✥  臆病者達の恋[5]

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 やたらと文鎮のある屋敷だと思っていたが、それが真実必需品だということはすぐに知れた。
「レハトはどうしている?」
 強風でまき散らされた紙束を整理しながら側の侍従に問う。大した書類でなくて助かった。
「湖かと」
「……そうか」書類を引き出しに片付けてふと息を吐く。
 レハトの体調は一進一退、といったところだった。
 越してきたばかりの頃、海ばかり見ているのが心配であまり行くなと言うと、本当に行かなくなった。露台でぼんやりしているのを見かけ、風が強いから部屋に入れといってからは、自室で本を広げてばかりいた。頁をめくったところを見たことはない。
 私が追い詰めているのかもしれないと、静養中なのだから好きにしろと言い、なるべく会わないようにすれば今度は日に何度もレハトが探していたと侍従から告げられる。
 そして顔を合わせるとなんでもないと首を振るばかりだ。
 なにかしているほうがいいかもしれないと、執政の仕事を少しばかり手伝わせると、寵愛者の名にふさわしい仕事ぶりを見せた。それからはいくらかまともな反応が返ってくるようになった。
 私が意図的に設けた休日には、近くの湖の前で飽きずにいつまでも座っている。けれども湖を見ていてるわけではないのだろう。


「レハト」
 顔を上げてこちらを見る顔は、どこか幼い。
「お前はよくよくここに来ているな。何がそんなに面白い」
 湖の周囲はあまり手入れされてない雑木林と、色のはげかけた長椅子があるくらいだ。レハトは草の上に座り込んで風に吹かれていた。
「ん……」
 開きかけた口を閉じて、しばらく黙る。言葉と言葉の間の短い沈黙がレハトに必要なものだと気づいたのは最近だ。黙って待っているとぽつりと返事がある。
「飽きないから、かな」
 それだけ答えるとレハトはまた口を閉ざし、私も言うことがなくて二人並んで黙って湖を見る。そういえばいつかもこんなことがあった。まだ城にいた頃、まだレハトが健康だった頃。それともそう思うのはただ自分が気づかなかっただけか、あるいはそう思いたかったからか。
「ごめんね」
 正面を向いたまま、その言葉だけがぽつんと置かれる。そんなふうに時折思い出したように謝られるたび、レハトを裏切っているような奇妙な気分になる。お前が私に謝ることなど何もないのに。
「私に謝ることなどなにもないと言っているだろう」
「迷惑かけてるの分かってる。……謝られて困るのも分かってる。けど、どうしたらいいのか思いつかない」
 髪を風になぶられるままに抑揚なくレハトは話す。
「迷惑など……私は」「……私は、寵愛者は皆強いものだと簡単に考えていた。だからきっとお前もそうなのだろうと勝手に思い込んでいた」
「強い人はみんな強くなきゃいけないから強くなっただけだよ」
「レハト?」
 固い口調に隣を見るが、レハトはただ前だけを見ていた。
「私も強くなきゃいけなかったのに、そうしなきゃいけなかったのに、できなくて、だからみんなに迷惑かけた。だから約束も守れなかった。私は……」
「おいレハト、落ち着け」レハトはひどく苦しそうに矢継ぎ早に言葉を継ぐ。
「……こうやってまた迷惑かけてるんだね」
「またお前はそうやって……一人で勝手に納得して、話を終わらせるな」
「ごめんなさい」
 風が木々を揺らし葉を震わせて耳を鳴らす。話すことがためらわれるような騒音。
「……そのうち、もっと内陸の屋敷に越そう。ここは海が近すぎる。風も強いし、体に障る」
「……私、ここがいい」
「なぜだ? 特に何があるわけでもないだろうに」
「……海が近くて、風が強いから」
 心底意外に思い顔を覗き込むと困ったようにレハトが言う。
 説得しようとしない方がいいのだろうかと逡巡しながら心掛かりを口にする。
「……昔……子どもの頃だ。魔の草原を見たことがある。母上と、ヴァイルと共に。そのときヴァイルは草原からの魔の声に引かれ、熱を出して倒れたのだ。なんというか……異様な風体で草原に行こうと泣きわめいて。神官は寵愛者故強く引かれるのかもしれないと、話していた。お前も……よく海を見ていたようだし……」
「僕はヴァイルとは違う」
 強ばった声を出してレハトは首を垂れる。奴の話が出ると、子ども時代の自称が出てくるのは直らない。
「私の印はなんのためにあったんだろう」
 長い沈黙の後、伏せたままささやかれた疑問はこちらに聞かすためのものではないことはわかった。聞こえなかったふりをしてもレハトは気づきもしなかったろう。
 成人してからレハトが前髪を下ろすようになった理由を考えなかったわけではない。
 何か言いたかった。レハトが、あるいは自分が多少なりとも納得できるような、心を軽くできるような言葉が、何か。
 結局私は何も言えなかった。適当な慰めの言葉も、強い否定も、肯定も。


 しばらくそうして風に吹かれてから私は決意を固める。漠然と思い描いていたことをはっきりと形にし、口に出す決心をする.
「レハト……その。……ずっと考えていたことがある」
 何度も唇をしめらせ、言うべきことを胸中でくり返す。これはレハトの求める答えではないし、特別な意図があるわけでもない。だからこれほど緊張する必要はない、それでもやたらと口が渇いて手に汗をかいている。
「これは無論強制ではないし、お前が望まぬなら聞かなかったことにしてくれてかまわない。ただ、この話は私にとってもお前にとっても最も良い提案だと、私は考えている」
 ちらりとレハトを見ると、何が言いたいのか分からない、とでも言いたげにぼんやりとした表情のままこちらを見上げている。肝心なことを言っていなかった。
「つまり?」
「つ、つまり、だな。……つまり、私はお前に結婚を申し込もうと思う」
 一度に言い切って隣を窺うと、うっかり苦いものでも口にしてしまったように軽く眉根を寄せ困惑した表情を向けられて。
「……タナッセ、何考えてるの」
「別にそう難しく考える程のことでもない。ただ、私は……お前がここにいるべき、正当な理由がいると思ったのだ。いささか外聞が悪いというのもある、その、私が寵愛者を囲い者にしていると領内で噂になっているらしいしな。ああ、それはお前が気にすることはない。ただの噂だ、くだらん」
「ああ、えーと、そう、そうだ、年齢的なこともある。私もそろそろ結婚のひとつでもしておかなければ体裁が悪いからな。かといって適当な相手を見繕うのも面倒だ。お前なら、その……その……つまり……で、その、どうなんだ。形だけでも私と婚姻なぞごめんだというならそれでもいいが。いや別に今すぐ返事しろと言うわけではないが」
「私のためにそこまですることないよ」
 レハトはひどく落ち着き断固とした声を出す。
「別にお前のためだけではないと言っているだろう、これは、つまり、世のためでもある、お前の立場上、そこいらの野に放すわけにもいかんだろうが。その点ランテに取り込まれておけば皆一安心だろうよ。まあ予定調和と陰口も叩かれるだろうが、それは致し方がない。それとも城に戻りたいか」
「お城には、もう戻れないよ。……最初から戻る場所じゃなかっただけだけど」
 そうしてレハトは押し黙る。私も言うべきことは全て言ってしまったのでレハトを待つほかなかった。
「タナッセ、これあげるね」
 長い沈黙の後レハトは胸元から鎖を引っ張り出した。
「おび物交換するでしょう。私が持ってるの、これくらいしかないし」
しゃらりと鎖が鳴って、簡素な首飾りがかけられる。揺れる石はレハトの体温が移り温かった。いつか広場で吟遊詩人の歌を聴いたのはずいぶん遠い昔のようだ。
「……いいのか」
 お前が願ったことは。
「タナッセの恋が叶いますように」
「なんだと?」
「いつかそういうときが来るかもしれないじゃない」
 ともすれば見逃してしまいそうなほどささやかにレハトが微笑み、息を殺して見つめる。夜明けの夢より儚くともそれは笑みだ。
「心から願えば叶えてくれるかもしれないよ。私はきっと真剣さが足りなかったんだろうね」
「……お前たちは、うまくいっていると思っていたのだがな」
「たち? 誰?」
「お前とヴァイルだ。その……いずれ結婚するのだろうと思っていた。……おい、口は閉じていたほうが賢明に見えるぞ」
「タナッセ、なんか誤解してるよ」
 当惑して自分の髪をやたらに引っ張りながらレハトがごにょごにょと言いつのる。
「僕とヴァイルは、そういうんじゃないよ。ヴァイルも、そんなこと考えてないと思うよ」
「そうか……?」
「僕たちは……ええと……ううん。いいんだ、もう。うん」
「一人で納得するなと言っただろう」
「……印さえなければ、と思ってたけど、印があれば上手くいくわけじゃないんだよね。僕はそんなことも分かってなかったんだ」
「……?」
「いいの、もう戻ろう」
 レハトは立ち上がりそそくさと歩き出す。その不明瞭な話の意味を理解しようと、言葉を反芻しながら後を追った。
 澄んだ石は美しかった。日にかざすと所々に銀を散らしたような光があり、その夜空にまたたく星のような煌めきを見覚えがあると思ったとき、同時に答えが浮かんだ。それはレハトの瞳だ。





 日の色は変わり続ける、答えも結論も何一つなくとも日々は移ろいゆく。海だけはいつまでも変わらない。母はこの景色を見ながら育った。私はその逆を行こうとしている。
「レハトはどうしている?」
「湖に行くと、先ほど」
「……またか」
 ぶつぶつと言いながらも結局迎えに行くのは私の役目なのかと半ば諦めている。

「こんな場所で何をしている。明日は式だぞ、風邪でも引いたらどうする。鼻水を垂らした花嫁なぞ私はお断りだぞ」
「タナッセ」
 レハトは相変わらず直接草の上に平気で座り込んでいた。
 風が草を踊らせ、さわさわと頼りない音楽を広げる。
「明日……さあ……」
 言いよどむレハトの表情は髪に隠れて見えなかった。
「……ヴァイル、来る?」
「……臣下の結婚式に来る王があるか。ヴァイルは来ない」
「そ、か……」伏せかけた顔をあげ、乱暴に頭を振ってレハトは真上を見る。「選定印って、どうして額にあるのかな?」射抜くような瞳を天頂に定めてレハトが言う。「アネキウスから見えるようにかな?」
 私は何も言わなかった。言わなくてもいいと思った。

 日が陰ってきたからとしつこくせかしてやってレハトが重い腰を上げる。道すがらふと思い出したように話しかけてきた。
「明日結婚式だね」
「ああ」
「誓いのキス、するの」
「……しなくちゃならんだろうな」
「今練習しておく?」
「………………そうだな」
 レハトは気負いもなくまっすぐにこちらを見上げてくる。式の手順を思い返しながら肩に手をやると、あまりの薄さに戸惑った。
 屈んで顔を近づけるとレハトがそっと目蓋を閉じた。小さな唇が目の前にある。はたしてこれは罪ではないのだろうかと妙な考えが頭をよぎる。
 初めて触れた他人の唇は水菓子より柔らかく、戸惑うほど抵抗感がなかった。すぐさま体を離すとレハトの睫毛が震えて瞳が覗く。その透明な瞳に映るものを知ろうと覗き込んでいる自分に気づく。
 こんな風に見つめ合っている様はまるで恋人同士のようだ。
「タナッセ、痛い」
「っ……、すまない、平気か」
 無意識のうちに強く掴んでいた手を離すとレハトは軽く頷いてこちらを見上げ、ゆっくりと微笑んだ。
「……帰るか」
 私はレハトの小さな手を取り二人帰る場所へと歩き出した。