前の味方がどこにいる?」
 そうだね。
 僕は、タナッセは味方だと思っていた。味方になってくれると、本気で思ってた。友達だと思ってくれていると思ってた。勝手に思い込んでた。そうなんだ、タナッセは味方じゃなかったんだ。
 どこまで本当だったんだろう。彼が僕に語った言葉の、示した態度のどこまでが本心で、どこからが偽りなんだろう。いつだったか、こうしているのはお互いが望んだ結果だと言ったけれど、それは単に自分に都合の良い位置にいるという意味だったんだろうか。ただ僕を利用したかっただけなんだろうか。
 お前にはいらいらさせられると、タナッセは言った。それはずっとそうだったんだろうか、僕は彼をずっといらいらさせてきたんだろうか。それでもタナッセは我慢して付きあってきたのかな。印のため、そのために。――言ってくれれば良かったのに。そうしたら、協力してもよかったのに。印が欲しいから協力してくれと、彼が一言言ってくれたら僕は、いいよと答えた。玉座に背を向けることになっても、タナッセと本心から向かい合えるなら、それを選んでもよかった。でももちろんタナッセは僕にそんなことを頼んだりはしない。僕と向き合いたいなんて、思いつきもしなかったろう。
 失敗したらどうせ始末しなければならなかった、との言葉をタナッセは否定しなかった。
 だからもういい。殺してしまうかもしれないと、その可能性を飲み込んでなお踏み切ったのなら、僕はタナッセに付き合って殺されてあげてもいい。
 目蓋の裏で陽光が色を変えて薄れていく。耳鳴りが大きくなって、何もかもを呑み込もうとしている。息災であれ、王息殿下。あなたの望みが何もかも叶いますようにと、全てが上手くいきますようにと祈ろう。この世界に僕の祈りが届くような隙間があるとは思えないけれど。
 額に何か暖かいものが触れた気がし、そして闇がやってきた。

 見慣れた天井。丸四ヶ月以上、朝夕目にし見慣れた石の天井は、神の宮殿ではなさそうだった。それとも死者の国とはこんなものだろうか。
「――お目覚めに、なられましたか」
 ローニカの喜びをにじませた気遣わしげな声が耳に届く。いつもの自室は寒くも暑くもなく、暗すぎも明るすぎもしない。柔らかな寝具は体を包み込んで、優しい香りが動くたびに立ち上る。やはり、ただの現実らしかった。
 温かなスープは薄い味付けで、ゆっくりと飲んでいると死ななかったという実感が湧いてきた。僕は生きてる。指先からしっぽまで、全部生きてる。安堵からはほど遠い白けた気分で僕は繰り返した。
「お聞かせください。今回のこと、どなたの仕掛けでございましょうか」
 言葉に詰まった僕を、ローニカは身じろぎもせず待っている。彼の姿勢はそのまま彼の態度だった。背筋の伸びた言葉そのままに。
 ああ僕は殺されかけたんだと、ようやっと呑み込んだ。だからローニカはこんなに厳しい顔をしているんだ。寝起きの鈍い頭にもその事実はよく染み込んだ。黙って首を振る僕を、忠実な侍従は渋々ながら納得した振りをしてくれた。ただ最後にこうも付け加えた、報いが与えられぬのもまたつらいものだと。
 タナッセが苦しむ。それは唐突に湧いた気持ちだった、今まで感じたことのない欲求。名前を付けるならきっと喜びとか、癒しとか、安らぎとか呼ばれるたぐいのものだ。タナッセが苦しんでくれるのは嬉しいと、ずいぶん素直に思っていた。僕を理由にタナッセが苦しんでくれるのなら、少しは僕の苦痛も報われる。何か彼と共有できるものがあるなら、もうそれしかない。
 一人になった部屋で、こわごわ鏡石を覗くと記憶の中よりいくらか痩せた顔が見返した。ローニカが時折唇を湿らせてくれていたそうだけど、五日も何も食べなかったのだから当たり前だった。そして額には奇妙な痣が変わらずある。見られたくないな、と反射的に思う。こんな変な、不細工な顔は見られたくない。
 僕はできることならこの一連の出来事を全て無かったことにしたかった。何もかも忘れてしまいたかった。叶うなら以前のように上辺だけでも友達づきあいがしたかった。どうせ短い時間だ。
 年が明ければ、彼はここから出ていくんだろう。僕の先行きはまったく未定だけれど、一つ分かるのはタナッセとは違う道だということだ。もう今まで通りにはなれないのだから。
 それにしても、どうしてタナッセは僕を助けたんだろう。人を殺してでも印が欲しかったのに、最後の最後になって助けるなんて。僕が告発したら自分がどうなるかぐらい想像つくだろうに、まさか僕は何も言わないと確信していたわけではないだろうに。タナッセの気持ちが分からなかった。
 今までも分かったことなど一度もなかったのかもしれないけれど。僕は彼のことを何も分かってはいなかったんだろうか。少なくともこんなことをするとは分からなかった訳だ。
 もし彼の思惑通りに事が運んでいたら、選定印を無くした僕はやはり城にはいられないんだろうか。単なる農奴の子どもとして、元いた場所に戻されたんだろうか? そうなったらタナッセとは二度と会うこともなく、永遠に道が別たれたんだろう。その程度のものだ。僕が彼との間に築けたと思った友情なんてものは、その程度のものだ。
 それだけタナッセの決意が重かったということなんだろう。僕の命を費やしてでも叶えたい祈りだったということだ。そして僕が彼の祈りを叶えられる存在であることを喜べるほどには、僕も彼のことを愛してはいないということなのかもしれない。ああだけど、それなら最後までやり遂げれば良かったのに。これでは堂々巡りだ。
 そして来訪者を告げる鈴が鳴る。

 黙り込むタナッセを、僕は待っていた。さっきのローニカもそうして僕を待っていたなと、どうでもいいことを思い出す。多分、現実逃避だ。
 タナッセは僕と同じくらい顔色が悪い。僕の記憶では一日ぶりぐらいだけど、実際には彼には五日の猶予があったはずだ。その間、ずっとこんな顔をしていたのだろうか。それとも僕が目を覚ましたと聞いてこんな顔をしているのだろうか。僕が眠りから覚めないことを期待していたのだろうか。告発を受けたくない一心で? 意地悪い期待だ。死んでくれと、ただそう思っていてほしいのは僕の方だ。そうであれば僕の気持ちも区切りがつけたのだろうけれど、僕を助けたら自分が死ぬと分かって助けた人だ。けして僕の期待には応えてくれない人だ。
 それでも友達だと思えたことを嘘にはしたくなかった。だから、あれはなかったことに。あれは一時の気の迷いだと。魔が差したのだと、友人を殺せるはずがないからと言ってくれれば。
 今すぐ出て行くなんて言うとは思ってなかった。だって僕は何もかもなかったことにしたいのに、タナッセが出て行ってしまったらそれではまるで僕が追い出したみたいじゃないか。
 引き留めるために出た言葉はひどいものだった。明らかな悪手だった。言うつもりなんてなかった、本当に、ぜんぜんなかった。でもそれくらいしか思いつかなかった。もしかしたら伝えておきたいという気持ちがあったかもしれない。殺されかけた相手に言うくらいだからこれは本心だと、信じてくれると思ったのかもしれない。
 そのために本当に知りたかったことは分からなくなってしまった。言うべきじゃなかった。

 顔を合わせた瞬間彼は体を反転させ、やって来た方向に去ろうとする。そのあまりにも明確な拒絶に足が竦んだ。一瞬全ての音が消えたような錯覚を覚えて気分が悪くなりそうだ。白昼夢のように何もかもがゆっくりと動く世界で、後ろ姿だけが鮮やかに霞んでいく。凍りついた表情が胸をよぎる。そんな顔は見たくなかったのに。でもきっと僕も同じ表情をしていたのだろう。足も凍りついたように重い。このままここから動けなくなってしまうのではと思うほどに。
「タナッセ」
 小さな言葉を舌に載せると氷が溶けた。
 待って。
 話を聞いて。
 僕は遠くなる背中を追いかけていた。もつれそうな脚で転げるように駆け出して指を伸ばす。怖くて苦しくてたまらないけれど、必死だった。なけなしの勇気を振り絞って、僕はかつての友人の影を追いかけた。
 行かないで。
 話したいことがあるの。
 どうせ年が明けたらいなくなるんだろうに、あと半月もないのに、その短い時間のそのまた短いひとときのいくらか僕にくれてもいいのに。なんでもするなんて、嘘ばかり。タナッセの言葉なんて嘘ばかりだ。
 友達だって、言ったのに。
 途中で諦めようとしたとき、不意に彼が止まった。僕はただ彼の言葉を聞いていた。
――後悔している。助けたことを。
 これも嘘だろうか。それともこれは本当だろうか。助けたことを後悔している。それは、僕が死んでもいいということだ。死んでくれれば良かったということだ。
 友達の死を願う人なんているだろうか。それとも僕たちは友達じゃなかったんだろうか。殺さないほどには好きじゃないということなのか。僕はずっと考えている。僕がいくら考えても分からないのに、タナッセは答えてはくれない。だから一人で答えの出ない問いを眺めている。いや違う、僕が答えを認めたくないだけだ。はっきり言ったじゃないか、後悔していると。あれ以前から、友達だと思っていたのは僕だけだ。
 今からでも僕が死んだら喜んでくれるだろうか。
 馬鹿みたいだ。少し走っただけで息苦しくなって、僕は木陰に隠れて詰まる胸を何とかしようとみっともなく呼吸していた。中庭の緑は鮮やかに息づき、暖かな風が湖を渡って僕の側を通り過ぎていく。どうしてこんなに天気がいいんだろう。
 もう、追いかけるのは止めにしよう。諦めよう、タナッセの全てを。しばらくして体が落ち着いて、頭が冷えて、僕はやっとまともな判断を下した。もっと早くにそうするべきだった。
 最後にもう一つ息を吐いて顔を上げると、緑の気配が一層濃くなった気がした。

 その年の最後の日、僕は散々迷ってから彼に会おうと決めた。
 まだお父さんの話を伝えていないことが気に掛かっていた。聞いてくれるかは分からないけれど、今日が最後の機会なのだし。どうしてあのとき僕を殺さなかったのか、訊ける最後の機会だ。

 自室の扉を背中で閉めて、ずるずるとその場に座り込んだ。扉の向こうから気遣わしげな気配を感じたけれど、今は誰とも何も話したくなかった。
 陰りゆく部屋で僕は一人膝を抱えている。薄闇が重なり室内は時を増すごとに闇に塗り潰されていく。暗くなっていく部屋を眺めながら、タナッセの言葉を思い返していた。結婚してほしいと、彼ははっきり言った。同時にいつか逃げる、とも。
 いつか逃げるけれども、ごまかしではなく、結婚してほしい。
 言っていることがめちゃくちゃだ。でもそれがタナッセという人なんだろう。つきあっている相手がうんざりするほど正直な人。
 どうして僕が告発しなかったのか分からないと、タナッセは言った。僕も、彼がどうして僕を助けたのかいまだに分からない。僕の理由ははっきりと言ったような気がするけど。僕は少しだけ口の端を持ち上げた。タナッセは変だ。僕もおかしいけれど、それ以上に輪をかけておかしい。
 考えてみれば、最初から僕は彼の言葉に振り回されてきた。いつもいつも、どういう意味だろうと、本気だろうかと、考えてきた。タナッセが僕の言葉に悩んでいたとは考えてもみなかった。僕が彼に嘘を吐いたことなんてあったろうか。あの告白だって、すんなり信じてくれたと思っていた。
 そういえば僕は母さんが死んだときも泣かなかった。自分はここで死ぬんだと思ったときも、五日ぶりに目を覚ましたときも泣かなかった。きっと僕は恐ろしく冷たい人間なんだと思う。だから平気でこんなことを思いつく。
 耳鳴りはあの時からずっと続いている。
 彼を振り向かせたいと思っていた。多分無理だろうなと思いながらも、そうなったらいいなと時々考えた。そうなったらいいな。でも無理だろうから、せめて友達でいられたらいいな。ずいぶん遠い昔の話だ。けれども何の間違いか、僕の願いは叶えられたようだった。ただ夢想が現実になるのならその支払いをしなくちゃならないのだとは、迂闊にも思い至らなかった訳だけど。
 何かを犠牲にして、何かを叶える。一つ手に入れるために、一つ失う。たぶんそういうルールなんだろう。僕が鍬を捨ててペンを得たように、故郷を捨てて貴族様の仲間入りをしたように。だとしたら僕は今、何を捨てて何を手に入れようとしてるんだろう。
 僕は彼の申し出を受けた。
 僕は暗くなっていく部屋を見ている。




 雨が降ってきたので、僕は外に出た。理由は自分でもはっきりしない。ただ雨の日なら、という気がする。雨の日ならもしかして、というよく分からない理由だ。
 名前の分からない雑木がてんでばらばらに生えている森の中、根っことぬかるみに気をつけながら僕は進む。ときどき葉に溜まった水が一度に落ちてきてけっこうびっくりするけれど、それくらいだ。地面を優しく叩く水はなにもかも平等に濡らして、世界は紗がかかったように曖昧になる。雨の日特有の土埃の匂いと草木の匂いが入り交じる。しばらくそこいらをうろうろしていたけれど、誰もいないようだった。また追いつけなかった。ふとそんなことを思いつく。たしか、前もそうだった。追いつけなかったんだ。
 雨に煙る木々の向こうに、僕が探すものがあるのだろうか。僕の周囲はさあさあという音しかしない。こうして水に濡れてぼんやり立っているのは、けっこう気持ちが良い。
 ざあざあ。何か言おうとしたのに忘れてしまったので、真似して呟いた。ざあざあ。
「帰るぞ」
 素っ気ない口調に後ろを向くと、優しく手を取られた。手を引っ張られながら僕は歩く。仕方ない。また今度雨が降ったら探してみよう。彼の背中を見ながらそう決意する。
 部屋に戻ると急に寒さを感じて、くしゃみが出た。
「せめて雨避けを着るとか、できないのかお前は」
 彼は小さくため息をついて、濡れて張り付いた服を苦労してひっぺがしている。そう言われるたびに次はちゃんと雨避けを着ようと思っているのだけど、その時になると忘れてしまう。別にわざとやっているわけじゃない。でも濡れるのは好きだ。
 雨の日は水が入らないように全部の窓を閉めるので、部屋の中はずいぶん暗かった。台所の燠火がちろちろと床板を照らす。
 もう一度くしゃみをすると頭から大きな布が降ってきて、それを引き寄せて体にぐるぐる巻いた。あったかい。うとうとしかけると、今度は盛大にひん剥かれた。抗議しようとすると次は乾いた服をかぶせられる。
 後ろに座って僕の髪の毛をごしごししながら、彼が喋り始めた。彼は色々な話をする。独り言なのか、僕に聞かせてるのか、それとも僕を通して誰かに話しかけているのか判断のつかない話し方で。
「新しい継承者が、生まれたそうだ」
 どれにしてもよく分からないことばかり言うので、僕は真面目に聞いていない。
「それでお前の印が消えるわけでは無いが……人前にも多少出やすくはなる。まあ、お前は別に望んでいないかもしれんが」
 いい加減頭が痛いので首を振ると、彼はすんなり手を離した。
「……髪はきちんと伸びるのにな」
 呟いて櫛を当ててくるので、逃げようとすると捕まえられてしまった。髪の毛なんて、梳かさなくたっていいのに。しばらくの間、僕は大人しくして彼のしたいようにさせてあげた。
「お前が目を閉じた時――」
 言いながら彼は僕の肩に頭を乗せた。重い。抱きかかえられているので動けず、床に落ちた水滴を繋げて遊ぶことにした。
「あの時だ。見捨てられたと、思ったよ。そう思った自分に愕然とした。いくらなんでも許されるなどとは考えていなかったはずなのに」
 遠くの水滴を溝に落ちないように苦労して集める。膨らんだ水面には僕の顔が映っていた。
「時々考える。もし過去に戻れるのなら、私はどこを選ぶだろうか、とな」
 彼が腕を伸ばし僕の手を取ったので、水滴で遊ぶのはそこまでになった。背後から丁寧に僕の両手を包んで、ゆっくりと息を吐く気配が耳に伝わってくる。
「あの年の最後の日。あのろくでもない儀式の前。一年前。二年前。そうして考えていくと、正しいのは生まれる前ではないかという気がしてくる」
 僕の手を握って目を閉じる、この姿勢を彼はよくする。なんとなく温かくなるので嫌ではないけど、退屈なのでやめて欲しいと思っている。けれどもこれだけは譲れないのだと彼は言って、暇さえあればそうしてくる。
「ああ、いい。お前には分からんだろうからな」
 不満を言おうかと振り向くと、また見当違いのことを言われた。
「……明日は、畑を直さなければならんだろうな」
 僕の髪の毛を撫でつけながら彼が呟く。土いじりは好きなので異存は無い。
「……そもそも、私と出会ったのがお前の運の尽きだったな」
 雨足が強まったのか屋根がずいぶん騒がしく、囁き声は空耳だったかのように残響を残して雨音と溶けていった。