✥  一日三食、読み聞かせ

タナッセ愛情B後、領地にて。
一日限定で手が不自由なレハトをタナッセが介護する話




「ああまったく、お前の馬鹿さ加減にはほとほと呆れる。見覚えのないものには不用意に手を出さないのが普通だろう」
「悪かったわよ、考えなしに行動してみんなに迷惑かけました、ごめんなさい」
 領主館で雇っている庭師は専属ではないため、彼は他で仕事をしてから館に来ることもある。そうして持ち込まれた樹木がやっかいな代物だということもあると、タナッセは言われずとも知っていたがレハトはそうではなかった。自生している植物に対しては慎重だったが、貴族の館に持ち込まれるようなものは皆安全だろうと、妙な確信を持っていた。
 毒のある葉を生やすそれをよそで引き抜き、所用を片づけるつもりで寄った領主館の片隅にそれを一時置き、庭師が一時目を離したわずかな時間に興味を引かれたレハトが触り倒し、このざまだ。
「お前の軽はずみな行動のおかげで今日の予定はすべて台無しだ、わかっているのか。大騒ぎして皆にも心配を掛けて」
「だから謝ったじゃない、心配させてごめんなさいって。明日には腫れも引くってお医者様も仰ってたでしょ、何回言うのよ」
 手の痺れは一時的なもので、一日もすれば良くなると医師はこともなげに言っていた。まれに出る患者だが、あれに触るのは物のわからない子どもが大半だとも。それがよりにもよって領主としてこの地に越してきたばかりの貴族の妻だなどとは、ずいぶん物知らずだと話が広がっていることだろう。
 寵愛者様は農民の出だと伺っていたのですが、と医師にいくらか苦笑して続けられ、タナッセは顔から火を吹く思いで、面目ない、と呟くのがやっとだった。
 拝命して日が浅く、地元の民の信頼はまだ十分とはいえない。そんな時期に余計侮られるようなしくじりを犯した彼女への苛立ちと、心配と安堵した反動でタナッセの語気は荒くなった。
「私が言っているのはお前の粗忽さだ、なんだって触るなと書いてあるものにわざわざ触る、馬鹿か」
「見えなかったって言ったでしょ! 変わった形の葉っぱしてたし、初めて見る木だったから、珍しいなって……思って……っていうか、書いてあっても読める人なんてほとんどいないんじゃないの」
「……あの縄の巻き方をしておけば他の者は触らないと、庭師は言っていたぞ」
「そ、それって地方ルールよ。私のとこだと違いました」
「ともかく大したことはないようで、安心いたしました。さ、そろそろ昼食のお時間ですから、お二人ともお支度のほどを」
 言い募ろうと口を開いたタナッセの隙をついて、侍従が素早く割り込んだ。やり場のなくなった言葉は飲み込んで、タナッセはわかったと渋々返答した。レハトがあからさまにほっとした顔を見せて、それもまた気にくわない。
「……とにかく今日は何もするな。一切、何もだ、わかったな」
「大げさ」
「手首から先がまともに動かないというのは十分大ごとだ、馬鹿者! これ以上面倒を増やすな」
「はぁい……」いくらか消沈して腑抜けた返事をした後、床を見つめながら真剣な表情で歩くレハトが呟く。「……手が使えないと、歩くのもバランスが取りづらいのね。発見」
「……おい、そういえばお前どうやって食べるんだ」
「…………。どうしよう」


「美味しい」
「それはようございました。珍しく魚が手に入りましたので、お好きな蒸し煮に」
 小骨まで丁寧に取り除いた身を手ずから食べさせているのは、レハトお気に入りの侍従だ。城に居た頃に仕えられていた人物に、どことなく似ているらしい。タナッセにはあまり良い思い出のない人物だ。はっきり相手を認識したのはあの射殺されそうな冷たい眼差しによってで、その後も顔を合わせる機会があるたびに、一応は隠しているらしい相手の本心がちらちらと見え隠れした。それはつまり、主人にとって良い侍従だったということだろう。
 そして彼もまた忠実な侍従らしく、次はパン、次はスープを一口、と楽しそうに指示するレハトに、はいはいと微笑みながら応えている。
 ……なんだろう、この気持ちは。
 タナッセはなんとなく釈然としないような、ぼんやりとした胸のつかえを無視するように努め、ことさら丁寧な所作で食事を片づけた。
 匙を構える侍従を見上げて、レハトはくすぐったそうにふわりと微笑む。
「なんだか、小さい頃に戻ったみたい」
「そうでございますか。失礼ながら、私も息子にこうして食事させたのを思い出していましたよ」
 二人は見つめ合い、幸福な共犯者のように笑い合っている。


「いいから今日は大人しく本でも読んでいろ」
「そんなこと言ったって、ページがめくれないもの」
 昼食の後、平衡感覚を養うために館の中を歩いてくると言い出したレハトの首根っこを引っつかみ、タナッセは鼻から大きく息をついた。何もするなと言ったのをまるで聞いていない。
「侍従にやらせればいいだろう」
 先ほどもそうしていたろ、と胸の内でだけ付け加えれば、レハトはもの言いたげな半眼であご先を上げてみせた。
「……なんだその目は」
「城に来たばかりの頃に、さ」一拍おいて視線をはずしながらレハトは続ける。「本を朗読しろとか絡んできた人がいたなー、と思って。さ」
 なぜ今そんな話が出てきたのかはわからなかったが、相手が不機嫌になっているのはよく感じられた。
「私、文字が読めるようになったばかりだったのに、感情がこもってないとか、犬に読ませた方がましとか、えっらそうに言われて、すっごく悲しかったなーって」
 ちらちらとタナッセを見ながら、レハトは白々しく眉を寄せて大きく息を吐く。
「そこまで言うくらいだもの、きっとその人は朗読会で聴衆が感激のあまり泣き出して婦女子が気絶するほど情感たっぷりに読めるんだろうなあーすごいなー聞いてみたいなあーって。思ったのを思い出したの」
「……何だその、感激のあまり泣き出し気絶する婦女子とは。どういう表現だ」
 無駄な抵抗だとはわかってはいたが、気を逸らせないかとタナッセは思いついたことを一応口にしてみた。
「その役は私がやってもいいよ。だから朗読してくれる?」
 ころりと態度を変え、正反対の表情を取り出してレハトは首を傾げてみせた。
「…………わかった。読んでやる。言っておくが、気絶はせんでいいからな」
「え、ほんと? ほんとに? じゃあタナッセの気が変わらない内に」
 どうにも遊ばれているような気がしてならなくて、長々とため息をつき渋々首肯すれば、レハトは思いの外大げさに喜んだ。
「今読んでるのが向こうの居間にあるから、持ってきてくれる」
 レハトは振り向きながら最後の言葉を侍従に向けて言った。何の気なしにそれを見送ろうとしていたタナッセは、啓示を受けた人のようにぎくりと体を固め次の瞬間立ち上がって叫んでいた。
「いや、まて! いい、私が行こう」
「え、どうして」
「いい。そ、そんなことで人の手を煩わせるな」
「タナッセの手を煩わせるのはいいの……?」
 いくらか困惑したように呟く声を背に、タナッセは侍従を制して部屋を飛び出た。流れからして間違いなくろくでもないものだ。大丈夫だとは思う。だが万が一ということもあると、上梓したばかりの著書を思い浮かべ頭を振った。その場合は、何が何でも別の本と取り替えねば。
 幸いなことに最悪の予想は外れた。しかしそこにあったのは手に取るのも気恥ずかしくなるような、流行の恋愛小説だった。これが最近の話題作かと、一度ぱらぱらとめくってみたはもののすぐに忘れてしまった代物だ。もしかすると、自著よりたちが悪いかもしれない。
「なんだってこんなものを……」
 本を手にうんざりしながら戻ると、当の本人はごく当然といった涼しい表情で、長椅子に背を預けている。
「だって、流行り物は一応目を通しておかないと社交の場で困るもの」
「私は困ったことなぞない。第一必ず流行の話をせねばならん訳でもあるまいに」
「タナッセが、そんなもの読む価値ないから読んでない、て言ってもなんてことないけど、私が読んでなかったら馬鹿にされるだけだもの。あら、まあ、そうですのお、とか言われたわよ」
「……お前は出てきた経緯が特殊だからな、粗探ししようと手ぐすね引いている輩も大勢いたろう。ああ私がその一人どころか筆頭だったというのは否定しない、だがそれも全て過去の話だ。いまだにそんな態度を崩さない奴なぞ阿呆の極みだ、放っておけ。だからこれは読まずとも――」
「もう、いいから読んでよ、続きが気になるんだから」
「……結局読みたいのか」
「ええとね、主人公は一人旅の冒険者だったんだけど、海の向こうから攻めてきた巨大な怪物たち相手に、人間の軍を率いて戦うことになるの。でね、その名状しがたき冒涜的な生き物たちの女王様がすごい美少女で、あ、女王様は生まれたときから女だから少女なんだって。それで、主人公と恋に落ちちゃうの。でも種族は越えられないし、敵同士だから」
「もういい」
 タナッセは呻いて本を開き、栞を探した。レハトは笑顔のまま長椅子を滑って、隣にぴったりと寄り添った。

「――そのことをあまりに恐れそのことばかり考えていたために、いつしか私はそれを望んでいるような錯覚すら覚えていた。しかし裏切りの熱は私の夢想など遥か及ばなかった。絶望は燎原の火のように咽を燃やし胸を焦がし全身を焼く。やはり彼女は私を裏切っていたのだ、和平の道などと口先だけの甘言を弄し騙し討ちにする気だったのだ。獣め! 醜い、薄汚い、異形の化け物の娘! なぜあんな耳障りの良いだけの言葉など私は信じたのだ! ――こいつは阿呆か、なぜいきなりそうなる。確認を取ってからでも遅くはないだろうに」
「タナッセが言うと、説得力あるね」
「どういう意味だ」
 睨みつける視線を黙殺して、レハトは平然としている。
「別に」
「おい」
「続き読んでよ」
「……」
 開いた紙面から目を外さないレハトの横顔をねめつけて視線を戻し、タナッセは小さく息を吐いた。次の行は特に読みづらい。
「……それでも」私は朗読しているだけだ、とタナッセは自分に強く言い聞かせた。「それでも目蓋の裏に浮かぶは、胸の奥に明かりを灯すのは、私の運命を握るのは、彼女ただ一人だった。どうして彼女を想わずにいられようか? あの人ならざる身に囚われし、孤独な魂を私は愛していた」
 無感動な顔と平坦な声をどうにか保って、タナッセはその大仰な文章を朗読した。レハトはまばたきもせずその姿を見つめ、鼓膜を震わすその振動に神経を集中していた。
「……」
 かすかに漏れ聞こえた吐息を、タナッセは聞こえなかったことにした。


「ああいや、夕食は部屋に運んでくれ。世話は無用だ」
 時間を告げに来た侍従にタナッセはそう言いつけた。レハトがもの言いたげに彼を見たが、タナッセは気まずそうに目を逸らしただけだった。昼食の光景がどうにも不快だったとは言えないが、かといって自ら手を出す上手い言い訳も思いつかない。そうしている間にも小間使いたちは什器を、料理を運び、支度は整えられていく。最後に食前酒をカップに注いで、彼らは皆退室していった。
 無言のまま、タナッセはレハトのために椅子を引いてやり、隣に座った。既にいくらか後悔し始めていた。
「……タナッセが食べさせてくれるの?」
「な、にが食べたいか言え」
 裏返りかけた声を抑えて問えば、レハトは戸惑いを隠しながら返答した。
「……ええと。じゃあ……スープを……」
 金色の澄んだスープに色鮮やかな野菜が控えめに浮いている。匙ですくい、口元まで持っていく。ただそれだけだ。そもそも今さら何を恥ずかしがることがあるのかと、タナッセは自分に問いかけたが答えは出なかった。
 手を止める位置が少し遠かったせいか、レハトは軽く頭を下げて差し出された匙に唇を寄せた。まるで罪人に施しを与えるような格好になってしまったことに気付いたのはその後だ。
「……タナッセ」
「す、少し遠かったな。すまん」
「スプーンは縦にしてくれると、食べやすい」
「……失礼した」
 レハトはふと顔を逸らして忘れられかけたカップを見た。
「そういえばお酒忘れてたね。今さらだけど、飲もうか。……飲ませてくれる?」
「あ、ああ。もちろん」
 これなら大丈夫だろうと高をくくっていたが、考えていたようには上手くいかない。力加減か距離感を誤ったのか、レハトの前歯に思い切りカップをあててしまう。
「す、すまん。痛かったか?」
「うう」
 普通なら手で押さえる場面なのだろうが、それもできずにレハトは口を閉じて痛みにじっと耐えた。
「すまない……やはり侍従に任せた方がよかったな。今からでも、代わるか」
「そうやって人任せにすると上達しないよ。もうちょっと頑張って」
「こんな物が上手くなってもどうだという気がするが……まあ、お前がそう言うのなら」
 侍従に代わってくれと言われなかったことに、いくらか安堵したことを隠しながら、細心の注意を払って口にカップをあててやった。今度は離す間がわからずためらっていると、溺れる! と叫ばれ慌ててカップを遠ざけた。我ながら下手くそだな、とタナッセは顔には出さず思い、レハトの口元を拭ってやった。
 肉は、ソースにさえ気をつければ大したことはない。それも皿ごと持っていってしまえば、万一垂れてもなんとかなる。見栄えはこの際二の次だ。問題は、パンだ。普通これはちぎって、手で食べるものだ。昼食のとき、侍従もそうしてレハトの口に直接持っていっていた。
 食べやすいようにと、小さめにちぎってからやっとタナッセはある事実に気付いた。大きい方が放り込みやすい。つまり、パンの欠片が小さいほど、接触事故が起こりやすい。いやいや自分は決してそんな意図はなかった、これは全面的に親切心の顕れだ。女性が大口を開けるのも、頬に食べ物を詰まらせている様も、みっともないにも程がある。しかしわざわざフォークに刺して運ぶというのも意識しすぎというか……。
「タナッセー?」レハトは不思議そうにタナッセの手元を覗いた。彼はばらばらになったパンの破片を手に、固まっている。「考え事は、食事の後にしてよ」
「あ……いや、すまん。ええと……」
 パンだったな、とわざとらしく呟きながら新しくちぎって差し出すと、レハトは軽く眉を寄せた。
「そこの惨殺死体みたいなパンはどうするの」
「……少々考え事をして無駄にしてしまった、失礼した、気にすることはない。あ、後で処分する」
「元農民としては、食べ物を無駄にするのはすごく罪悪感があるのだけど」
「…………私が食べよう」
「ええ? 私のパンなのに。もう、いいから食べさせてよ」
 これ以上反論すれば、藪をつつくことになりかねない。お前がやれと言ったんだからな、と口にはせず叫んで、タナッセは指でつまめるような小さな欠片を口もとに差し出した。彼女が軽く口を開いて受け止め、指先を唇の内側がかすめていく。
「……ん、うまい」
 パンを飲み込み、レハトは満足そうに何度も頷いている。けれどもすぐにその笑みを引っ込めて、なにやら考える顔つきになる。
「……わかった」
 瞳だけ動かして夫に送る視線は、幾分非難の色がある。
「な、何がだ」
「さっき、いやらしいこと考えてたでしょう」
「はあ!? か、か、考えとらんわ、貴様突然何を言い出す」
「もータナッセはすぐそうなんだから。そんなことばっかり考えてるの?」
「ひっ、人の心中を忖度して憶測を根拠に非難するなぞ下賤な性根もあったものだ、侮辱にもほどがあるぞ、そんなことばかり考えているとはお前のことではないのか」
「……ふーん……」
 冷めた目に見返されて、タナッセは言葉を詰まらせた。いくら図星を突かれて慌てたといっても明らかに言い過ぎだ。
「あ……いや……その。すまない。その、だ……その……お、お前が、嫌がるかと……」
「ちょっと触っちゃうくらいを? どうして嫌がるのよ、変なの。タナッセってよくわからないところで遠慮するよね」
「そ、そうだろうか……」
「でも私がやめてって言ってもやめてくれないときあるよね。その匙加減って、どう決めてるの?」
「そういう、話を、食卓でするな!」
 パンを引きむしりながらタナッセは叫んで、レハトは首を縮こませた。


「ひどい一日だった……」
 夜着に着替えて、タナッセは寝室で一人ごちた。そもそも世話は全て侍従に任せて、放っておけばここまで疲れなかったのだということは自分でもわかっているのだが。
 扉の開閉だけ人に任せて、同じく着替えを済ませたレハトが一人寝室に入ってきた。貴人、特に女性は着替えや着付けを人に手伝わせるのは日常であるために、タナッセもそのことに特筆するような感情を抱きはしなかった。そうでなかったとしても、着替えを手伝うとは言い出せなかったろうが。
「あ」
 燭台の明かりしかない室内は当然薄暗い。そのためか、平衡感覚の問題か、レハトは何もない床に足を取られた。タナッセは彼にしてはずいぶん素早く行動した。近くにおり、レハトに注視していたためもあって二次被害を起こさずに済んだ。
「び、びっくりした……やっぱり散歩しておけば良かったかな」
 肝を冷やしたのはタナッセも同じだった。レハトを支え、うつむいて顔に掛かる髪を直してやりながらそっと息を吐く。
「平気か? どこか打たなかったか」
「あ、うん。なんともない、ありがとう」
 手をつこうとしたのか、レハトの腕が揺れたが力の行き場はなく、ふらりと揺れただけだった。
「不便」顔をしかめてレハトが呟く。
「……大丈夫か?」
「どこも打ってないよ」
 先程よりも深刻そうな声を不思議に思い、レハトが顔を上げる。
「いや、手は」
「ああ、うん……それは平気だけど、なんだか一日ですごく疲れた。何にもしてないんだけど」
「気をつかったんだろう。その程度で済んで良かった。次からはわからない物には触るなよ。いいか、もしもこれがだな……」
「もうしませんてば。……ねえ、これ本当にすごく不便よ、タナッセも今度見かけたら触ってみるといいよ」
 くどくどしく心得を言い聞かせようとする言葉を遮って、レハトはタナッセの胸を頭で突いた。大真面目な顔ながら、目が笑っているのは隠しようもない。本当に反省しているのかと、僅かに疑いながらもタナッセはつき合ってやった。
「それでお前が私を介抱するのか?」
「そうよ。上手に食べさせてあげるし、なんなら着替えも手伝ってあげるよ。朗読する本は私が選ぶけど」
 どんな想像をしたのか、いくらか不安になるような笑みをレハトは浮かべた。
「運んでやるから、もう休め。起きたら良くなっているだろうさ」
 抱え上げられて、レハトは一瞬驚いてすぐに笑顔になった。
「運んであげるのはちょっと無理だけど」
「お前が、私を? できたとしてもそれはお断りだ」
 寝台に降ろして、横たえてやろうとタナッセが背に手をかけると、レハトは不自然に体重をかけてきた。
「おい?」
「……ねえ、まだ怒ってる?」
「え? いや、そんなことは……ただ、もうするなよ。いい加減聞き飽きたろうが」
「じゃあ……お昼のことも怒ってない?」
 タナッセの胸に頭をつけて顔を伏せたまま、レハトが小声で尋ねた。
「……一つ聞きたいんだがな、私が怒るようなことをしてるという自覚をもって、やっていたのか? あれは?」
 自分はそんなにわかりやすい態度だったかと恥ずかしく思ったのも一瞬で、気になったのはレハトの真意だ。まさかそういう意図があって、侍従にやらせていたのだろうか。
「そ、そんなわけ無いでしょ。ただタナッセ不機嫌になってたみたいだし、夕食は自分がやるとか言い出すから、そんなに嫌だったのかなって……」
「………………。まあ……目に楽しい光景だということは、ないな。だがその体では、手伝いは不可欠だろう。お前にやましい気持ちが無いのなら、堂々としていればいいことではないのか」
 婉曲的に不快感を表明しながらも、仕方ないことだとタナッセは言ったつもりだった。レハトはそんなに怒ると思わなかった、とか言ってくれれば、とか呟き、動かない手でぱたぱたと、不器用にタナッセの体を叩いた。
「……気にしているのはお前の方ではないのか」
 沈黙が返って来、タナッセはとりあえずその姿勢のまま軽く抱いた。
「…………やだ……」
「い、いやか?」
 突然の拒否にタナッセは手を離しかけ、レハトの体が不安定に揺れた。慌てて支えると、彼女は夫の言葉に驚いたようだった。
「えっ、違うよ。私がタナッセのこと抱きしめられないのが、不公平で、やだなって」
「そ……」
 馬鹿なことを、と言いかけてタナッセは思い直した。朗読してやったときの様子からして、彼女もああいう甘ったるい言葉ややり取りに憧れがあるのだろう。
「そ……その……。そのぶん、私が抱きしめてやる」
 まじまじとタナッセの横顔を検分してから、レハトはどこか困ったような笑みを作った。それからタナッセが虚を突かれたことに、お願いします、と恥ずかしそうに囁いた。


「……ッセ。タナッセ。おはよう」
 耳元で呼ぶ声に目を開けると、眼前にレハトの笑顔があった。
「おはよう」
 ぎょっとして体を起こしながら離れようとしたが上手くいかなった。レハトは既に身支度を済ませた格好で、タナッセに半身を乗せてのぞき込んでいた。
「あ……ああ。おはよう。おい、なんだ。少し離れろ。……調子はどうだ」
 レハトは素直に体をどかし、寝台の上で居住まいを正した。
「うーん。指は少しずつ動くみたい。でも握力はまだちゃんと戻らないから、朝ご飯はお願いしたいかな」
「ああ。わかった。……おい、だから少し離れろ」
 体を起こしかけたタナッセに、レハトは覆い被さってくる。
「ねえ? 昨日、どうだったか聞いてもいい?」
「昨日? なんだ、どれのことを言っている」
「ええと、その……だからね。私、今ちょっと手が不自由じゃない? それで、昨日の……夜はちょっとほら、いつもと違う感じだったじゃない? それで、どうだった?」
 何のことを言っているのかわかるにつれ、タナッセの表情はなんとも言えないものになった。理解が遅れたために怒るタイミングを逃してしまい、呆れながら注意するにとどまった。
「お前な……朝から何を言っている。馬鹿か」
「昨日疲れて寝ちゃって、聞きそびれちゃったから。どうだった? 面白かった?」
 ねえねえ、とレハトはしつこく迫ってくる。答えなければ解放してくれなさそうだ。
「……特に面白くはないな」
「なんだ、そう。……そうなの」
 途端つまらなさそうに身を引くレハトに、今度はタナッセの方が身を乗り出す。
「何だその含みのある物言いは」
「ううん、もしかしたらタナッセは、結構喜ぶんじゃないかなって思ってたから」
「お前……私をなんだと思ってるんだ。そういう趣味があるとでも?」
「違ったみたい。ちょっとがっかり」
「……! え、な、お、おお前今……い、いや。私は、お前が……その、の、望む……なら……」
「え、私が楽しかったとかそういうことじゃなくて……ほら、新鮮さがなくなった時とか? のために? そういうのがあったほうがいいのかな、って……」
「…………私は時々、お前が本当にわからなくなる。どういう精神構造をしているんだ」
 ちょっと思いついただけ、と言いながら無意味に倒れかかってくる彼女を押し退け、タナッセはなんとか寝台から逃れた。

 朝食を前に、夫婦は並んで腰を下ろした。タナッセは大きすぎず、小さすぎないサイズのパンをレハトの口に運び、カップを慎重に唇に当ててやる。
 玉子に匙を立てると、温かな液体がとろりと溢れて匙を曇らせた。なぜだかそれに、昨夜の情交が思い出されてタナッセは一人赤面した。これではレハトが呆れるのも無理もない。彼女は何も気づかない様子で、黙って夫を待っている。単に、口にしない方が賢明だと結論づけただけかもしれない。
 タナッセは妻の口元まで匙を運んだ。鮮やかに汚れた白い身を、レハトは嬉しそうに平らげた。